第2話 初夏のひ


 佐々谷春彦という人は、ふわふわのぽやぽやに見せかけて、とても芯のある青年だった。

 

 私が春彦と一緒に授業を受けるようになってから月日は流れ、あれだけ咲き誇った桜も今や青々とした葉に小さな実を付けていた。小学校の授業でソメイヨシノの実を食わされてから桜はずっと嫌いなんだけれども、何食わぬ顔で葉をもぎ取り草笛を披露して、桜で燻製するとなんでも美味しいんだよね、なんて呑気に公園を歩く春彦を眺めていたら、ああ春も悪くないなと思えてしまっていた。


 公園では見知らぬおじさんがサックスの練習をしていて、それがまた上手いもので、ついでにおじさんもすこぶるダンディなことで、春彦と私は鞄からクロッキー帳を引っ張り出して、おじさんの写生大会を始めた。おじさんは意気揚々とポーズまで決めてくれた。その後このおじさんとは会ったことがないので、一期一会をしみじみと痛感した初夏だった。


 春彦のクロッキー帳にはおじさんを描く私までもが描き込んであって、その線は強くしなやかで、私は真先に感嘆の声を上げた。絵を描くとは言っていたけれど、彼の絵を見るのは初めてだった。


 聞けば春彦は、市内の工業高校を卒業したのだと言う。佐々谷家に次男を大学進学させられる余裕はなく、春彦は建築科を出てそのまま就職した。学費を貯めてから社会人枠で今の大学に入ったそうで、私は初めの印象とは違う彼の一面に随分驚いた顔をしてしまった。失礼な話だ。でも春彦は、叶わないことは諦めて別の道を探すのがうまそうな顔をしている。柔軟に柔軟に、ふわりふわりと生きていけそうに見えるのだ。


「仕事は?」

「たまに顔出すよ。アルバイト枠ってことで。」

「建築の?」

「ううん。今ね、こういうの作ってるの。」


 春彦の骨張った左手から出てきたのは、ガシャポンの玩具だった。それもとびきりリアルな亀。そして右手にはうさぎ。こっちはもっとデフォルメが効いていて、まるで大福みたいなもちもちの白うさぎ。


「十人くらいの会社なんだけどね。社長がね、自由な人なんだよ。だから俺の大学受験も、面白いじゃねえかって笑ってた。」


 目を細めて笑う春彦は、瞳の奥に確たるものを持っていた。彼の歩んだ道や思い出とか、これからのこととか、そういうものがぎゅっと詰まって、ひとつの光を放っていた。


 どうしても目が離せなくて、私は春彦の顔をじっと見ていた。だって嬉しかった。進む道を持った人。なんとなくじゃない。やりたいことのために努力を重ねた人。私にとって値千金のひとだった。


「卒業したら戻るの?」

「そのつもり。でも今はほら、どこでも仕事ができるじゃない?だからわざわざ都心に戻る必要もないなぁって。今の家気に入ってるし。」

「会社都心にあるの?」

「…いっちゃんずっと首傾げてるね。なんかそういう鳥いたよね。」

「鳥は大体首捻ってるよ。」

「図鑑とかいっぱい集めたなぁ。あれだけは実家から持ってきちゃった。」

「図鑑見たい!ちょうど鳥がモチーフの制作してるの!」


 真隣で挙手すると、春彦はちょっとだけ驚いた顔をして、この後時間ある?って優しい口調で言った。今日はバイトが無い日で、特に用事もなかった。だから二人でバスに乗って、大学から三つ過ぎたくらいの、スーパーの前のバス停で降りて、紙パックのカフェオレと袋のお菓子と、ついでに春彦の食材を買って、スーパーから歩いて五分の路地裏にあるアパートへ入った。


 いわゆる1Kという間取りで、玄関を開けるとすぐ台所で、その奥にベッドやらテーブルやらテレビやらが置いてあった。部屋はなんとなくのアジアンテイストで、柔らかい日の光が差し込んでいて、初めて来たはずなのにほっと肩の力が抜けた気がした。ただいま、と出かかった口を押さえて、お邪魔しますと言い直した。我ながら図々しい。


「テレビの横に置いてあるから好きに見てて。」

 

 買い物袋の音と共に、春彦の穏やかな声がした。

 私は遠慮なく、こたつサイズのテーブルに自分のクロッキー帳を広げて、図鑑をひとつ手に取った。木の色をしたカラーコンテナいっぱいに詰まったそれは、とりあえず片っ端から、と思ってしまうくらいの量だった。

 

 この日から私は、ことあるごとに春彦の家へと押しかけては、二人で絵を描き、絵の話をして、たまに昼ご飯を作ってあげたり作ってもらったり、とにかく伸び伸びと二人の時間を過ごした。


 春彦といると安心した。田舎の小さな芸術科で、確固たる熱と目標を持ちこの道を選んだのが私だけでは無いのだと、受験当時の私が選びうる中で、これが最前の道だったのだと、人知れず頷くことができたから。同じ志を持つ、と言ったら大袈裟かもしれないけれど、そう思わせてくれるだけの魅力があるひとだった。


「ハルありがとう。」

「こちらこそ。」

「…こちらこそ?」


 この理由を聞くまでに、私は随分時間を浪費してしまった。このときすぐに、どうして?と食い下がっておけば、彼はすんなり教えてくれたのかもしれない。いつものように。

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