9.sorella minore






いろいろなことを抱えたまま、気付けば週末がやってきた。


この前の休みもあって、少しだけ、いつもと違うすごし方をしてみたいと思った。


だから、今日は出かけてみよう。


お供は。お気に入りの本たち。





















いつもなら尾嶋まで出て終るんだけど、今日はその先まで出てみよう。


花待坂っていうところがそろそろ紫陽花の見頃だとか。のんびり自転車で向かって、どこかでご飯にして、ゆっくり紫陽花を見て、どこかで本を読んで。


「これぐらいかな」


荷物をデイバッグに纏めて、背負った。


私が通ってたのは短大なんだけど、たしか花待坂には4大があったっけ? 外からでもいいから少し見ていこうかな?


戸締りよし、自転車の空気も大丈夫。忘れ物もないし。


「じゃ、行ってきます」


誰にともなく呟いて、私は自転車に跨った。


やっぱり、自転車でどこかに出かけるのって趣味になってるんだろうなぁ。こういうときに実感する。


自転車で出かけて、美味しいコーヒーを飲んで、本を読む。それが凄く楽しい。今日はそれを全部やるわけだから。楽しみは増すばかり。


そうだ。


いつもの主要道路じゃなくて河川敷沿いに行ってみよう。上流に向かっていけば確か尾嶋を通らずに花待坂まで出られたはず。


それに、川沿いの景色も楽しめそう。


そう思って私は躊躇なく自転車を川の方向へと向けた。


しばらく走ってすぐに堤防が見えてきた。勢いをつけて堤防の上へと続く坂道を登る。自転車から降りないでいけたら、一度も立ち漕ぎをせずにいけたら、そんな子供みたいなことをしてみるけれど。案の定だめで。結局は立ち漕ぎをして登りきることに。


「ふぅ」


小さく息を吐き捨てて、その先に広がる景色を眺める。川に面したグラウンドで子供たちがサッカーや野球をしてる。その姿はとても生き生きしていた。


「よし」


声に出して、自分の心に勢いをつけると、私は花待坂に向かって自転車を漕ぎ出した。


途中で犬の散歩をしてる人や、ジョギングをしてる人たちとすれ違った。この人たちも、それぞれの方法でこの休日を満喫してるのか、それともただの習慣なのかわからないけれど。だけど、いいな、と思った。


私も、今日がそんな日になりますように。心から、心から、そう思った。


時間にして約35分。尾嶋を経由しないからこれぐらいで済むんだけど、花待坂に到着。


そして、これに関しては本当に知らなかったんだけど、4大はこの川沿いにあった。


「びっくり」


思わず口に出してしまった。だって、見つけられたら見てみたいっていう程度だったのに。


まぁ、見つけられたわけだからそれはそれでいいのかな。


「えっと」


荷物からこの前会社でもらったメモを取り出す。


ようは、紫陽花がどこで見られるのかというのを教えてもらったときのメモなんだけど。


『花待坂 紫陽花通り』


これ、どこ?


知らない土地の、知らない通りまでわからないんだけど。よく考えてから来るべきだったかな?


「…… どこか喫茶店でも探そうかな」


うん。紫陽花はとりあえず忘れてコーヒーの美味しそうなお店でも探しに行こう。


そうと決まれば、と私は自転車を走らせた。


そうして見つけたお店が実は紫陽花通りに面してるってことにさらにびっくりして。だけど、たしかにそこは行ってみたいと思えるお店だった。


何より、今日の目的のひとつでもあった紫陽花も同時に楽しめるっていうならそれはとても楽しいことなように思える。


「行ってみよ」


自転車を止めて、チェーンロックをかける。


そして、入る前にもう一度看板を見てみる。


「アナベル」


たしか、白い紫陽花の名前だった気がする。そんなことを考えつつ、扉を押し開いた。


「いらっしゃい。うちは初めてだよね?」


店主らしきおじさんがにこやかに話しかけてくる。


「は、はい」


「自転車だから学生かと思ったけど、どうかな?」


「一応、社会人です。紫陽花が見頃と聞いたので。それで」


おじさんがそれで少し驚いた顔をした。


「それでこの花待坂まで自転車で? どこから?」


「えと、桜坂(おうさか)です」


そう言うと、おじさんはさらに驚いた顔になった。


「桜坂から自転車で? 君はいくつだい?」


「22です。短大卒なので」


「それぐらいの年の子で、自転車で30分以上かけて紫陽花見にくる子は初めて見たよ。元気でいいね」


おじさん、腰とかね。みたいなことをぶつぶつ呟きながら窓際の席に腰を下ろす。


窓からは外の景色がよく見える。ちょうど見頃を迎えて、綺麗に咲き誇る紫陽花。


「いいなぁ」


素直な気持ちとして言葉が口からあふれていた。


「気に入ってもらえると、ここに店を構えてよかったと思うよ。はい、これメニューね」


「ありがとうございます」


手に取ったメニューの表紙には白い紫陽花が描かれていた。


「これ、アナベルですか?」


「よく知ってるね。てっきり、外国の女優さんとかの名前とか思ってたりはしなかった?」


「いえ。そういうの、詳しくないので。まだ、花の品種の名前のほうが詳しいくらいです」


「そうなの?」


私はうなずいてメニューに視線を落とす。時間はそろそろお昼だけど。うん、ここで食べてしまおうかな。


「サンドイッチセット、ホットコーヒーでお願いします」


「はい。じゃあちょっと待っててね」


おじさんがそう言って奥に消える。それと同じぐらいで扉が開いた。


「おはようございます」


「ああ、真央ちゃん。おはよう。お客さん来てるからそのままそこにいてくれる?」


「わかりました」


入ってきたのは女の子で、お客さんじゃなくてバイトの子みたい。


歳は、私と同じか少し下なのかな?


「いらっしゃいませ。ここ、初めてですよね?」


「あ、はい」


さっきもそれ聞かれた。


「ここ、きっと気に入ると思いますよ」


「どうして?」


「私もその口ですから。大学から近いから利用してるうちに、ここのこと大好きになっちゃって。それで、店長に頼み込んでバイトとして雇ってもらったんです」


そうなんだ。


いいなぁ。私も短大の頃にそういう場所があったらよかったなぁ。まあ、探しもしなかったけれど。ちょっと後悔。


「真央ちゃん。出来たから持っていって」


「あ、はーい」


彼女はそれでカウンターに置かれたコーヒーとサンドイッチをトレーに乗せると私のところに持ってきた。


「はい、お待たせしました」


私は小さく会釈してコーヒーに手を伸ばした。


美味しい。あとでお代わり頼もうかな。


「あの自転車、あなたのですか?」


「はい。でも、それが何か?」


「ああ。特に何かってわけでもないんですが、兄の会社の人に自転車でどこにでも行く人がいるって聞いて。それで、あれぐらいかわいい自転車なら私も買ってみようかなって思って」


かわいい、のかな? ただの折りたたみ自転車だけど。


「兄は営業なんですけど、そのときに会社から自転車で追いかけて書類を届けてくれたことがあるとかで、かっこいいなあって思ってるんですよ」


…… 待って。今の話、凄く身に覚えがあるんだけど。


「あの」


「はい?」


「お名前、聞いても大丈夫ですか?」


落ち着け。落ち着け私。


きっと偶然。こんなところで関係者に会うわけがないでしょう。


「私のですか? 桑畑真央っていいますけど」


おもいっきり関係者だった。


「……」


どうしよう。今の話に出てきたのは自分だって暴露したほうがいいのかな?でも、あまりに唐突過ぎたりしないかな?


「どうしました?」


「…… あの、さっきの話の」


「ああ、書類を届けたっていう?」


私は小さく頷いた。


「それ、私のことです」


言ってしまった。まさか、こんなところであの人の身内に会うだなんて考えてもみなかった。というか、妹さんがいることも知らなかったわけだし。


でも、どうしよう。何を言っていいのかわからない。


「と、いうことは、前園さん、ですか?」


「は、はい」


恥ずかしくて消えてしまいたい。穴があったら入りたい。そんな気持ち。


「こんなところで会えるなんて思ってませんでした。よく、兄から聞かされててどんな人なんだろうって思ってたんですよ。凄くまじめだって。話を聞いてると、私ももっとがんばらなきゃって思えるんです」


私の話で?


「そうだよね。真央ちゃんはいつも試験結果で泣きを見てるからね」


「う。そういうことは言わないでくださいよ。少しくらい見栄張りたいじゃないですか」


「だめだよ。鍍金なんてはがれちゃうんだから」


私の前で見栄を張りたい?


いろいろ、わからないけど、どうしたらいいのかな?


「それより真央ちゃん。この人のこと気になるんだったら、コーヒー出してあげるから。しばらく話しててもいいよ。今日は講義もないだろうから学生も少ないし」


「あ、ありがとうございます」


そして、私の知らないところでこんな話になってる。今日はびっくりしてばかり。


「じゃ、前失礼しますね」


そう言って彼女は私の向かいに腰掛けた。


少し落ち着きないけれど、とても活発そうな、気持ちのいい子。私とは正反対かも知れない。


「それにしても、まさかバイト先にあの前園さんが来るなんて思いませんでしたよ」


私も。出かけた先に桑畑さんの身内がいるとは思ってなかった。


どこまで私を驚かせれば気が済むんだろう。今日という日は。


「私も。こんなところで桑畑さんの妹さんに会うなんて思ってませんでした」


本当に。今日はこんなのばっかり。


「真央」


「え」


「それと敬語。私、年下ですよね?」


彼女は小さく私21、と言った。


「です、ね。私は22ですから」


「ですから、敬語やめません? あと、名前で。苗字だと兄と混同しちゃいますんで」


「あ」


そう言われても、久しく敬語以外を使って誰かと話をしたことがない。


「名前では呼びますけど。言葉遣いは見逃してくれませんか? これ、癖なんです」


「そうなんですか? わかりました。でも、名前呼びは守ってくださいよ」


「はい。真央さん」


「ですから」


まだ不満みたい。でも、年だって一個しか変わらないんだし。だからいいと思うんだけど。


「でも、呼び捨てはちょっとできなくて」


「じゃあ、店長みたいに真央ちゃん、で。もうそれ以外認めません」


真央ちゃん、か。友達でもそんな風に呼んだことあったかな? 少なくとも、宮下さんのことなんていまだに名前で呼べないのに。


「ふぅ。結構、頑固ですね。真央ちゃんは」


「えへへ。兄にも言われます」


そうなんだ。好きになった人のことを少しずつでも知ることが出来るのは嬉しい。それがあきらめなきゃいけない恋でも。だから、今だけは好きでいることを許してください。



























しばらく話を続けて、ある程度打ち解けた頃に真央ちゃんが唐突にそれを口にした。


「前園さんは、兄のことをどう思ってるんですか?」


息が詰まりそうだった。


27歳の人の彼女なんて、普通は結婚を前提にしていてもおかしくないはず。だから、それが凄く怖い。


だって、私がしているのは横恋慕。


「い、いい、人だと思います」


それは偽りない本音。


私にいろいろなものをくれて、私を助けてくれる。だから、今のは本音。


「うーん。そういうのじゃなくてですね、もっとこう…… 主観が入ったような感じの」


「いい人っていうのは、割と私の主観でもあるんですよ。それに、社内でもずっと付き合ってる彼女がいるって評判の人ですから」


そういう対象としてみるのはおこがましい。そう思えてしまう。


だけど、そこで真央ちゃんが凄く変な顔をした。


「前園さんは、それを信じてるんですか?」


「はい。本人も特に否定していないそうなので」


でも、宮下さんが言ってたことだけど噂を特に否定しないし、凄く膨らんだ話まで否定しないのはおかしいって。だからあまり噂を気にしてないんじゃないかなって思うんだけど。


「…… あの馬鹿兄は」


「え?」


一瞬、目の前にいるのが今まで一緒に話をしてた真央ちゃんに見えなかった。


そこにいるのは、まるで鬼。それぐらいの怒りを内包してるように見えた。


「すみません。また今度、ゆっくり話をしませんか? いつまでもここに引き止めていてもなんですし。次は、いつでもいいです。連絡先教えますから、そっちも教えてもらえませんか?」


そう言って、真央ちゃんは携帯電話を取り出した。私もそれに倣って取り出して、操作しようとするけど。


「あれ?」


わからなくなった。


そういえば、この前の買い換えたときの登録とか、全部店員さんにしてもらったんだった。


「どうしたんですか?」


「あ、あの、ですね? 笑わないで聞いてもらえますか?」


真央ちゃんが頷いたのを確認して、私は言葉を発した。


「使い方が、わかりません」


「それ、ギャグとかじゃないですよね?」


私は頷く。


冗談ならこんなに恥ずかしい思いはしていない。


「貸してください。多分、わかりますから」


「ごめんなさい」


言って、真央ちゃんに携帯電話を手渡した。


それから彼女は実に手際よく自分のと私の携帯電話を操作し、私に返してくれた。


「これで大丈夫だと思います」


「ありがとう。普段使わないから、全然覚えられなくて」


覚えたのは電話の発信と、メールの送受信だけ。


それは前の機種の頃から変わらないことだし。


「そういうこともありますよ」


その言葉を聞いて、私は立ち上がった。


「それじゃあ、今日は帰ります」


「あ、はい。ありがとうございます」


真央ちゃんが私の代わりに伝票を掴んでレジまで先行する。私がそこについた時点で計算を済ませて、私は支払うだけだった。


「今日は会えてよかったです」


「こちらこそ。また、来ます」


そして、私はアナベルを出た。


「本、開いてないや」



























【視点 桑畑真央】


前園さんが帰った後、私はひそかに憤慨していた。


「真央ちゃん、怖いよ」


店長がそんなことを言ってくるけれど、今の私には届かない言葉。


『彼女がいるって評判』


前園さんは兄のことをそう言った。


でも、私は知ってる。兄に彼女なんていない。寧ろ、前園さんのことを気にしてる。


「ふ」


「真央ちゃん?」


「ふふふ。あの馬鹿兄。今日帰ったら覚悟しなさいよ」


根掘り葉掘り聞き出してやる。全部。彼女がいない間、どうやってその状態を維持してきたのか。何もかも聞き出してやる。


「だから、真央ちゃん。怖いって」

























後書


この作品、実は時系列的には2010年以前だと思っていてください。ガラケーの全盛期です。


さて、次回からちょっと修羅場ってもらいます。


今回の副題は真央がメインだったことも踏まえて「妹」です。

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