第20話 怒涛


 後退りかけた私の手を掴むのは、此永さんに他ならなかった。


「まさかこんな所で会えるなんて!いっちゃんさんとはもっとお話がしたかったんですよ!この間はみんなでワイワイしちゃったから、全然喋れなかったでしょう?」


 この機を逃すまいとした、彼女の強い瞳。

 すこぶる友好的な彼女に、私の笑みは引き攣ったままだった。


「なんだ、此永くんの知り合いかい?」

「今度のプロジェクトでちょっと。先生はサークルに関わってくださらないでしょう。論文でお忙しいんですから。」

「そうだねぇ。」


 この常連客は教授だそうで。お酒が好きで、こうやって時たま学生を連れてくるらしい。女子大生でついてきたのは此永さんが初めてだと笑っていた。


「私が知りたいのはクラブじゃなくて、あくまで教授の研究についてで、教授はお酒がないと話してくれないんですよ。でも研究については論文が出来たら読むことにします。今はいっちゃんさんとお話がしたいです。」

「ハイ…。」

「敬語やめてくださいよ同い歳でしょ?」

「ハイ…。」

「単刀直入に聞くけど、佐々谷先輩とどういう関係?」


 言葉に詰まった。好き合ってるのに付き合ってません。友達以上恋人未満?なんてベタな。でも実際それで止まっているわけで。止めているのは私なんだけれども。あの夜、口付けを交わす寸前の勝ち誇ったような笑みがフラッシュバックする。


「………呪われている。」

「…うん?」


 一番しっくりきた表現は此永さんには伝わらず。

 それで納得するわけもない此永さんが首を傾げながら、私の腕へ絡み付いた。


「付き合ってる?」

「いいえ…。」

「ただの友達?」

「…今はまだ友達でいてほしいことを、ハルが見抜いている。」

「どうして。」

「ああ見えてあの人鋭くて、」

「違う。どうして恋人になりたくないの?今はまだ、ってことはいっちゃんも佐々谷先輩が好きなんでしょ。」


 内巻きの黒髪が顔を寄せた拍子に揺れる。力強い瞳は、とても丁寧な化粧で彩られていた。


「私はもっと美術を突き詰めたい。それで、これからの社会を担う人達の、心に寄り添えるような教師になりたい。だから今は、恋人に現を抜かしている場合じゃない。」


 言葉にすると背筋が伸びる。その背筋には、いつも冷たい刃が当てられている気がした。それは自分自身からの、脅迫じみた激励。


「私は弱いからハルに依存すると思う。それが嫌。ハルが初めて、私を画家として認めてくれたの。そんな人をがっかりさせたくない。」


 話し終えて小さく息を吐く。それは此永さんの大きなため息と重なった。


「本当に弱いんだね。」


 一気に烏龍ハイを煽る此永さんは、雑にグラスをコースターへと置いた。


「私が佐々谷先輩と初めて会ったのはね、高校の時のオープンキャンパスなの。私昔から機械を分解したり弄ったりするのが大好きで、綺麗じゃないし社交的でもないからずっと気味悪がられて、馬鹿にされて生きてきた。親にも機械科に進むの反対されたの。女の子なのに、って。専門学校出て公務員にでもなったら?って。でも諦められなくて、機械科を見に行ったの。そこでも馬鹿にされて、私泣きながらキャンパスの中歩いてたの。そしたら佐々谷先輩が声かけてくれて、泣いてる理由話してさ。そしたらあの人笑って、私の頭撫でて言ったの。好きなことするのに性別も、周りの目も関係ないよって。だから私猛勉強してダイエットもしてメイクの研究もして!今佐々谷先輩と同じ大学にいるの!学部は違うけど!みる?!肉割れ出来るぐらい体重減らしたんだからね!!」


 ブラウスの裾を捲る此永さんを必死に止めると、店長が顔を出した。なんの騒ぎかと、不審に思われたらしい。何でもないんです、と二人で抱き合って誤魔化すと、店長はあらそう?とカウンターの方へ歩いて行った。


「いっちゃんずるい。勉強を盾に先輩から逃げようとしてる。」


 私を抱きしめたまま、此永さんが呟く。


「死に物狂いで綺麗になって、皆がちやほやしてくれるようになった。でも佐々谷先輩だけは違うの。それじゃ意味ないのに。先輩に告白した子、全員振られてるんだよ。理由は誰も教えて貰えなかったって。いっちゃんを見たらそんなのすぐ分かった。…こんなに細くて可愛くて、特待生になれるほど成績だって良くて、好きな人に好かれてるくせに、なんで逃げるの?!」


 正直此永さんの捲し立てに頭なんか回らない。あっけに取られたまま、私はレザーのソファに倒された。視界の端で、店長と目が合った気がする。


「意気地なし。そんなんじゃ先輩がかわいそう。中途半端に誑かすならとっとと突き放してよ。」


 此永さんの冷たい指先が私の首へ触れていた。


「ていうかこんなとこで働いてる人間が教師?世間体とか知らないの?先輩だって知ったら幻滅するに決まってる。」


 この激情。間近で見た双眸にはカラーコンタクト。冷たく鞣したその目に、私は息が止まる。


「申し訳ありませんお客様。」


 店長が、ソファの前に膝をついていた。


「お時間ですので。いぶきちゃん、失礼して。」


 場内指名を頂かない限り、本指名でないキャストは十五分ずつ入れ替わる。

 此永さんは口惜しそうに、退散する私を睨みつけていた。またね、とか、そんな社交辞令をお互いが発することはなかった。


 バックヤードに入るや否や、店長は真面目な顔で私を見た。


「どっちかって言うと向こうの逆恨みっぽいね。あの子に住んでるとこ知られてる?」

「…いや?」

「じゃあもう今日は帰りなさい。あのお客さんいつも閉店まで居るし。その顔じゃ接客続けられないと思うよ。」

「…えっそんな酷い顔してます?」


 店長の両手が私の頬を包む。親指が、知らぬ間に流れていた涙を拭った。


「俺には震えて泣いてるように見えますけど?」

「……本当ですね。」

「怖い思いさせてごめんね。」

「いえ…。」

「着替えておいで。俺が送ってくから。」

「歩いて帰れる距離なんですけど、」

「追いかけられたらどうすんだよ馬鹿。首絞めようとしてたぞあの娘っ子。」


 凄む店長に負けた。迷惑かけてすみませんと謝れば、一人にしちゃって悪いけど、と優しい声が返ってきた。店長はすぐさま穂塚さんへ指示を出し、車を取りに店を出た。私も急いで着替えて店長の後を追う。此永さんが座るテーブル席を見やる余裕は無かった。


 車内は香水の匂いに満ちていた。

 黒の内装に黒の店長。どこまでも夜の人だ。


「伊月ちゃんは二人の人間を狂わせてるわけだ。」


 店内よりも幾分砕けた様子で、店長はカラカラと笑った。


「そんなこと、」

「あの娘のアレは相当だぞ。そしてあの子がああなるくらいその…佐々谷?って奴も一心不乱に伊月ちゃんに惚れ込んでる。じゃなきゃ恋敵に直談判しないだろ。」

「盗み聞きだ。」

「こちとらどのカウンターでどんな話をしてるのか、全部把握してんだよ。今日みたいなことが起きるから。あの娘っ子をぶん殴りに行こうとした円ちゃんを止めるの大変だったんだからね。すぐ別な席に着かせましたけども。」

「……すみませんでした。」

「わかればよろしい。」


 咥え煙草のまま、店長がアクセルを踏み込んだ。狭い路地を、徐行を知らない車が駆けていく。窓に頭をぶつけた間抜けな私を、店長が笑っている。


「魔性には見えないけどねぇ。」

「…私達を狂わせているのはあくまで美術です。」


 小娘の見栄と虚勢と責任転嫁を見抜いているのだろう。店長の口角は下がらない。


「厄介だねぇ。」

「そうですね。」

「それを良しとしてる伊月ちゃんとその男がね。」

「…。」

「あと狂ってる自覚があるのもヤベェと思うね。普通おかしいって分かったら引き返すもんでしょ。」

「しょうがないじゃないですか好きなんだから。」

「男が?」

「美術が!」


 店長は煙を吐いて哄笑する。


「二の次にされる男の身にもなってみな。」

「二の次に出来ないから踏み込めないんです。」


 店長はブレーキを思いっきり踏む。つんのめる私はシートベルトに守られていた。


「………まあニュートラルって選択肢もあるかね。あれ伊月ちゃん免許持ってる?」

「まだです…。」


 家の前のコンビニ。これだけ短い道のりで酔ったのは初めて。もしかしていつぞやの円さんは車酔いで吐いていたんじゃなかろうか。


「また進展あったら聞かせてよ。お兄さんこう見えても人の恋バナって大好きで。憎しみ込み込みで混み入ってるのは特に。」

「……善処します。」


 カラカラ笑う店長の耳元で、数多のピアスが煌めいていた。私は車を出る。


「あともし一人が怖くなったら、その佐々谷君を呼びなさい。」

「…………善処します。」


 助手席のドアを閉めると、車はすぐに夜へと消えた。エンジン音も去り、音のない秋の夜長。

 泣いてたことさえ気付かないほど呆気に取られすぎて、正直なんの実感もない。怖いも寂しいもない。怒る気力もない。最早誰とも会いたくない。


 もういっか、と、呟いた言葉が闇に消えていくのを見届けて、私は扉をしっかり閉めた。

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