第8話 Girl's talk


 夜の帳は湿気を含んで、重く重く垂れていた。

 新しく始めたバイトというのは水商売。少し遠い市の小さなお店で、黒服として働くことになったのだ。是非キャストで、というオーナーの提案を何度も断って、私は今日もジャケットを羽織っていた。


 水商売に抵抗がなかったのは、母と姉二人がこれで生計を立てていたから。そしてこの仕事は、馬鹿とブスには勤まらない。同じ道に足を突っ込んでみて、つくづく実感していた。


 ただそれが、世間的には身を売ることと同一視されがちで、軽蔑の対象になりやすいこともわかっている。なまじっか真面目に学校教育を受けてきた私は、つまらない世間体や常識の物差しも一応持っていて、捨てきれない尺度の狭間で揺れていた。


 仕事終わりは小腹が空く。時間に余裕があるか、売上の良かった日は従業員みんなで、オーナーに夜食を奢って貰ったりしていた。でも今日はどちらでもない。私は自宅近くのコンビニに下ろしてもらった。ツナマヨのおにぎりでも食べようかと思って。

 

 眩しい店内から、湿度の高い夜へ出る。レジ袋からおにぎりを取り出して闇へと進むと、右側に人の気配と、随分苦しそうな呻き声がした。入るときには気付かなかった。


「……だいじょうぶですか。」


 うずくまる背はどうやら女性で、カールしたロングヘアーがアスファルトを撫でていた。同業者だろうな、と、一目でわかる綺麗な身なり。頑張って飲みすぎたのかな、とか、色々考えながら肩に手を添えてみると、涙で取れかかった化粧の奥に、既視感のある艶やかな顔立ちがあった。


「………まどか、さん?」

「………この間のガキンチョ…!!」


 一生会わないだろうなと思っていた人と偶然の再会。円さんはどうみても泥酔中で、綺麗な顔をとても台無しにしながら私へ食ってかかった。


「あんたねぇ何様のつもりなのうぇっ……。」

「待って待って待って円さん吐くなら袋にしてください!これ!あげるから!」

「肩貸しなさいよ豆粒〜!」

「豆粒に寄りかかると共倒れしますけど…!?」


 フラフラのヨロヨロだけど威勢だけは良い円さんは、私のおにぎりが入っていたレジ袋をお守りのように握り締める。


「円さん家どこですか?送ります。」

「そこ曲がってそっちの二階の右端。」

「……。」

「……なによ。」

「私そこの一階の左端です。」

「ほとんどお隣さんね〜!」


 わしゃわしゃと、愉快そうに私の頭を撫でるのは、泥酔しているせい。蟠りになって然るべきやりとりを、彼女はすっかり忘れているらしかった。


 酔っ払いを担いで階段を上がるのは本当に大変だった。家に入り、真っ先にトイレへ駆け込んだ円さんを放っておく気にもなれず、とりあえずシンクのコップに水を汲む。見渡せば自室の間取りとほぼ変わらないワンルームだ。私はそのまま、濃いピンクのソファの足元に出来た洗濯の山を畳み始めた。我ながら勝手に、と思ったけれど、多分あの人こういうことで怒らないだろうな、とも思った。なんならついでにお風呂沸かして、とか言いそうなタイプ。私はそっと風呂場に行って、サッと洗ってピッと風呂自動を押した。


「お風呂沸かしててくれても良かったのに。」

「…ドンピシャ。」


 コップの水を平らげて、綺麗に畳まれた洗濯物を眺めながら、回復した円さんが笑った。私は無言でVサインを作る。彼女は目を輝かせて、一番風呂は譲るわよ、とウインクした。帰って入るから良いですと断れば、どうせ秒で帰れるんだから泊まっていけと引き止められた。

 

「あんた春彦の彼女なの?」

「あの時はハルが困ってたから。」

「なんだぁ、茶化すだけ損だったわね。」

「まだ好きでちょっかい出してる的な?」

「まさか。……あんたも春彦もとは絶縁するタイプね?だからあんなに嫌な顔してたのねぇ。悪いことしちゃった。」


 浴室はよく声を反響させる。何故ほぼ初対面の人間と裸の付き合いをしているのか、答えは私の長髪にあった。


「本当良い髪ねぇ。どこまで伸ばすの?」

「…飽きるまで?」


 香水といいシャンプーといい、円さんはいつでも良い匂いがする。すでに腰に届きそうな私の髪を洗う手付きはプロのそれで、私はおずおずと鏡越しに円さんへと問う。


「昼間は美容師さんですか?」

「そう。自分のお店持ちたくて、資金集めのために夜職やってるの。…あんたは?ていうかあんたまだ学生じゃないの?」

「学費のためです。あと伯父に借りた入学金、自分で返さなきゃいけないので。」

「見かけによらず苦労してんのね。」

「やりたいことをやるためなので苦労ってかんじもしなくて、今のところは、別に。お客さんの相手なんて殆どしないし。」

「勿体無いわねせっかく可愛いのに。…ああでもあんた愛想笑い下手そう。それに艶っぽい話も苦手でしょう。」

「…まあ、そうですね。」


 苦笑を返せば、円さんはクスクスと笑った。面倒見の良い人なんだろうというのが、なんとなく伝わる笑い方だった。ついでに化粧を落とした円さんは、親しみやすい温厚な顔立ちをしていた。


「あんたも絵描き?」

「学部は芸術科です。」

「…春彦といいあんたといい、お絵かきの何が良いんだか。ちょっと理解に苦しむわ。」


 ため息混じりに呟く円さんの、手先は相変わらず心地良い。気を抜き丸めた私の背を見て、あんたほぼ骸骨じゃない、と、キラキラのネイルをした指が背骨をなぞっていった。


「…お絵かき嫌いですか?」

「美術はいつでも2だったわよ。…普通はどこかで、子どものやることって、区切りがつくものじゃないの?」

「……普通はそうでしょうね。」


 円さんは自分の言葉が、どこかで私の怒りを買うと思っていたのか、特に調子の変わらない私を訝しげに見ていた。


「私の周りで、自分が普通だと思っている子はいません。みんなどこかしら狂ってるって、自覚してる。だからこの道を選んでいるのかもしれないし、美術に出会っておかしくなったのかもしれない。絵を描くって、物凄く擦り減るんです。向き合えば向き合うほど、至らないところばかりが目について。そのくせ理想だけがはっきりして。それでも好きなことだから。これだ、って思えるものに出会えたから、なりふり構わずやってられるんだと思います。…あくまで私の周りの話ですけど。」


 シャワーでトリートメントを流しながら、円さんはなるほどね、と呆れたように笑っていた。


「でも確かに、成長過程で失うはずのものを持ったまま、っていうのはあるかも。子どものままっていうか、おかげで協調性も社会性も欠けてるし、信念がある分譲らないし。必ず悪目立ちします。」

「あんた相当残念ね。」

「自覚はあります。」


 気付けば髪はタオルに包まれていて、留めたところを優しい指が撫でていた。


「まあでも、そうね。夢を見つけたときのことって、その道を歩む以上、絶対に残っているものだもんね。…結局は昔の自分の延長線上か。」


 悪戯っぽく笑った円さんは、後ろから私を抱きしめて、痛いほど頬をこねくりまわした。


「美容師になりたいって思ったの、小学生の時だもの。案外私も、子どものままかもしれないわね。」

「いやしっかり成長してませんか…立派な胸あたってるんですけど…。」

「なあに羨ましいの?おかげでちっとも痩せやしないんだから。」


 先にあがるわね、と浴室を出た円さんはお腹空いちゃった、と言って、お湯を沸かしてカップラーメンを二つ作っていた。ひとつを私に差し出して、食べるでしょ?と首を傾げる。折り畳みのビビットピンクのテーブルには大きなおにぎりと砂糖にまみれたドーナツととびきり甘いカフェオレ。痩せないのは減らない乳ではなく、この夜食のせいではないのかと、満足そうに頬張る彼女を見ながら思っていた。でも健康美と呼ぶべき円さんのグラマラスな体型は、いつか絵にしたいくらいに魅力的なものだった。

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