トンネルを抜けると異世界であった。~タクシードライバーの救世主日誌~

浦登 みっひ

トンネルを抜けると異世界であった。

 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。


 川端康成の『雪国』。よほどのバカでもない限り、だれでもタイトルぐらいは聞いたことがあるだろう。その書き出しの一行だ。

 まあ、俺もここしか覚えてねえけどな。


 どうしてそんな昔の小説のことを考えているかっていうと、さっき乗せた客がたまたま青森から来た客だったから。訛りがきつすぎて言ってることが半分ぐらいしかわかんなかったんだけど、どうやら、上京してこっちの大学に通ってる息子の様子を見に来たってことらしい。多分ね。

 でもさ、人間同士の会話って、伝わったと思っても、実際には半分ぐらいしか本来の意図が通じてなかったりするよな。ってことはつまり、半分は理解できたつもりでいても、本当は四分の一しかわかってないかもしれない。俺みたいな客商売はさ、毎日が伝言ゲームだよ。


 自己紹介が遅れたけど、俺の名前は佐藤健太。今年で三十一歳、しがないタクシードライバーだ。多分君の知り合いに一人ぐらいは俺と同姓同名の奴がいるんじゃないかな。知り合いにいなかったら、中学校や小学校の同級生とか。それ、俺のドッペルゲンガーだから……っていうのはもちろん嘘で、要するに、それぐらいありふれた人間だってこと。ほら、名は体を表すって言うじゃん?

 その理屈で考えれば、『太』の一文字を取り除くだけで俺もイケメン俳優になれるはずなんだけど、世の中うまくいかないね。俺の名前に『太』の字を付け足した両親を恨むしかない。


 まあ、俺の話はいいんだ。要するに君と同じようなやつだよ、ってことで話を戻すけどさ、川端康成の『雪国』ね。あれ、日本文学史に残る名作ってことになってるけど、じゃあ何が書いてあるかっていえば、とどのつまりは、不労所得で暮らしてるいけ好かない野郎の女遊びなわけよ。冷静に見れば、なんだくだらねえ、って思っちゃうよな。


 うわっ、あぶね、信号無視かよ……死ねやコラ。保育園落ちろ。


 ああごめん、つい地が出ちまった。何の話だったっけ……そうそう、雪国だ。だいたいさ、文豪って言われるようなやつが書いた小説って、往々にして主人公がクズだったりするじゃん? 女と何度も心中未遂したり、悪い女に入れ込んで破滅したりさ。大体、一昔前の文豪って、自殺してるやつが多すぎねえか?

 そういうクズの話をさ、例えば偉そうな国語のセン公なんかが有り難がっていたりするわけじゃない? 笑っちゃうよね。学生の頃よくそれで授業中に笑っちゃってさ、セン公に怒鳴りつけられたりしたよ。おかしいのは向こうだと思うんだけどな。


 それでさ、そういう小説のクズ野郎と比べたら、俺は結構立派に生きてると思うわけよ。そりゃ、大して頭は良くねえし、新卒で就職したところは三日で辞めちゃったし、金もねえし顔も良くねえけどさ、まあ色々あって、今はこうして真面目にタクシードライバーやってるんだぜ。犯罪なんか犯したことねえし、クスリもやってないし、交通ルールは守ってるし、女と心中未遂したこともねえし、悪い女に貢いだりもしてねえし、精神病棟にも入ってねえし、蜘蛛は……まあ結構殺したけど、でもさ、なんとか人並みに生きてると思うわけよ。


 なのに、誰にも有り難がられたことなんてないんだよな。


 不公平だと思わない? 


 あ~もう、さっさと渡れよジジイ。轢き殺されてえのか?


 でさあ、やっぱりタクシードライバーなんかやってると、そりゃもう色んなタイプの人間が乗ってくるんだよ。

 特にね、今みたいに夜の街を回してるとさ、十人十色っていうか、色んな人間模様が見えてきてさ、面白いんだよなあこれが。それがこの仕事の唯一の楽しみと言い切ってもいいね。まあ、酔っぱらったサラリーマンなんかは面倒臭ぇだけで面白くもなんともねえけどさ。


 やっぱり一番面白いのは男女の仲だよな。


 特に、いかにも訳ありですってカップルの話を盗み聞きするのが最高に楽しいんだ。向こうは声を潜めて話してるつもりでも、車の中って密室だからさあ、聞き耳立ててりゃ結構聞こえちゃうんだなこれが。

 え? ドン引きしたって? それぐらいの娯楽はあってもいいじゃないの。あ、運転はもちろんちゃんとしてるよ、俺ゴールド免許だから。で、話を聞いてると、何となく怪しいと思ったやつらはやっぱり、不倫だったり売春だったりするんだよね。俺、こういうことに関してだけはめちゃくちゃ勘がいいんだぜ。この辺のホテル街は特に……。


 ……お、手を上げてるやつがいる。


 五十は超えてそうなオヤジと、若い女だ。不倫のニオイがプンプンしやがる。よし、今夜の娯楽はこいつらだ。

 俺は迷わずウインカーを出して、車体を寄せた。ドアを開けると、最初に乗り込んできたのは女の方だった。たぶん二十代後半。すげえ別嬪さんだ。オヤジがシートにドスンと座ると、車体がズシッと深く沈むのがわかった。おいおい、勘弁しろよメタボハゲ、車壊すんじゃねえぞ?


「ご利用ありがとうございます、○○交通の佐藤と申します。本日は……」

「S……まで」

「かしこまりました」


 メタボハゲが指定したのは、都内でも一番の高級住宅街だった。独身のオヤジが家を構えるようなところじゃあないし、まさかこの若い女が嫁ってこともねえだろう。嫁にしては服装が派手すぎる。へへ、やっぱり不倫カップルだな。


 走行中、女はずっとメタボハゲにべたべたと凭れかかっていた。あんなアブラギッシュなオヤジに引っ付いて気持ち悪くないのかね? 男の俺でもまっぴらごめんなギトギト具合なのに。


「今日食べたあれ、なんていったっけ……忘れちゃったけど、おいしかったぁ~、いつもありがと、けんちゃん」

「はっはっは、あれぐらい、ひとみちゃんのためだったらはした金だよ」


 どうやらこのメタボハゲは女にめちゃくちゃ高いメシを食わせてやったらしい。うらやましい話だねえ。毎食牛丼のワープアis俺。

 時計を見ると、ついさっき日付が変わったところだった。メシ食っただけならこんな時間になるわけないし、こいつらを拾ったのはホテル街だから、まあ、あとはわかるな? ディナーってのはつまり隠語なわけよ。


 それにしても、つくづくいい女だ。ちょっとケバいし、頭は悪そうだけど、モデル体型っていうの? 脚がスラッとしてさ、乳もそれなりにあって、髪は綺麗だし、顔も整っててさ、バックミラー越しでもめちゃくちゃいい女だってのがわかる。

 なんでこのメタボハゲが、こんないい女を抱けるわけ? そんな包容力とかあるタイプにも見えないし、やっぱり金か? 金なのか?


 あ~~~~、もう、やんなっちゃうね。


 メタボハゲが告げた目的地に着くまで、見ているこっちがイライラしてくるぐらい、メタボハゲと女はイチャイチャしっぱなしだった。


「ああ、そこの角曲がったところの家。……ああ、違うそこじゃない、もう一つ先の」

「申し訳ございません」


 メタボハゲに言われるままに着いたところは、住宅街の中でもとりわけでかい一軒家だった。屋敷って言った方がニュアンスが伝わるかも。メタボハゲはここまでの運賃を払ってから、女にも金を握らせた。諭吉が五枚、十枚……いや、もっとか?


「じゃ、これで帰ってね、ひとみちゃん愛してるから、また遊ぼうね」

「ありがと~、けんちゃん優しい。またね」


 そんな気色悪い別れの挨拶のあとで、ねっとりとベロチューをかわしてから、メタボハゲは車を降りた。車体がふわっと軽くなって、まるで突然月にワープしてしまったみたいだった。月ってさ、重力が地球の1/6しかないらしいぜ。それぐらい誰でも知ってるだろうけどさ。

 家に入っていくメタボハゲの背中に、女は笑顔で手を振る。何がそんなに楽しいんだよ、クソが。


 しかし、メタボハゲの姿が見えなくなると、女の態度はがらりと一変した。ヘリウムガスが切れたのかと思うぐらい、声のトーンも一段低くなった。


「……あ、H――までお願いします」

「は、はい、かしこまりました」


 女が告げた目的地は、県境を超えたところにある街だ。あのメタボハゲ、そんなところに愛人を囲っていやがるのか。まあ、遠ければ遠いほど俺達タクシードライバーにとってはいいお客さんなわけで、文句は言えねえ。俺はそのまま車を走らせた。


「あ~クッセ……ほんとにちゃんとシャワー浴びたのかよあのクソオヤジ……」


 女はそう呟いて、体にやたらめったら香水を吹きかけている。その匂いがあまりにきつくて、俺は一瞬意識が飛びそうになった。女は次にスマホを取り出し、どこかに電話をかけ始める。


「……あ、コージ? うん、今ね~ユミコと久しぶりに飲んでたの。今から帰るとこ~。え? 浮気? そんなわけないじゃ~ん、あたしが好きなのはコージだけだよ。うん。愛してる。うん。わかってるって。は~い、それじゃまたね~」


 彼氏か……。哀れなりコージ君。同情するぜ。


 通話が終わってからも、女はずっとスマホをいじり続けている。バックミラー越しの俺の視線には全く気付く様子がない。


 それにしても、なんていい女なんだろう。

 ぱっちり二重の目に、すらりとした鼻筋、唇はぽってりと肉感的で、輪郭も小さくまとまっている。胸も控えめにいってDカップはありそうだし、赤いタイトなワンピースから覗く、無駄な肉のついていない長い手足。露わになった滑らかなその脛が、街灯の光を浴びて、てらてらとオイルでも塗ってあるみたいに光っている。


 このまま、この女を乗せたまま、どこか遠くへ行けたらどんなにいいだろう。きっと、俺の退屈な人生の中で最高に幸せな時間を過ごせるはずだ。


 ……こんな女のどこがいいのかって? こんなビッチの?

 わかっちゃいねえな。ほら、天は二物を与えずっていうじゃん? この女はこれだけ美しく生まれてきた、だから美人はバカで性格悪くても仕方ねえんだ。

 じゃあブスは性格がいいのかっていうと、世の中そう上手くはいかないんだな。だってさ、ブスってやつは毎日鏡を見ると自分のひんまがったツラを拝まなきゃいけないだろ? それで性格が捻じ曲がらないわけがない。よーくわかるよ、俺の性格がこんなになったのも、俺の顔が悪いせいだからさ。

 美人もブスもだめなら、そのどっちにも入らない普通の顔の女はどうなのかっていうとな、これが難しい。普通の女なんてのは、厳密にはいねえんだよ。

 例えばさ、ブスが何人か集まるとするじゃない? そうすると、そのブス達の間で誰が一番マシかっていう、どんぐりの背比べみたいな争いが始まるわけよ。それで、その中で最も勘違いなやつが、自分はそれなりにかわいい、とか思い始めるんだ。ブスのくせにさ。

 ブスでさえそうなんだから、普通の顔の女はどうなると思う? もう、そりゃあ酷いもんだぜ、女の自意識過剰ってやつは。


 でもね、別に俺はそいつらを責めるつもりはないの。ブスはブスなりに、普通は普通なりにさ、頑張って生きてると思うんだよ。誰だって生まれ持った資質の範囲でしか頑張れない。ラノベのヒロインみたいに、可愛くて性格がよくて主人公に気があって最終的にちゃんとヤらせてくれる女なんて現実にはいない。どうせ皆どこかに欠陥があるんだったらさ、せめて見た目だけでも綺麗な女を眺めていたいし、側に置いておきたいし、抱けるなら抱きたいって思う。これ、当たり前だよね?


「……あの、運転手さん、さっきからなんか遠回りしてない? 道そっちじゃないんだけど」

「あ、す、すみません、この辺あまり走らないもので……」


 女はむすっとふくれっ面になって、またスマホの画面に目を落とす。使えないやつ、とその目が語っていた。

 わかってるんだよ。わかってるんだよ遠回りだってことぐらいさ。こう見えてもプロだよ? この辺の道なら居眠りしながらでも間違わないっつの。俺はただ美人を眺めたかっただけなんだよ。このタクシーという密室の中で、少しでも長く同じ時間を過ごしたい、ただそれだけなの。さっきあのメタボハゲからもらった金があるなら、ちょっとぐらい遠回りしてもまだ何万円も残るでしょ? そんなにケチる必要あるか? 美人ってのは見られるために生まれてきたもんだろ? それしか価値がないんだもんな。


 あ~もう、嫌になるね。なんか萎えた。せっかく美人に当たったと思ったらこれだよ。

 俺はこの通り、金も学もないし、イケメンでもないからさあ、今まで俺が抱いてきた女といったら、ブタが電信柱に正面衝突したみたいな顔の女とか、エイを無理矢理3Dにしたような顔の女とか、サッチャー錯視みたいな女とか、そんなのばっかりだったわけよ。それがさ、突然こんな美人を目の当たりにしてみ? ちょっとぐらい目の保養をしたいと思うだろ? ね、俺の言うことおかしいか?


 おかしくないよな?

 おかしくないって言えよ。

 誰か俺を肯定しろよ。


 なあ?


 はあ……。

 なんで俺の人生こんななんだろ。

 前世で何か罪でも犯したのか? もう前世のことなんか憶えちゃいねえし、そもそもとっくに時効だっつの。

 あんな汚えメタボハゲがこんないい女を抱けるのに、俺はその女をちょっっっっっっぴり連れ回すことすら許されないの?

 こんな世の中、狂ってる。


 タクシーは街中を抜けて、県境へと繋がる国道に入った。もうすっかり深夜だから、すれ違う車の数もあまり多くはない。

 女は相変わらずスマホの画面とにらめっこしたままで、俺の存在なんて気にも留めていないらしかった。


 国道には山をぶち抜いて開けたトンネルが数ヵ所あって、中でも、県境近くあたりにあるトンネルはすこぶる長い。

 いくつかの短いトンネルを潜り抜けて、俺の運転するタクシーは、その県境の長いトンネルに差し掛かった。


 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。


 『雪国』の冒頭の一文が思い起こされる。

 このまま、トンネルを抜けたら、どこか知らない世界に、この女と二人きりで……そんな妄想が脳裏をよぎる。


 あはは。

 そんなこと、あるわけねえじゃん。


 馬鹿みてえ。


 タクシーはトンネルを抜けた。





 ……あれ?


 なんだろう、見たことのない景色だ。左手には見渡す限りに深い藍色の海が広がり、右を見ると、鬱蒼と繁る深い広葉樹林。前方には森に覆われた山が高く聳え、空には雲一つなく、夕暮れの薄桃色に染まっている。

 俺と女を乗せたタクシーは、海岸線に沿った白い砂浜と森の間に挟まれた草むらの中を走っていた。


 はて、どこかで道を間違えただろうか。いや、そんなわけはない、バイパスはずっと一本道のはずだ。

 バックミラーを確認すると、周りはこんなことになってるっていうのに、女はまだスマホに夢中だった。リアガラスの向こうにはトンネルの影も形もなく、フロントガラスから見る景色と全く同じ夕焼け空が広がっている。


 そもそも、今は深夜だったはずだ。夕焼け空なんてありえない。カーナビの画面に表示されたデジタル時計は午前一時半。GPSは受信できず、現在地表示はトンネルの前で止まったままだった。

 ここは一体どこだ……?


「……あれ? 電波が……」


 女はようやくスマホから顔を上げ、しきりに周囲を見回し始めた。


「……え? なにこれ……運転手さん、ここ、どこ?」

「そ、それが……私にも、何がなんだかさっぱり……」


 俺はタクシーを止め、外に出る。

 全く見たことがない風景だ。まさか、本当に異世界に来てしまったのか……?

 同じくタクシーから降りた女は、俺の肩を掴んで激しく揺さぶった。


「ちょっと! あんた! これどういうこと? 説明しなさいよ! オラ! しろってば!」


 女はしばらくの間ここには書けないような汚い言葉を大声で喚いていたが、俺がその腕をがしっと掴んだ途端に大人しくなって、怯えたような目でこちらを見返してきた。


 なんだかよくわからないが、どうやら違う世界に飛ばされたことは確かなようだ。

 人生大逆転のチャンスが訪れたのだ。

 俺は高笑いを必死で堪えていた。


 現世への未練? そんなもん、あるわけねえだろwww

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