第七話 雷鳴

「入ってもええ?」

「どうぞ」


 彼女が俺に歩み寄り、タオルを差し出す。その手を引いて、抱きしめた。

 折れそうなほど、細い体。

 初めて抱き合ったあの時、その細さに驚いた。少しでも動けば、壊れてしまいそうで。


「この間の事、ごめん」

「また謝る。もういいのに」

 そう言って、彼女は俺の背中に腕をまわす。


「先生ぬれてる。はよふかんと、風邪ひく」

「もうちょっとこのまま」

 彼女の湿った髪から、白檀の香りがたちのぼる。


「修理もうすぐ、終わるん?」

「本当はもう終わってるんだ。新しい額縁は表具屋さんに頼んだし。出来上がってくるのを待つだけ。今日は君に会いたかったから」


 俺の胸にうずめていた顔に、あどけない表情を浮かべ、俺を見上げる。

「佳代ちゃんが、修理終わってもここで二人で会ったらって」

「えっなんで、佳代子さんそんな事言うの?」


 油断して、腕の力をゆるめたら、彼女の体はするりと離れていった。

 持っていたタオルで体をふいてくれる。

 俺は、再び彼女が離れていかないように、彼女の手をとり畳の上に座った。


 向かい合い、彼女のやや口角があがった口を見る。

 あの日の唇の感触が、よみがえった。


「私達の事気づいたみたい。もう付き合ってるんやろって」

「つき合ってるとかそんな……」

 しどろもどろになる。我ながらなさけない。


「じゃあ、私達付き合ってないん?」

 男は、明確な意思表示を回避したがる。しかし、女はそんな男のずるさを許さない。


「今日からつきあってる」

 芍薬の大輪の花がほころぶように、彼女は頬をそめて笑った。


「私のどこが好きなん?」

 どこまでも、はっきりさせたいようだ。


「全部」

 まさか本人を目の前にして、静寂なかなしさ、とか言ってられない。


「もお、またからかって」

「ほんと、疑り深い所とか、勝気なのに自分に自信がない所とか、男心がわかってない所とか、全部」


「ぜんぜん褒められてる気がしいひん」

「俺の描いた絵を見たら、わかると思うけど」


「あの絵不思議。先生が描いた私は、とても幸せそうであったかかった」

「俺には、ああいう風に見えてるって事かな」


「先生そういう恥ずかしいセリフ、さらっと言うな」

 いい雰囲気なので、わがままを一つ。


「お願いがあるんだ、二人の時は名前で呼んでほしい。先生って言われるとなんか後ろめたくて。教師としては、間違った事してると思うけど、君の前では一人の男でいたい」


「じゃあ真壁さん」

 いたずらっぽく笑う姿が、愛しくて。

「違うだろ、下の名前」

 そう言って、握っていた手をひき、再び抱きしめた。


 俺の腕の中小声で、「颯人さん」という彼女の白く整った顔を、上から見下ろす。彼女の背中にまわした腕に、力が加わった。


「颯って言う漢字は、風の吹く音っていう意味やな。さっき私は、風を待ってたんや」


 恋は、少女を詩人にするのか。その詩はささげられた唯一の人間を、虜にして離さない。

 彼女のあごをつまみ、上を向かせる。二人は目を閉じた。


                 *


 後ちょっとで、唇がふれそうだったのに。二人だけの空間が、ノックの音と佳代ちゃんの声に、無情にも唐突にやぶられた。

 なんて最悪のタイミング。私は、慌てて先生の腕の中から、ぬけだした。


「ごめんね、今入っても大丈夫?」


 どういう意味だ。胸の苛立ちを抑えつつ、平静さをよそおい、どうぞと言った。

 佳代ちゃんが扉を開けると、激しい雨音と遠方から雷鳴が聞こえてきた。もうすぐこちらにやって来そうな気配がする。


「お邪魔します。えっと、夕方お店に行く前に防水加工したズボンを探しにきてん」

 誰に言い訳をしてるのやら。


「すごい雨降ってきたから、レインコートだけではぬれるかなと思って」

 私は目的の物を早く見つけて出て行ってもらいたかったので、探すのを手伝った。


「何色なんそれ?」

 衣装ケースをひっくりかえす佳代ちゃんに聞いた。


「黒やったと思うわ。たしかこの辺の衣装ケースに入れてたと思うんやけど」

 衣装ケースの山を一つずつ確かめるのかと思うとげんなりする。佳代ちゃんが二つ目のケースを降ろした瞬間、ガタリと何かが倒れる音がした。


「何これ? なんかここに絵が置いてある」

 その言葉を聞いて、先生が慌てて立ち上がり絵にかけよった。


「これは、私が置いたんです」

 先生の伸ばした手よりも早く、佳代ちゃんが絵を取り上げた。私にもそれが目に入った。裸婦像だった。なんでこんな所に先生が裸婦像をおく必要があるんだろう。おまけに隠すようにおいてあった。


 何か不穏な空気を感じて、佳代ちゃんの手からもぎとりじっくりと見てみると、見覚えのある女性だった。佳代ちゃんも気付いたのか、

「これ、若い頃のおばあちゃん?」

 と驚いた声をだす。


 上半身裸で横を向いた若い女性の左肩に、大きなほくろがある。祖母も同じ所にほくろがあった。絵の下には桜の絵と同じ落款が押されていて、日付と「愛する静子」と言う言葉が描かれていた。愛する静子?


「なんなんこれ、先生これどこにあったんですか?」

「これは、修理した絵の裏に重ねて額装してあったんだ。北川理事に確認をとろうと思ってそこに置いてただけだよ。理事がお忙しいのでなかなか話す機会がなくて」


 長年絵の裏に密封されていたからか、裸婦像の表面はカビとシミに覆われているが、祖母だと確認できる。おまけにこの言葉と日付。


 さきほどの甘い空気を吸い込み、ふわふわ漂っていた心にどす黒い塊が流れ込んできた。


 私の異変に気付いた佳代ちゃんが、

「おばあちゃん、結婚前にモデルしてたんやな。知らんかったわ」

 何でもないようなふりをして笑う。


「そんな訳ないやん。ここに愛する静子って書いてあるやろ。この絵を描いた画家の人はおばあちゃんの恋人や」

「結婚前のことやろ。おばあちゃん美人やったから、恋人の一人や二人いてもおかしくないって」


 わざとらしい明るい声で、激高しようとする私をなだめる。自分でも息が早くなっているのがわかった。


「結婚前? この日付、結婚した後やで。おばあちゃん、万博の年に結婚したって、聞いてたから覚えてる。なーんや、おばあちゃんも、お父さんといっしょや。不倫して、おじいちゃんを、裏切ってたんや」


「たしかに、そういう関係やったかもしれへんけど、昔の事やろ。あんたが気に病むこと違う。だから、落ち着いて美月。また発作が起こる」


「昔の事? おばあちゃん、亡くなる前も、この絵愛おしそうに、見てた。その人の事、ずっと、思ってたって、事やん」


 先ほどの佳代ちゃんの言葉が、私の頭の中で雷のようにとどろく。

 好きな人と結婚するのが一番や。


「おばあちゃんも、お母さんと、いっしょやったんや。娘の人生、使って自分の、人生をリセット、しようとしてたんや。私おばあちゃんの、何を見てたんやろ」


 私は母の呪縛という谷底から這い上がり、先生との未来を見つめているつもりだった。でも、崖の淵ギリギリに背を向けて立ち、先生を見ていただけだった。背中の向こうは、谷底。決して先生の方には歩いては行けない。


 だって、裸婦像の女が私の肩をちょっと押して、呪縛の谷底に今突き落とした。もう、這い上がれない。


「先生、私がおじいちゃん達は、理想の夫婦って、言ったから、こんなん出てきて、びっくりしたんやろ? やさしいから、隠してくれてたんやな。ありがとう」

 自分でもぞっとするような猫なで声だ。


「でも、私そんな、優しくされるような、子と違うねん。父に浮気されて、頭のおかしくなった、お母さんに、虐待、されるような子やし、あはは……」


「やめなさい! 美月」

「なんで? 世間体が、悪いし?」


 先生は信じられないという顔で私を見ている。その顔を私は冷淡に見返した。

 驚くよね。一見幸せで、何不自由ない家庭で育っているように、見えるよね私。

 実の親につけられた、消せない心の傷。砂羽ちゃんのお父さんに治療してもらっても、やっぱり癒える事のない傷。


 息がどんどん早くなり、手足がしびれ頭がぼーっとする。でも、やめられない。


「私見た目はこんなんやけど、中身は親にも愛されんような、悪い子やねん。だから虐待されてん」


「君は悪くない、何も悪くない! 君に虐待される理由なんてないんだよ」

「そう、かな?」

 雷鳴が近くまで迫ってきた。


 何時も思っていた。どうして、私虐待されたんだろうって。

 何がいけなかったんだろう。鬼のような目をして、虐待されたけど、その目に私は映っていなかった。何も映し出さない母の目を見るのが一番怖かった。祖母の目にはいったい誰が映っていたんだろう。


「ははっ……」

 稲光と共に雷鳴がとどろき、部屋の空気を震わせる。まるでこの世の終末を告げる天使のラッパみたい。


「先生私、こんなに、こんなに、醜い子やねん、心も、醜いから、もう、誰も、し、ん、じ、ら、れ、へ、ん。」


 もう、会話も苦しいほど息が早くなり、最後の言葉を絞り出すように言った。遠くで佳代ちゃんの悲鳴が聞こえる。


 私の意識はまた、完全な闇に吸いこまれていった。崩れ落ちる瞬間誰かに抱きとめられた。

 もう誰でもいい。

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