魔法の隠し味はいつも君が(改稿)

佐倉奈津(蜜柑桜)

Prologue

❄︎ 


 ついこの間まで蒸せ返るような夏の名残りが続いていたと思ったら、過ごしやすくて気持ちの良い秋をあっという間に駆け抜けて、風が頬をぴりりと打つ季節がやってきた。太陽は早くに沈み、陽だまりの温もりはもう消えてしまった。どんよりと空を覆う雪雲が気持ちにまで影を落とすのをなんとか防ごうとするように、星や月や雪の結晶などが街の至る所をきらびやかに飾り立てる。

 小さな駅のコンコースでも、スキー場や年末年始の旅行客を呼び込む広告が、いつからか金や銀のモールで縁取られていた。

 仕事や学校が終わる時間に重なると、住宅街の駅は昼とはまるで別の駅のようだ。人混みに押されて、ひとつしかない改札口まで流される。定期券をタッチして外に抜ければ、急に身体の周りに間ができて、突然に解放された四肢がバランスを崩しそうになった。

 つま先に力を入れて踏みとどまり、すとん、と踵をつけて肩の力を抜いた。駅の屋根の向こうに開けた空を見上げて息を吐く。白い空気が立ち上り、マフラーを口元まで引き上げた。


「あれ、響子」

「たくちゃん」


 馴染みの声に振り返ると、見慣れた姿が改札を抜けてくるところだった。片手を上げて、呼びかけた相手に気づいたことを合図する。


「響子もいま大学帰りか。冷えるぞ。手袋しろよ」

「ん。この末端冷え性にはあんまり効果無いけどね」


 響子はトートバッグから赤い革手袋を取り出し、のろのろと嵌める。声をかけた匠の方は、素手のままの手を定期券ごとジャケットコートのポケットにしまいながら、響子の方へ近づいた。互いの肩が並ぶと、どちらともなく横断歩道の方へ歩き出す。


「早いね、たくちゃん。お店は?」

「今日は機械の整備が入る日。店長だけ残ってればいいから」


 響子の家の向かいに昔から住んでいた匠は、調理師の専門学校を出てから、ショコラティエの修行のためにフランスへ留学していた。つい一年ほど前に帰国して、いまは響子の通う音大の近くに立つ喫茶店併設のパティスリーで働いている。


 信号が変わって人の群れが横断歩道へ動き出す。バス・ターミナルのある大通りを横切って一つ道を入ればもう、人の少ない住宅街だ。


「響子は今日は講義?」

「うん。午前中が座学で、午後にレッスン」

「だからそんなに鞄、重そうなのか」

「楽譜以外に教科書も入ってるからね」


 いつもの道だ。ほど近い公園から《ふるさと》が流れてくる。秋に入ると同時に、この旋律が聞こえるのも一時間早くなった。規則的な二人の足音が、四声体の和音に混じる。


「何か、あったのか」


 おもむろに匠が口を開いた。


「うーん、よく分かるね」

「で、なに」


 一瞬、言葉を切って、響子は息を継ぐ。


「先生のね、コンサートに、ゲスト出演しないかって。無料コンサートだけど」


 互いに前を向いたまま、十字路を曲がる。公園の木の向こうの雲がうっすら紫に染まり、際が鮮やかな紅で縁取られている。


「プレッシャー?」

「そーんなこと、あるわけないじゃない?」


 二人揃って足を止めると、響子は顔だけ匠の方を向いてにっと笑い、Vサインを突き出した。


「大役、頂戴しました。しっかり作曲家きゃつらと向き合わないと! 響子さん、頑張っちゃいますよー!」

「そうか」

「うん」


 匠の返事を聞いたらポーズを崩して、響子は鞄から取り出した鍵を鍵穴に突っ込んだ。


「まずは曲、さらわないとね。じゃね」

「ああ……お疲れ」


 手をひらひら振り振り、響子が玄関の中へ姿を消すのを見守ってから、匠も自分の家の門を引く。閉めるドアの隙間に、響子の家の居間の電気がついたのが見えた。


❄︎ ♪ 


 いましがた点けた蛍光灯に照らされ、グランドピアノの蓋が冷徹に黒光りする。上着もマフラーも椅子の上にほっぽって、響子はピアノの前に腰掛けた。カヴァーを外し、手を鍵盤に乗せる。極度の末端冷え性である響子の指はまだ神経が凍っていて、キーを触っても伝わってくる感覚が鈍い。

 ハノンの音階、それからクラーマー・ビューロー、三十分ほど弾き鳴らしたところで、やっと皮膚に確かな触覚が蘇ってきた。

 トートバックから今日もらったばかりの楽譜を取り出し、譜面台に置いて開く。


 五指をオクターヴの幅に広げ、息を吸った。


❄︎ ♪ ❄︎


 ——あ。


 昼間に教わったレシピをスマートフォンからノートに書き写していた匠は、窓の外から聞こえてきた鋭いオクターヴ和音に頭を上げた。


 ——ブラームスか。


《二つの狂詩曲ラプソディー》第一番。激情と抒情が入り混じりながら展開していく単一楽章の作品。


 ——気まぐれな響子にぴったりだ。


 響子の先生の選曲だとしたらよく見てるな——そんなことを思って匠は再びノートに視線を落とし、メモを続ける。するとレシピを映し出したスマートフォンが揺れ、画面に「着信」の文字が白く光った。軽く弾いてスピーカーをオンにする。


「もしもし、店長?」

『ああ、良かった匠、いまいいか?」

「ええ」


 明日の業務伝達だろうかと予想し、ノートの新しいページを出す。しかし店長の話は全く違う内容だった。


『前にさ、十二月にクリスマス・イベントやりたいって話してたじゃないか。あれ、経理と話してやることに決まった』

「あ、良かったじゃないですか」


 店長がずいぶんと熱心に押していたイベントだ。パティシェが店頭で菓子の解説や客好みのドリンクとのマリアージュを考えるなど、客との交流も図ったものだ。


『日程は近日中に決まるけど、そのとき出す新作のケーキな』


 スピーカーの向こうの声が熱を帯び、強くなる。


『匠、チョコレートのプティ・ガトー、やらないか』


 一瞬、息が止まった。スマートフォンを握る手に、力が入る。


「やります」


 夕闇の向こうで、フォルティッシモのピアノの音階が主題の再現を告げる強烈なF♯音を打ち鳴らす。

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