第十二章「生身の人間には不可能な殺人」

   

蛇神様じゃしんさまを呼んでまいります」

 そう言って大神おおがみ健助けんすけは、部屋を出て行く。

 結果として、俺一人が、その場に取り残された。

 いや、この場合『一人』ではなく『二人』と言うべきだろうか。物言わぬ死体もカウントするべきなのだろうか。

 蛇心へびごころ江美子えみこの死体を前にして、俺は何をするでもなく、ただ立ち尽くすだけだった。

 死体と一緒というのは薄気味悪いものであり、時の歩みが鈍いように感じてしまう。だから、かなり待たされたような気がしたが、実際には、それほど時間は経っていなかったのかもしれない。

 蛇心雄太郎ゆうたろうは、大神健助を伴わずに、一人でやって来た。

「健助が今、皆様に知らせて回っています。あと警察への連絡も、彼に任せました」

 律儀に説明してから、蛇心雄太郎は、リビングの奥へと踏み込んでいく。

「いやいや御主人、ちょっと待ってください」

 俺が彼を『蛇神様』と呼ぶのも変だろうから、旅館の主人という意味で『御主人』と声をかけた。

「こういう場合は、何も触らない方が良いでしょう。なるべく現場は保存しておかないと……」

 そう思えばこそ、俺だって手持ち無沙汰で大人しくしていたのだ。俺は常識的な注意を述べたつもりだが、蛇心雄太郎は、首を横に振る。

「それは承知しておりますが、でも、確かめておくべきことがありますので……。ああ、やっぱり、ここにありました」

 奥にある机の引き出しを開けると、中身には手を触れずに、上から指し示した。

 見える位置まで俺も近づいて、そうっと覗き込む。引き出しに眠っていたのは、一本の銀色の鍵だった。

「江美子おばさんは、ここに自分の鍵を入れておく習慣でした」

 それが一体どういう意味を持つのか、彼は語り始める。

日尾木ひびき様、この部屋が施錠されていた以上、江美子おばさんを殺した犯人が、部屋の外から鍵を掛けたことになりますよね?」

「そうでしょうね。死体の位置や血の跡から考えて、彼女自身が鍵を掛けたとは思えません。つまり、犯人がやったのでしょう」

 蛇心江美子の倒れている場所からでは、手を伸ばしても扉には届かない。かといって、もしも彼女が、刺された後にドアまで這って行き、自分で施錠したのであれば、もっとドア付近まで血で汚れていたはずだ。

「でも、この机にしまってあった以上、犯人が使ったのは、江美子おばさんの鍵ではありません」

「つまり御主人は、こう言いたいのですね? 犯人は一階にある合鍵を盗み出して使ったのだ、と」

「いいえ、それも違います。なぜならば……」

 彼は大きく首を左右に振って、はっきりと俺の言葉を否定。それから説明を続けた。


 彼の話によると。

 一階で俺に合鍵を渡してくれた老人は、正田しょうだ茂平もへいといって、女中である正田フミの亭主。つまり、脚の不自由な白髪頭の男と、忍者みたいに機敏な女は――ある意味で対照的な二人は――、夫婦ということになる。

 あの小部屋で二人は寝泊まりしており、正田茂平の仕事は、きっちりと合鍵を管理すること。毎朝、全ての合鍵を数えて確認の後、その中から一揃えだけを壁に掛けて、残りは予備として缶に入れてしまっておくそうだ。

 蛇心雄太郎が何を言いたいのか、なんとなく俺にも理解できたが、

「でも、一日中ずっと部屋にいるわけではなく、トイレに行くとか、部屋を留守にする機会はありますよね? その隙に盗まれたのでは……」

 と、可能性を提示してみる。

 しかし、これも否定されてしまった。

「茂平は、あの部屋を無人にすることはありません。あの部屋で食事もしているし、風呂や便所へ行く際は、代わりにフミを鍵番にするくらいです」

 二人が暮らしている部屋でもあるので、昼間でも正田フミは、女中仕事の合間に立ち寄ることがあるらしい。そうした機会に正田茂平は、一時的に番人を代わってもらい、便所などへ行く。だがそれ以外は、部屋から一歩も動かないのだという。

「あいつは几帳面な性格の男でしてね。それに『脚が悪くなった身の上なのに使ってもらっている』と、たいそう恩義を感じているようです。鍵番程度の仕事であっても、とても真面目にこなしています」

 なお。

 この言葉通り、この日あの小部屋が無人になった時間はないということが、後に確認されるわけだが……。

「だから日尾木様、犯人が一階にある合鍵を持ち去るのは、どう考えても不可能なのですよ」


 こうも言い切られると、俺としては反論したくなってくる。何かないかと思ったところで、また別の可能性が頭に浮かんだ。

「でしたら……。江美子さんの鍵でもなく、一階にあった合鍵でもないというならば……。犯人は、かなり昔に合鍵を作っておいて、それを使ったのではないでしょうか?」

 しかし、またもや俺の意見は否定されてしまう。

「残念ながら、それも無理です。一週間ほど前に赤羽あかばね夕子ゆうこの姿が目撃されて以来、江美子おばさんは、すっかり怯えてしまいましてね。二、三日ごとに部屋を移り変わるようになっていました。だから古い合鍵があっても、全く役に立たないのです」

 これも後になって、ここ数日の間に近隣で合鍵が作られた形跡などないことが、警察の捜査によって確認されるのだった。

「犯人には、鍵を掛けることは出来なかった……。つまりこれは、生身の人間には不可能な殺人なのです」

 少し語気を荒げて、断言する蛇心雄太郎。

 要するに、密室殺人というやつなのだろう。それを『生身の人間には不可能な殺人』と表現したのは、彼が赤羽夕子を――妖魔とか邪神とか呼ばれる存在を――念頭に置いていたからに違いない。

 そう考えると、気味が悪くなってきた。目の前に転がっている死体よりも、蛇心雄太郎の言葉の方が不気味に思えて、ブルッと体を震わせてしまう。

 そんなタイミングで、大神健助が戻ってきた。見知らぬ人々を、背後に従えながら。

「蛇神様、そして日尾木様、お待たせしました。警察の方々をお連れしました」


 しかし。

 この夜の警官たちは、たいした捜査はしなかった。

 現場の写真を撮影したり指紋を採取したり、簡単に調べた後、死体を運び出しただけ。詳しい捜査は後日のようで、死体以外の現場の物には、ほとんど手を触れなかった。

 引き出しに入っていた鍵は証拠品ということで、犯行現場となった部屋の施錠も、合鍵の方でおこなって……。

「もう今日は遅いので、詳しい話は明日、お伺いします。明日になれば、県警本部からも人が来るはずですし……。我々ではなく、そちらが事件を担当することになるでしょう」

 そう言い残して、彼らは引き払うのだった。


 翌朝。

 話の通り、前夜の警官たちとは違う面々がやって来た。

 芝崎しばざき警部という中年の男が、この一団の責任者らしい。顔は丸くて髪は薄く、額は頭頂部付近まで禿げ上がっている。背丈は人並みだが、あきらかに横幅は広く、特に腰回りは相当なものだ。灰色のスーツに包まれているせいか、第一印象として俺の頭に浮かんだのは、失礼ながらドブネズミのイメージだった。

 犯行現場を詳しく調べた後、彼らは俺たちを大食堂へと呼び集めた。


 俺と珠美たまみさんが入っていった時。

 今や三人となってしまった蛇心家の者たち――雄太郎と安江やすえ美枝みえ――は勢揃いしていたが、使用人は大神健助のみ。また、阪木さかき正一しょういち杉原すぎはら好恵よしえの姿も見えなかった。

一郎いちろうさん、私たちが最後というわけではなさそうね」

「そうですね」

 と、小声で言葉を交わしながら、俺たちも空いている席に着く。

 警察の面々は、芝崎警部以外、まだ犯行現場の調査を続けていたらしい。芝崎警部一人が、蛇心家の三人と向かい合って座り、彼らから話を聞いていた。

 色々と蛇心雄太郎が説明したようで、

 「ふむ。すると犯人は、鍵を持っていなかったのに、鍵の掛かった部屋を出入りしたことになりますな」

 眉間にしわを寄せて、芝崎警部が呟く。

 表情とは裏腹に、まるで納得したかのように一つ頷いてから、彼は俺たち二人に視線を向けた。

「日尾木夫妻ですな? 一郎さんは小説家だそうですが、こういうのを推理小説では、密室殺人と呼ぶのでしょう?」

 鋭い眼光で問いかけてくる。

 これが挨拶代わりの第一声なのだから、変わった男なのだろう。

 そう思いながら俺が黙って頷いた時、阪木正一と杉原好恵が、食堂に入ってきた。

「遅れて申し訳ないです」

「正一がモタモタしてるから……」

 そんな言葉を口にする二人。だが彼らが最後ではなく、すぐ後ろから、さらに三人が続く。正田茂平とフミ、そしてもう一人は、俺が知らない男だった。

 年齢は四十代の半ばくらい。角張った顔立ちが特徴的で、頭も角刈りにしている。いかにも料理人という感じの白衣を着ており、後で聞いた話によれば、その通りだった。名前は板橋いたばし卓也たくや、材料の買い出しも含めて、彼一人で料理関連を取り仕切っているのだという。


「ああ、これで全員、揃いましたね」

 ホッとしたような声の蛇心雄太郎だったが。

 それを聞いた芝崎警部は、あからさまに怪訝な面持ちとなる。

「これで全員……? いやいや、少なくとも、あともう一人いるでしょう?」

「えっ? 何をおっしゃっているのやら……。『もう一人』ですって?」

 今度は逆に、蛇心雄太郎の方が不思議そうな顔をする番だったが……。

「そうです。ほら、ちょっと変わった赤い服の女性がいるじゃないですか。先ほど見かけましたよ、ちょうど私たちが屋敷に入って来る時に。……四階の部屋から外を眺めていたようですが、まだ彼女、上にいるのですかな?」

 彼の『ちょっと変わった赤い服』がチャイナドレスを示しているのは、聞き返すまでもなく明らかであり……。

 芝崎警部の発言の意味を理解して。

 その場の全員が、顔をこわばらせるのだった。

   

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