■第五信①


拝啓

親愛なる唯様


 あれ以来、荘は時折、菜園ポタジェを訪れます。凪は干渉されたくないのか、迷惑そうにしていますが、声高に近寄るなと突っねはしません。というより、彼と目を合わすのさえ厭うかのようなのです。

 彼は毒草とは別区画の、お茶の材料や料理の付け合わせに使えそうな無毒の香草を摘んでいきます。必ずマスクとゴーグル着用で、念には念を入れてとばかり、ハーブのハンドブックを携えて。最初は彼が持参したものかと思いましたが、表紙の手擦れに見覚えがありました。僕が段ボール箱を開けて棚に並べた実用書の一冊に違いありません。勝手に持ち出さないでくださいと文句を言おうとしましたが、彼はサッと背を向け、引き上げてしまったのでした。

 僕らの予想に反して、嚴たちは荘ではなく澪に擦り寄って行きました。生殺与奪の権を握った感のある荘でなく、単なる助手で、これといった力のない女にを使うとは少々驚きでしたが、嚴たちにとっては好ましい、平板な日々に適度な刺激をもたらしてくれるなのでしょう。彼女も満更ではなさそうで、雑用がてら無駄話に興じています。

「鼻毛を伸ばしやがって」

 凪は嚴たちの様子を見て、冷笑混じりのしゃがれ声を漏らしました。軽蔑しつつ、しかし、彼らがデレデレと澪に構って、こちらにつまらないケンカを売るのも忘れてしまうなら好都合だというのです。

 ところで、そんな凪にも変化が見られました。前日までに比べたら格段に食欲を発揮して、まともに一人前——正確には末尾にが付きますが——を平らげたのです。

「また陸海兄弟に説教されたの?」

「……それもあるけど」

 さっきの献立にはどうしても手を出さずにいられない好物が入っていたのだと、廊下を歩きながら、凪は少しが悪そうに答えました。別に体裁を気にするほどの問題でもないと思うのですが、凪は何故か迂闊に弱みを見せてしまったとでも言いたげな、後悔の色を滲ませています。

「へえ。どれが?」

 機嫌を損ねる恐れもあるので、ちょっとドキドキしましたが、僕は敢えて切り込んでみました。普段はあまり言葉自体を発しない凪が——それは声を出すことに苦痛が伴うからなのですが——今日は積極的に喋ってくれそうだったからです。

「ビーフカツ……正確にはヴィール・カットレット、ハーブ入りトマトソース添え」

「ああ、美味かった。え、?」

「仔牛の肉」

 凪は珍しく饒舌に、好きな食べ物の話を始めました。このヴィール・カットレットというのは、マスタードソース、あるいはデミグラスソースで供する店が多いけれども、香草の効いたトマトソース掛けが一番気に入っているのだ……と。

 僕は調子に乗って、他にはどんなものが好きか訊ねました。「タイトル不詳」と断って凪が語ったところによると、それは冷たいスープの一種だけれども、フルート型シャンパングラスの半分までをコンソメのジュレで満たし、その上に空豆の濃いポタージュを載せて二層仕立てにした料理だというのです。ジュレが五に対してポタージュが二から三くらいの量で、目に涼しい色と独特の香りが心地よく、柄の長い細身のスプーンをそっと差し込んで、プルプル震えるジュレが浅緑あさみどり薄衣うすぎぬを纏ったところをスッと口に運ぶと、ひんやり、つるりと喉を通って、得も言われぬ感動に襲われるのだ……と、懐旧の念に駆られてか、凪は少し遠い目をしました。見慣れぬ表情に戸惑う僕には、お構いなしです。しかし、いつになく声を出し過ぎて辛くなったのか、不意に顔を歪めて黙ってしまい、話は中途で終わりました。

 陸が現れて、ジムへ行こうと促したのをしおに、凪はいつもの硬い雰囲気に戻り、右手の甲で頬を擦って歩き出しましたが、一瞬、微かな羞恥の色が浮かんだのを、僕は見逃しませんでした。

 僕は図書室に誰もいないのを確かめて急いで中に入り、鍵を回してカウンターの引き出しを開けました。例の、整理済み図書について記録したスパイラルノートと一緒にしまってある英和辞書を取って、またすぐに施錠し、外へ出ました。

 小さな辞書をジーンズのポケットにじ込み、煉瓦の遺構を踏み越えて灯台を目指しました。急傾斜の螺旋階段を上って制御室へ。そこには海と、反・凪派ナンバー2ともいうべき哉が僕を待っていました。木製の花台かだいに据えた、包帯で縛めてミイラ状にされた胸像の左右に立って。海が俗に言うを花台の余白に置き、続いて僕が辞書を破いて紙片を差し出しました。ちょうどgrassという単語の載っているページだったので、笑ってしまいましたが。

「待ってたぜぇ」

 哉はパケ——A8寸法のジッパー付き保存袋——を開けて、辞書の切れ端に乾燥させたハーブを広げ、器用にクルクル巻いてを作ると、ライターで火を点けて一服しました。いいえ、普通のタバコと区別して言っているだけで、大麻などではありません。荘が料理に使うために持って行くのと同じ、香草の類いですが、タバコが手に入らないので、気休めにしているのです。

「……で、どうなんだ?」

「ご覧のとおり。鼻の下、伸ばしまくり」

「あの程度でも?」

「女は女さ」

 哉の言葉に、海はチッと舌打ちして、

「見る目がねぇな。節穴フシアナか」

「物事を記号でしか捉えられん。が弱いんだ、連中は」

 おわかりでしょうか。哉は実は反・凪派に潜り込ませた密偵で、僕と海が連絡係リエゾンを務めているのです。

「活性化されたっつーのか、めっきり気持ちが外向きになってる。詠、ポストの目盛り、見てないのか」

「えっ?」

「毎日結構なスコア叩き出してるぜ」

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