003『流行りは嫁からママへ』

 相変わらず翔奈かなは、話しかけても無視だし、目も合わさない。

 早くなんとかしたいと思いつつも、娘とこんな感じで喧嘩をするのは初めてだったので、どうしていいかも分からない。

 ネットで『娘と仲直りする方法』なんて調べてみたが(この行為を奈月なつきに女々しいと言われてしまった)、正直『女の子にモテる方法』と対して変わらないような気もする。

 調べても意味はない––––という意味で。


 そもそも僕は、仲直りをしたい気持ちはもちろんあるが、『留学』に関する話し合いをちゃんとしたいのだ。

 留学にだって沢山種類がある。短期留学とか、交換留学とか。

 短期留学なら二週間から半年くらいまであるし、僕の勤めている高校なら交換留学もある。

 最初から三年間も向こうに行くのは、時期尚早じきしょうそうだと思う。


「あなたは年頃の娘の扱いが上手だと思ってました」


 娘達が寝た後、奈月は昔を思い出すようにそう言った。


「なんでそうなるんだよ……」

「ほら、私の先生だった頃はそう見えたんですよっ。相談にもよく乗ってくれましたし、妙に気が効く所もあって……」


 そんな所に惚れちゃったんですよね––––と奈月は僕を見つめる。

 僕は恥ずかしくなり視線を逸らした。


「……懐かしい話だ」

「そうですか? 私は昨日のことのように思い出せますよ」


 まあ、僕もそれなりに覚えてはいる。例えば、


「よく勉強を教えてくれって、家に押し寄せてきたな」

「ほら、覚えてるじゃないですかっ」

「学年一の才女がな」


 おかげで奈月の進路が僕に永久就職となった時は、苦労したもんだ。

 主に僕が。


「『勉強を教えてくれ』だなんて––––」


 奈月はニッコリと微笑んだ。


「建前に決まってるじゃないですかっ。本音はあなたに休日も会う口実ですよっ」


 熱烈な猛アピールは、休日でも通常営業のように行われていたのだ。


「おまけに晩御飯の買い物まで済ませてな」

「だって、先生ったら––––って、今は"あなた"でしたねっ」


 奈月はペロリと可愛らしく舌を出した。

 奈月は時々僕のことを昔のように『先生』と呼ぶ事がある(本人曰く中々直らないらしい)。

 奈月は「こほんっ」と咳払いをしてから、話を元に戻す。


「あなたったら、まともに食事も取らないで、カップ麺ばっかり。そんなんじゃ、身体を壊して当然ですよ?」

「助かってたよ、色々な」


 教師という仕事は思ってたよりも忙しく、まともな食事さえ難しかった。

 授業計画、小テストの作成、部活動の顧問とかとかとか。やることは尽きなかった。

 日常生活に支障は出るし、精神的に疲労もしていた(教師がブラックと言われるのも納得だ)。

 そんな時に優しくされたら、ね。好きになっちゃうよね。

 当時の奈月は、もう僕の母親のように世話を焼いてくれた。


「なんか、通い妻と言うより、お母さんって感じだったよな」

「そうですね、あの時私は……JKママって感じでしたねっ」

「JKママってなんだよ……」


 初めて聞いたぞ、そんなワード。というか破壊力強過ぎるだろ。パワーワードだ。


「ほら、バブみを感じてオギャる……的な?」

「当時はそんな言葉無かったろ……」

「時代を先取りし過ぎてましたねー」


 当時は『〇〇は俺の嫁!』って感じだったかな。嫁からママに移行とはな。


「現国の教師としては、新しい言葉が増えるのは歓迎だけど、最近の言葉は……色々おかしい気もするよ」

「そうですか? あなたは疲れるといつも私に膝枕を要求して––––」

「その話はしなくていい」


 そう、当時の僕はもうそのくらい毎日疲れていたんだ。

 決して奈月に母性を求めていたのではなく……そう疲れちゃって、なんか眠くて、それで近くに枕がなくてだな……そこにちょうど奈月の膝があったから枕にしただけであり、膝枕をしてもらいたかったわけではないのだ!

 うん、そう。そういうことだ。

 これはその時だけの話であり、娘達が産まれてからは一切無い。


「ほら、娘達は寝ていますよ? 今は二人きりです」

「……だからなんだというんだ」


 奈月は悪戯っぽくクスリと微笑んだ。


「ママに甘えてもいいんですよ?」

「…………」

「ほーらっ、甘えてもいいんですよ〜? あなたは小さな男の子なんですから、何にもおかしい所はないんですよー」

「…………」


 僕は無言で奈月の膝に頭をちょこんと乗せた。

 ……いや、ちょうど横になりたいなって思ってただけであり、ちょうど奈月の膝がそこにあったからであって、僕は決して膝枕をしてもらいたかったわけではない。断じて違う。


 それに奈月も奈月だ。

 お前は僕の嫁であって、ママではないだろ。

 甘やかし上手な(身体的には)歳上の女性ではあるけどさ、ママはないだろ、流石に。うん、ないないない。

 などと文句を垂れつつも、弾力性のある感触を側頭部そくとうぶに感じると(僕は膝枕は横向きで寝るのが好きだ)、落ち着くし、心が休まる。おまけに目の前––––というか、頭の上には奈月の母性の塊がたゆんと存在感を主張している。

 奈月が少しでも前傾ぜんけい姿勢を取ると、僕の頭は奈月の膝と胸にサンドイッチされてしまうので注意が必要だ(結構息苦しい)。

 側頭部側の膨らみを警戒していると、奈月の手が僕の後頭部に軽く添えられ、


「はーい、いい子、いい子っ」


 撫でられた。さわさわ、なでなでと。


「言っとくけどな、僕は子供じゃないからな」


 奈月は肩を震わせ「ふふっ」と笑う(ついでに胸も揺れた)。

 ああ、分かってるよ! 見た目は子供だよ! ちくしょう! 中身はせめて大人でいてやる!


「あなたが小さくなってからは、なんだかこうやっている時間は増えましたよねー」

「……そうだな」


 ……先程の発言の一部を訂正しようと思う。

 先程僕は、『娘達が産まれてからは一切なかった』と述べたが––––それは身体が小さくなる前までの話だ。


 身体が小さくなってからは、よくこうして奈月に甘えている。


 ……不安だったんだ。

 小さな身体もそうだが、生活面や自分の仕事の事、家族の事。

 仕事が無くなったら稼ぎは無くなるわけだし、急に身体が小さくなるなんて聞いたこともなかった。

 もしかしたら死ぬんじゃないかとさえ思った。


 そんな時に、昔のように優しくしてくれたのが奈月だった。

 大丈夫だよ、と。優しく毎日のように頭を撫でてくれた。

 それ以降、時折こうして僕は奈月に甘えている。娘達にはバレないように、ね。

 奈月の指がそっと僕の額をなぞり、髪を分ける。


「こうしていると、なんだか本当にあなたのママになっちゃったみたいです」

「見た感じその通りだから、否定は出来ないな」


 はたから見たら、紛れもなく母親に甘える子供に見えることだろう。

 嫁からママに移行したのは、どうやら世間だけではないようだ。


「大きなあなたも好きでしたが、私は小さなあなたも好きですよ」


 奈月は少し熱っぽい顔で僕を見つめている。そして、ぐっと顔を近づけてきた。

 近い、とても近い。奈月の温かい吐息が直にかかるくらいの近さだ。はあはあと、呼吸の度に、奈月の吐息が僕の頬に吹きかかる。

 このままキスをされてもおかしくないくらいの近さまで、奈月は接近してきた。


「……ねえ、あなた」

「な、なんでしょう」


 緊張した面持ちで僕は次の言葉を待つ。そして、


「少しお耳が汚れています、耳かきをしてあげますねっ」

「……お願いします」


 顔を近付けられたのは、耳の汚れを見るためだったみたいだ。

 ……まあ、これはこれで結果はオーライかもしれない。

 耳かきしてもらえるしね。

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