ポストコロニアル批評から眺める山脇文学

 エドワード・サイードが「オリエンタリズム」で述べたように、先進国の文学によって語られた物語には、バイアスがかかっている。
 つまり、外国で中国の映画を見た場合、すぐカンフー映画だと思う。日本の映画だとすぐ武士が出てくる。それが実際とかけ離れていることは現地にいる人たちはわかるはずであるが、そうした「物語」を見た先進国の人は、そうした作られた「物語」を欲して現地にくる。先進国の人を喜ばせようとして、先進国の人が見てきたような世界を現地人がわざわざ提示する。こうして誤った「現実」が作られていく。

 山脇侯爵が以前、私を訪ねて日本にいらしたときも―もう、本名をうちあけても差し支えないであろう、ヴァン・ミッシェル・ヤマワーキ侯爵がいらしたとき、私は、きわめて日本的なものを見せて回った。忍者村、芸者、武家屋敷、フジヤマ。寿司は連れて行ったが、生魚は野蛮で食べられないというので、現場だけ見せて、昼食はマクドナルドで済ませた。
山脇侯爵(ヴァン・ミッシェル・ヤマワーキ侯爵)は、ご満悦で「ワトスン君、批評はさっぱりだが、今回の歓待はよかった。褒美を取らせる」と言ってくれた。
私は次も「日本的な」ところへ山脇侯爵(ヴァン・ミッシェル・ヤマワーキ侯爵)をお連れするつもりだ。

ここまで書きながら、結構真面目に批評理論を使いながら、一応はやっているのである。4年ほど真剣に学んだことを、結局ここでしか役立てていない私はなんだろうと思う。
ちなみに、本文の批評とこれまで述べてきたことは関係ない。

さて、この名作に一言だけ苦言を呈するならば、幽霊に足がないということだ。
幽霊に足がないというのは、あまりにも人口に膾炙しすぎていて、当然のようになっているが、アメリカ映画をみても足のない幽霊をみたことがない(ただし、視覚的に全体が見えなかったり、接触ができなかったりはする)。
いったいいつごろから日本の幽霊がそうなったのかは、わからない。しかし、私は侯爵が結局誰かが作り出した幽霊の「偶像」を追っただけのような気がして残念なのだ。

スウィフトが「ガリバー旅行記」を書いたのは大航海時代の幕開けが近い時期。かれは想像をたくましくして、巨人の国や、馬が話す国など、さまざまな国を想像して描いた。しかし、現実は肌の色が少し違うだけで、本質は何も変わらない人間がそこにいただけであった。

谷川俊太郎は二千億光年の孤独で次のように書いた。
「人類は小さな球の上で/眠り起きそして働き/ときどき火星に仲間を欲しがったりする」
私は、友人として欲した火星人が人類とそんなに変わらないものだと夢想する。

私は山脇侯爵(ヴァン・ミッシェル・ヤマワーキ侯爵)が、前例に惑わされない幽霊像を描き出し、新たな「物語」を提示してくれることを祈念するものである。

こんなことを言うと、山脇侯爵(ヴァン・ミッシェル・ヤマワーキ侯爵)から「本筋にも関係ないところをつついて、足下見やがって」と叱られそうであるが。

文芸辞表 石橋単四

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