10.Ask Me Now
きっと私たちは、田上という人物を見誤っていたのかもしれない。
でも、これからそれは「そんなこと」になる。
そう、そんなことよりも、向かいに座る後輩と楽しく語らいたい。
そうだ。私だって同年代の友達は欲しい。
そこは天国だった。
ちょっと薄暗い店内。その奥に鎮座する大きな音響設備。大音量で流れるのはセロニアス・モンクのソロアルバムだ。最近の私のお気に入りはモンクなので、これは凄く嬉しい。
「春夏秋冬先輩、こういうお店好きなんですか」
一瞬忘れかけていた白戸から声をかけられて我に返る。
「うん、こういうお店も好きだけど、何よりジャズが大好きで。これ完璧にジャズ喫茶じゃない」
私が生まれるよりも前に廃れてしまったと聞いたジャズ喫茶がまだある、というか新たにできるなんて。
私が一人で来るのが難しい場所なのが痛い。そうじゃなかったら通い詰める自信がある。
「奥の席が空いてるね。あそこにしようか」
席数は少ない。というか、スペースの使い方が贅沢すぎる。居心地もいいから回転率も低そう。メニュー見ても収益性が高そうなメニューもないし、ここの経営どうなってるの。
お互いに席について、メニューを眺める。いっそ潔いくらいにメニューが少ない。コーヒーが通常のブレンドにライトブレンド、カフェオレ。申し訳程度のミルクティー。セットメニュー専用のチーズケーキとシフォンケーキ。
樹さん、あなたの店選びが完璧すぎます。私が要求したかったこと全てを満たしてるじゃないですか。
人に話を聞かれにくくて、食べることに集中しなくていいお店。そして私好みのジャズ!
ああ。でも、ジャズに気をとられてると話が進まないからこれくらいにしておこう。
「決まった?」
「はい」
メニューも少ないから悩むことも無い。
私がブレンドとチーズケーキ、白戸がカフェオレにシフォンケーキということになった。
「田上について訊きたいのも嘘じゃないんだけど、折角なんだからこれからもこうやって出かけたりできたらいいなって思ってる」
田上のあれこれはどうせ聞いてて面白い話にはならない。
それよりもまずは白戸と仲良くなりたい。
「私なんかでいいんですか」
「いいの。それと、受け売りになるけど、あなたがいいって言ってくれた相手はあなたなんかなんて言わないわよ」
以前、私が言われたことをそのまま言った。彼女は自分のしてしまったことのために自己評価が底辺まで落ち込んでいる。
今の彼女となら仲良くなりたいし、そのためには彼女の足を引っ張る田上が邪魔だ。それを彼女自身で跳ね除けるには自信が必要だ。だからこそ、私なんか、なんて言わせたくない。
「折角だから名前で呼んでいいかな。杏子、だったよね」
「あ、はい」
「私も名前でいいから。風、だよ」
因みに、私が白戸、いや、杏子にこんなことを持ちかけるのにだって理由がある。実は、大学時代から住まいが変わっていない私だけど、仲の良かった友達は大半が就職で引っ越していってしまったのだ。
そんなわけで私には同年代の友達がいない。だからこそ、私は杏子という友達が欲しいんだ。
「風さん、でいいですか」
「いいよ。今日はたくさん話をしよう」
それからは他愛の無いことを話した。
あれからの会社のこと、お互いの仕事のこと、私が松戸さんとお付き合いを始めたこと、地元のこと、趣味のこと。今流れてるモンクのアルバムについても力説しておいた。
「さて、そろそろいいかな。田上について訊いてもいいかな」
「…… はい」
杏子は凄く話しにくそうだったけど、教えてくれた。
「最初は、会社への恨みをずっと聞かされてたんです。私が今の工場で働きだしてすぐくらいでした。あれくらいでクビにされるなんておかしいとか、既婚者なら思わせぶりな態度をとるなとか、あの程度であの人の奥さんだ何てどうかしてるとか」
どうかしてるのはお前だ、田上。
「勿論、最初のうちは反論しました。私たちはクビにされて当然のことをしたんだ、桑畑課長はずっと拒否してた、桑畑さんはいい人だったって」
これを理解したかしなかったかがこの2人の明暗を分けた。理解した杏子は子会社ではあるものの仕事を続けることを許され、理解しなかった田上は会社から放逐された。
今でも何も理解していないだろう。
「正直に言えば、あの人の恨み言を聞くのも辛いので、帰って欲しいって思って、残業を積極的に引き受けるようになりました。でも、どれだけ遅くなっても外にいるんです。最近では私への罵倒が始まりました。工場の皆さんにも迷惑をかけているかと思うと申し訳なくて」
ああ、これは田上を完全に引き離さないといけないやつだ。あいつの実家か警察のどちらかの領分だ。
人事に問い合わせれば何とかできるかもしれないけど、退職した人と子会社の社員の話に協力してくれるかどうかは怪しい。田上の場合はやってたことがやってたことだから仲の良かった人なんていない。
今にしても思えばあいつ、あれでよく1年以上会社に来てたと思う。褒めてやる気は全く湧かないけど。
「ねえ、杏子。警察に、行かない? 対処はそれくらいしか思い浮かばないの」
「けいさつ、ですか」
今がどうであれ、一時はつるんでいた相手を警察に突き出すような真似は辛いのかもしれない。
でも、私は杏子が墜ちていくのを許せないし、許さない。あいつに墜とさせはしない。
「杏子。わかってると思うけど、田上がしてること、犯罪だからね。つきまとい、ストーカーで接近禁止命令くらいは出せるレベルだと思うよ」
このあたりは独り暮らしを始めるときに親から必ず覚えておけと言われて調べたことがある。今でもメモして部屋に保管してある。
杏子も今は独り暮らしをしているはずだから、このあたりのことは覚えておいて欲しいと思う。実際、杏子は童顔で可愛らしいタイプだ。背も低めで、制服を着せれば女子高生で通用するくらいだろう。多分、コンプレックスなのか私服は大人っぽく見えるものを選んで着ていると思う。
か弱く見えるからこそ、しっかりと対策はしていて欲しいと思ってしまう。
だから本当は残業だってして欲しくない。それだけ遅くなれば危険も増える。
「本当にいいんでしょうか。私が裁いてしまって本当にいいんでしょうか」
そうだよね。人を裁くのは怖い。私だって怖い。人が人を変えるのは傲慢なことだし、ましてや裁きを与えるなんておこがましいことなんだ。
それでも、それでもなんだ。
「しなきゃ駄目。苦しいのかもしれないけど、そのためにあなたが墜ちていく必要は無いのよ」
それでも、そうすることでしか変えられないものが、守れないものが、助けられないものがあるのなら、やらくちゃならないんだ。
「この後でもいい。一緒に行こう」
私の中に恨みがないとは言わない。仕事では振り回されるし、押し付けられるし、樹さんのことは馬鹿にされるし。恨みや怒りはいくらでも抱えている。
でも、怒りは本来持続しない。それを持続させるのは、結局のところは自分の気持ち。折り合いをつけるのも、自分自身だ。
「私も行くから」
もう、あいつに振り回されるのは終わりにしよう。杏子も、私も。
最後の空気はとてもよろしくはなかったけれど、杏子は警察に行くことを納得してくれた。それには仕事を終えた隼さんも合流して警察署まで送り届けてくれた。
相手の素性もしっかりわかっていることも手伝ってか、相談はスムーズに進んだ。
しっかりした対処の約束を取り付け、経過を見て今後を判断する、ということに決まった。
会社からの警告も聞かない相手だから、どうなるかは想像に難くない。
この話を切り出したときは杏子との断絶も考えたけど、彼女の方から連絡先の交換を申し出てくれたこともあって、これからも友達付き合いはしてくれそうで安心した。
「じゃあ、杏子。今度はゆっくりご飯でも行こう」
「はい。風さん、松戸さん、ありがとうございました」
隼さんの車から降りた杏子が頭を下げる。
その姿を見ていた隼さんは複雑そうな顔をしながら言った。
「一緒に働いていた頃の君にはこんなこと言わないけど、今の君になら言うよ」
「何ですか」
「引っ越したほうがいい。あいつ、君の家くらいは知ってるだろうから、どこか探したほうがいい。もっと言うならこのままこの部屋に帰るのさえ止めたほうがいい。話を聞いているだけでも、今の田上は危険だ」
考えなかったわけじゃない。だけど、こうしてその危険性を説かれた今、私は一つの決断を迫られていた。
このまま見送るか、その手を掴むか、だ。
隼さんと付き合うときにも考えた。私はどうなりたいのか、と。
「杏子」
私は、
「必要な荷物、まとめておいで。暫くは私のアパートに来たらいいよ」
友達を見捨てるような人間になんてなりたくない。
後書
おそらくも何も、今までで一番短いエピソードになりました。
いえね、白戸杏子さん、当初はここまでがっつり救済する予定もなかったですし、ましてや風と同居させる予定もなかったんですよ。
田上をかなりの危険人物にしてしまったがために解決法がこれしかなくなってしまったという何とも言えない展開が。
ただ、風が女子力に少々欠けるキャラなので、その矯正に一役買ってくれたらいいな、とか思っています。
田上は次回で退場かな。
因みに今回登場したお店もモデルが存在します。というか、完全にそのままですね。車以外でのアクセスが困難であること、メニューが少ないこと、廃れたはずのジャズ喫茶だったりとか。
最近行ってないので、行きたいお店でもあります。
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