028 『お父さんが作った難読漢字ドリルあげるから!』

 中間テストも終わり、ひと段落した五月二十五日、土曜日の昼下り。


 みなとは撮影に行き、奈月なつき蓮花れんかを連れて買い物中なので、うちには僕と翔奈かなしかいない。

 湊と蓮花と違い、翔奈はどちらかというとインドアタイプなので、あまり外で遊ぶ––––みたいな事はない。

 たまに友達を連れて来たり(大体僕が居ない時)、友達の家に遊びに行ったりとか、そんな感じだ。


 で、今日は遊びに行ったりする予定はなく、珍しくリビングで勉強をしていた(いつもは自室でしている)。

 勉強の邪魔をしちゃ悪いと、僕はリビングから離れようと思ったのだけれど、翔奈に声をかけられた。


「ねえ、お父さん」

「ん、なんだ?」

「お父さんってさ、英語どのくらい出来るの?」

「そうだな、センター試験で点数の取れる英語なら、それなりに出来るよ」

「……なんか、変な言い回しだね」


 そう言って、翔奈は眉間にシワを寄せる。


「漢字は読めるけど、書けない––––みたいなもんだ。英語を日本語に訳せるし、意味も分かるけど、喋ったりは出来ない」

「発音が悪いってこと?」

「文法が自力で組み立てられない」


 翔奈は首を傾げ、尋ねる。


「それは、えっとどういうこと?」

「日本の英語教育はな、ちょっと間違ってるんだ。よく考えろ、六年間真面目に英語を勉強しても喋れないだろ?」

「……確かに」

「最近はちょっとずつ変わりってきてるけど、日本の英語教育はあくまで英語を教科の一つだと考えているんだ。本来はコミュニケーションのツールなんだけどな」


 日本の英語教育は、『読むこと』『書くこと』に重点を置き過ぎて、『話すこと』をないがしろにし過ぎている。

 その結果、六年間真面目に英語を勉強しても喋れない––––という結果になる。


「……なんか、難しいね」

「そうだな、ただ、翔奈はちゃんと英会話スクールで、コミュニケーションの方を学んでるから特に心配はいらないよ」


 ちょっと教育者としてのグチみたいなことを口走ってしまった。反省だ。職業病かもな。


「まあ、正しい英語はないってことさ。正しい日本語が無いようにな」

「お父さんって、時々深いこと言うよね」

「先に生まれたから先生なんだぜ」

「そのドヤ顔、生徒の前でもやってるの?」

「…………」


 そんな顔した覚えはないけどなぁ。ていうか、もしかして僕はこういうことを言うたびに、昔からドヤ顔をしてたのか⁉︎

 うわ、ちょー恥ずかしいやつじゃん!

 ……なんか、恥ずかしくなっちゃったので話を逸らしちゃお。


「ま、まあ、話せるからって、英語のテストでいい点取れるわけじゃないからな」

「そうなの?」

「日本語話せるからって、国語のテストで点数取れるわけじゃないだろ?」

「……今日のお父さん、なんかすごい先生感あるよ」

「褒めるな、褒めるな」


 なんか、また恥ずかしくなっちゃったじゃん。


「お母さんがいつも『お父さんはすごい先生だった』って言ってて疑問に思ってたけど、ちょっと分かった気がする」

「だから、褒めるな––––あとこっそり近付いて頭を撫でようとするな」

「ちょっとだけ」


 僕は少しだけ不満な表情を浮かべてから、まあ––––これも娘とのスキンシップかと思い、渋々翔奈の手を取り、自分の頭の上に置いた。


「わ、すごい、髪の毛サラサラ」

「子供だからな」


 あと、昨日こっそり湊のシャンプー使ったからな。バレたけど(特に怒ってはいなかった)。

 翔奈はその後、三分くらい僕の頭を撫で回してから満足したのか、勉強に戻る。


「でもさ、お父さん」

「なんだ?」

「やっぱり正しい日本語も、正しい英語もあると思うんだよね」

「ほう」


 僕はそれを聞いてニヤリと笑った。


「翔奈よ」

「なに」

「食べ物は英語で何と言う?」

「……バカにしてるの?」

「多分、『Food』って考えたろ?」

「当たり前じゃない」

「リヴァプールでは、『Scran』って言うんだぜ」

「……それ意味が違うと思う」

「いいや、合ってるのさ、リヴァプールではな。日本語で食べ物を食い物と言っても、意味は同じだろ?」

「少し表現が悪いけどね」

「まあ、そうだな」


 僕は苦笑した。実際『Scran』は直訳では、『食べカス』とか、『食べ残し』みたいな意味だからな。


「じゃあ、『とても』は英語で何て言う?」

「『Berry』でしょ」

「発音いいな」

「ありがとう」

「ま、『very』だけどな」

「…………バカにしてるの?」

「違いが分かるなら、大丈夫だ」


 多分今の僕の顔は、湊譲りのニンマリ顔だ。逆に翔奈は膨れっ面だけど。


「で、この『very』なんだけど、マンチェスターの訛りでは、『Dead』って言うんだぜ」

「ねぇ、お父さん……嘘教えてない?」

「英検一級でTOEIC満点の人に教わったから間違いない」

「その人、誰?」

「今年から入った英語の新任の先生」


 その人は、眼鏡をかけたボブカットのシャイな女性なのだけれど、英語だけは本物で、教師陣はみんなビックリしてる。

 各国の訛りや(日本語で言うなら『めんこい』とか『おおきに』とかだ)、流行り言葉にも精通しており(日本語で言うなら『ぴえん』とか『タピる』とかだ)、なんなら死語まて知ってる(日本語で言うなら『ハイカラ』とか『チョベリバ』とかだ)。

 もう僕なんか、空き時間があれば彼女の授業を受けたいと思っているくらいだ。本当によくこんな人を見付けて来たなと、学校側を褒めてやりたい。


「めちゃくちゃ優秀な人だから、翔奈も高校生になったら色々聞くといいよ」

「へー、ちょっと高校に行くのが楽しみになった」

「もちろん、現国で分からないところはお父さんに聞いてもいいぞ!」

「それは絶対にやだ」


 それは絶対にやだ。

 それは絶対にやだ。

 それは絶対にやだ。

 それは絶対にやだ。

 それは絶対にやだ。

 辛い。


「なんでだよ、何でそんなこと言うんだよぉ……」

「だってなんか、恥ずかしいし」

「恥ずかしくない、全然恥ずかしくない! とりあえず、お父さんが去年作った『難読漢字100問ドリル』あげるから!」

「それ、あのお母さんが『鬼畜』って言ってたやつじゃん」


 そう、僕お手製の難読漢字100問ドリルは、宿題の量を減らす代わりに考案された、難易度を極限まで上げた鬼畜ドリルなのだ。


『酸漿』『石蓴』『烏鵲』『瑰麗』『孅い』『瓩』『蜚蠊』『躑躅』『塒』『齷齪』『饂飩』『雛罌粟』『漱』『駱駝』


 などなど、見たことも聞いたこともない、漢字が君を待つ! という、超やりがいのある漢字ドリルなのだ!

 この漢字ドリルを提出課題にするぞと言えば、みんな言うことを聞くからな。


 僕は仕事部屋から、漢字ドリルを一つ持って来て、翔奈に渡した。


「プレゼントだ」

「いや、要らないし……」

「まあ、遠慮するなって」

「いや、してないし……」


 とは言いつつも、翔奈は一応漢字ドリルをペラペラとめくり––––そして、目を細めた。


「なんか、見てると目がしょぼしょぼする」

「なるべく見たことのないような漢字をチョイスした」

「……これ、お母さんはどのくらい出来たの?」

「そうだな、これは流石の奈月でも、七問分からなかった」

「……ってことは、残りの九十三問は分かったの?」

「まあ、そうなるな」


 奈月は漢字にとても強い。流石は我が最強の教え子よ、現国の全てを叩き込んだ甲斐があったというものだ。


「ちなみにもうすぐ、パワーアップした200問バージョンと、四文字熟語ドリルもリリース予定だ」

「絶対にやりたくない」

「なんでだよ⁉︎」


 そんな、苦労して作ったのに……。

 でも僕は諦めないぞ!


「じゃ、じゃあ、次に作ろうと思ってる回文ドリルと、倒語ドリルならどうだ⁉︎」

「それ、生徒からのウケはどうなの?」

「……どうだろう、分からない」


 僕がそう嘆息すると、翔奈は悪戯っぽく笑い、


「Rise to vote,sir」


 と言った。

 ……うん? おかしいな、なんで『sir』が入る?

 意味は確かナイトだぞ?

 ……いや違う! この場合は『先生』を意味する! この場合は間違いなく僕を指している。

 つまりこの英文は、翻訳すると『先生、ぜひ投票しましょう』となる。

 でも、おかしな英文だ。妙な引っかかりを覚える。

 僕が腕組みをして考えていると、先程の英文を翔奈がノートに書いてくれた。


『Rise to vote,sir』


 うーん、変な言い回しだとは思うけど、意味は通じるし、いや待て。

 待て待て待て待て待て。

 これ、もしかして……うん、やっぱりそうだ、間違いない。

 この英文は、回文になってやがる! 上から読んでも下から読んでも同じ英文になるぞ! うわっ、やられた!


「……やるな、翔奈」

「ふふっ、でしょ」


 翔奈はにっこり笑い、宣言する。


「Now I won」

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