第4話

「また来たの?」

 常と変らず大岩の上に腰かけていた少年は息を切らして駆けてきた少女に呆れた目を向けた。上気した頬はよく熟れた桃のようにほんのりと色を付けている。

弛祁たるぎ、だってね!」

「だから軽々しく名を呼ぶなと言っているのに」

 不平を洩らす弛祁を見上げて、少女は頬を膨らませた。ようやっと少年の名を聞き出したというのに、名を呼ぶと彼が怒るからだ。

「いいじゃない。まだ水神様ではないのでしょう? ならばこの名だって神の名ではないわ。だから軽々しく呼んだっていいのよ。だってまだありがたみもなーんにもないもの。それに他には誰もこんな場所に寄りつこうとしないのだから、あなた以外誰もあなたの名を聞きやしないわ」

 そうでしょう? と少年に同意を求めてから、少女は岩のくぼみに手を掛けて大岩をよじ登り始めた。彼女は今日も目にも鮮やかな美しい着物を纏っているのだが、当の少女は気にした様子がない。弛祁は諦めて息をついた。苔むした大岩は滑りやすい。危うい少女の所作を見ていると、こちらの方の肝が冷えると言うもの。仕方がないので、弛祁は今日も頼りない少女の手を掴むと岩の上へと引っ張り上げてやることにした。それを見越していたのだろう。弛祁が手を差し出した瞬間、少女は彼の手をとって可笑しそうに笑ったのだ。

 大岩に上がった少女は、いつものように彼の隣に腰をおろした。目線が高くなるこの場所は地上よりも水面が陽の光をよく反射してきらきらと輝いているのがよくわかる。穏やかな日差しを一身に浴びた岩の上は存外温かいのだということを少女はもう知っていた。そよと吹いた風を受けて彼女は気持ちよさそうに目を細めた。池独特の水の香を胸一杯に吸い込む。

 風に遊ばれている少女の細い髪を横目で眺めやってから、弛祁は「それで?」と問うた。

「今日は何の用があって来たの?」

「何か用がなくてはきてはいけないの?」

 彼の言葉に、少女はまた不機嫌そうな表情をつくる。弛祁は肩をすくめてみせた。それでも「来ない方がいいだろうね」と付け加えることは忘れない。

 少女はむぅと眉根を寄せた。けれども、少年には何の効果もないらしいことを知ると、彼女は「まぁ、いいわ」と不機嫌を放り投げるかのようにふいっと顔を弛祁からそむけた。

「だって、今日は決心してきたのだもの。このくらいじゃ怒らないわ」

「そう? 私には怒っているように見えるけど」

「気のせいよ」とそっけなく言って、少女は気持ちを整えるように長く息を吐き出した。ひどく緊張した面持ちで彼女は鏡池に映る自分たちの姿を見つめる。それから、不思議そうな表情をしている弛祁へと向き直った。

「あのね、弛祁。私、弛祁と、父上と母上のような夫婦めおとになりたいわ」

 今までたった一人、胸に秘めてきたことをようやく言いきった少女は、きゅうと己の着物の裾をきつく握りしめた。少年の方は、しばらくきょとんとした顔で少女と相対していた。だが、すぐに大声を上げて笑い始める。

「何? それ本気で言っているの? 水神の妻になるということがどういうことかわかっているよね? この池の下、水の社に上がるんだよ? 人間にとっては光の届かない、どこまでも闇ばかりが広がっている場所だ」

 少女は一瞬で赤面した。顔だけでなく、耳も首も、着物から覗く肌はどこもかしこも湯からあがったばかりのようだ。にもかかわらず、裾を握る手だけは白くなるほど握り込まれている。弛祁は少女の綺麗な手を解こうとして、振り払われた。彼女はきっ、と彼を睨み見据える。

「わかってる。わかっているもの! でも、……それでも、お社には弛祁がいるのでしょう? なら、私はお社に上がる!」

 少年は、必死になって言い張る少女を見て目を瞠った。

 しかし、すぐにまなこに宿した光を収束させて、弛祁は「きっとね」と小さく答える。

「だけど駄目だよ。まだ女になっていないだろう?」

「何を言っているの? 私はもともと女子おなごなのだけれど。まさか弛祁は私のことをずっと男子おのこだと思っていたの?」

 怪訝そうに尋ねてくる少女に、弛祁は「さぁ?」と嘯いた。そのことが癪に障ったらしい。少女は弛祁の胸をぽかぽかと叩いた。少年は難なく彼女の腕を両方とも掴んでしまった。少女の顔を覗き込んで、彼は微笑む。

「そうだね、初花を咲かせたら考えてあげてもいいよ」

「初花?」

 腕をとられたまま、少女は首を傾げた。「その花の種ってどこに行けば手に入るの?」と真面目な顔をして問うてきた彼女に弛祁は耐えきれず噴き出す。

「約束よ、弛祁。私、きっと咲かせてみせるわ」

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