第13話

 2人が身支度を終えて小屋を出たのは、それから暫く経ってからだった。

「クマの狙いは俺だ。ことが終わるまで近付くなよ」そう言われ、男から数メートル離れて後を歩いていた少女であったが、その脳裏には昨夜の惨状が浮かぶ。血に塗れながら、文字通り肉を貪られる男の姿が。

「おじさん、本当に大丈夫なの?」

 それは男の身を案じての言葉であったが、男の背中はその意図を察しているのかいないのか、

「ああ大丈夫だ。今日は昨日と違って晴れているから、あいつもすぐこちらに向かってくるだろうし、ある程度近付いてくればこちらも分かる」

 と返す。


 それのどこが大丈夫なのか。

 先を歩く男は振り返りもせずに進んでいくばかりである。


 少女にとってはとても長く感じられた時間。実際のところは半刻程経った時分。突然男は立ち止まり、言った。

「来たぞ」

 少女は辺りを見回すものの、それらしき影は見つけられない。少女がどこに、と問おうとしたその瞬間。男の見据える先、その茂みから、クマは現れた。ぬっと立ち上がったその姿の全長は男を少し上回るに過ぎないが、横幅は人のそれと比べるべくもなく、巨岩を彷彿とさせた。そしてその鼻先には、昨夜ナイフで刺された、歪な生傷が見える。


 固まる少女を背に、男は怯むことなく、クマの懐へと跳んだ。


 そのクマが、再び男の目前に現れることができたのは、嗅覚によるものである。クマの嗅覚は犬の7倍とも言われ、遠く離れた場所にある死肉、つまりは男の匂いを嗅ぎ分け、その場所を突き止めることを容易に行う。


 彼にとって、その匂いがするものは、いつだってご馳走だった。だから、そこにもう1つの臭いが混じっていたからって、警戒なんてしなかった。懸念があったとするならば、それはそのご馳走が駄目になってしまったのではないか、という類のものだ。故に彼は男の接近を許した。ご馳走が逃げる心配こそすれど、近付いてくる分には歓迎だ。


 男はその隙に、懐のガスバーナーに点火した。炎は、クマが感じ取っていたもう1つの臭い、男が先の小屋で身体に浴びていた石油に伝播し、瞬く間にその勢いを増す。


 しかし。過去の獣害事件でも証明されていることだが、クマは、火を恐れない。それは、単に「見たことが無い」からである。2人の前に現れた彼もまた、例外では無かった。彼は火達磨になった男を見てなお、それを捕食対象と思い疑わなかった。それが、彼の隙となった。


 男は右手を振り上げ、彼の首に手を回し、そのまま組み付いた。その甲には、深々と束まで刺さったナイフがあった。男は小屋で自ら手にナイフを刺していた。男のゾンビとしての治癒能力はナイフを手に貫通させたまま傷口を塞ぎ、手にナイフを固定している。そして炎に纏わりつかれたクマがもがくより早く、左手もクマの首元に運ぶと、右手のナイフを自身の左手首に突き刺し、握りこんだ。

「ぐるぅああ!!」

 燃え盛る男を背負う形となったクマは、たまらず唸り声を上げる。クマは男を振り落とそうと暴れ狂うが、ナイフによって固着した男の手は外れず、また全身でクマに張り付く男の力は強剛であった。炎がクマの背に移り、そして全身を覆うまで、そう時間はかからない。男の赤とクマの黒は、混じり合い、やがて黒は飲み込まれ、苦悶の声を上げながら転げ回るそれは、やがて凍結した急斜面から転げ落ち、少女の見る間に崖の下へと消えていった。時間にして5分にも満たない、片時の攻防であった。



 滑落事故の多い不安定な足場にクマを誘き出し、自身共々火を付け、道連れに崖下に落下する。策と言うにはあまりに不確定要素が多く、また作戦と言うにはあまりにも自身の安全を考慮しない男の愚行を、止められなかったことを少女は悔いた。



 取り残された少女は、男から借りたピッケルを手にバランスを取りながら、1人と1匹が滑落した跡を慎重に追いかける。何度か転びそうになり、その度に体制を立て直しながら、やがて少女は男が落ちた崖に辿り着く。恐る恐る覗き込む少女。肉の焼けた臭いが鼻を刺激する。眼下には、焼け焦げ、火の消えたばかりであろうクマの亡骸。そして、その下から這い出、置き上がる男。全身が擦り切れ、焼け爛れ、が見たら死体にしか見えないであろう男は崖上に少女の姿を認めると、文字通り焼けた喉で言う。

「おい、危ないから離れていろと言っただろう」

 胸を撫で下ろした少女も言う。

「だって、あたしが来なかったらおじさんどうやってそこから上がるの」


 男は苦笑いして誤魔化した。


 少女は近くに生えていた木にロープを括り付け、眼下の男に向けて垂らす。

「待ってくれ、流石にまだ身体が治らん」

 男はそう言いながら立ち上がり、手のナイフを引き抜く。血が零れ白い雪に滴り落ちた。

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