第16話

 そうして、どれだけ時間が経ったのか。命の危険と隣り合わせのその状況を、少女はゆったりとした緩慢な時間とすら思えたし、またそれは豪風のような激しい早さで流れていく時間にも思えた。とにもかくにも、彼らは頂上に到達した。男は無言で、眼下に広がる景色を顎で指す。


 幾度となく男に助けられながら、一度は捨てた生に執着してまで、見ることが叶った景色。それを眼前に、少女は思った。


「ああ、普通だな」と。


 美しい、綺麗な景色である。絶景と呼ばれる類だろう。だけど、だけれども、それだけだ。



 彼女には、ずっと思っていたことがある。共に登った男のことだ。とかく頂上を見せたがるこの男は、つまるところ、あたしの自殺を止めたいだけなのではないか。その美しい景色を見れば、いたく感動して、生きる素晴らしさに目覚めると、そう考えているのではないかと。


「おじさん」


 しかし少女は、どんな言葉を繋げようとしたのか、次の刹那に忘れてしまった。少女の横に立つ壮年の男の目には涙が浮かんでいた。眼下に広がる景色にしがみつくように見つめる男の姿に、少女は考えを改める。自分の考えは、半分合っていたが、半分は間違っていたのだと。


「この季節に樹海に入ろうなんてのは、自殺志願者だけだぜ」

 会ったばかりにかけられた言葉が脳裏に蘇る。あれは男自身のことも含んだ言葉なのではないか。

 思えば、ずっとだ。命綱とも言える服を少女に渡し、クマに襲われても1人であれば抵抗1つせず、戦うことを選択しても自身の命を勘定に入れない。傍らの男は、ずっと、死を求めていたのではないか。



 この2日で気付いた。あたしは。ただ、生きていたくも無いだけだ。でもおじさんは違う。全くもって真逆、きっと彼は、死にたいが生きたいのだ。死ぬ機会と生きる意味を同時に探し続けている。そして、この景色が、男にとっての生きる意味なのだ。もしかしたら、確かに彼にはそれをあたしに分けてくれる意図があったのかもしれない。おじさんが、どんなことを思ってあたしをここまで付き合わせたのか、それは分からないしどうでもいい。でも。


 許せない、と少女は思った。例え今生きる意味を見つけたからと言って、男が死ぬ機会を探し続けるのを止める道理は無い。この先男が死ぬ機会に巡り合えたとて、それは彼が生きる意味を探す道半ばのことだろう。そんなの、どっちにしたって報われない。


 もし、彼女よりももっと老いた人間が聞いたらこう言うかもしれない。「そんなの皆一緒だよ」と。もしくは彼女がもっと若ければ、単純に、純粋に、男が今生きる意味に出会えたことを喜んでいたかもしれない。でも少女はそう言える程達観していなかったし、単に今を喜べる程少女でも無かった。


 だから少女は口を開く。

「おじさん」

「何だ?」

 男は流れる涙を隠そうともせず聞き返す。

「あたし死ぬの止めた」

「そうか」

「だからおじさんもゾンビ止めよ?」

「ハァ?!」

 止められるものなら止めている、と顔をしかめる男を手で制し、少女は続ける。


「あのね、あたし、いつかおじさんがゾンビから戻れる薬作る」

「そんなもの」

 男は鼻で笑おうとした。笑えなかった。

「うん、できるか分かんない。できないかもしれない。多分できない」

「おいおい」

「その時は、一緒に死んで?」

 寒風を受ける頬を赤らめる少女に、男は唾を呑み込んだ。

「考えておこう」

 肩を竦める男に、少女は恥ずかしそうに笑う。


「差し当たっては」

 少女がそう前置きして口にするのは、今まで意図的に避けてきた話題。それを聴いてしまえば未練となるからと、控えた問い。

「名前、教えて?」

 目をパチクリする男。

「や、訊かれなかったからな、そういうもんを気にしない質なのかと」

 少女は頭を振る。

「必要でしょ?」


 そして男は、自分の名を口にする。それは久々の感触だった。

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