第8話 顔

「やべえ! “東間凪子”じゃん!」


 がさがさとした、下品な男の声が外から聞こえた。

 急いで声のする方に駆けていけば、最悪の光景が目の前に広がる。


 彼女の周りに、三人の若い男が立っていた。オーバーサイズの服装が、制服姿の彼女とは対照的にだらしない。

 彼らは、私と同じくらいの年頃だろうか。しかし、足元がおぼつかない様子を見ると、もしかしたら酔っ払っているのかもしれない。昼間から、こんな街中で。


「今の声、ぜってーそうだし!」

「この前、配信で“セクハラ発言ぶっ潰す勢”とか言ってただろ! ぶっ潰してもらえますかねー?」


 東間凪子よりも背の高い男たちが、彼女を取り囲む。異変に気づいた通行人が、「やめろよ」と腕を掴んでも、それを振りほどいてまた声を上げる。


「みなさあーん、この人、大人気Vtuberの“東間凪子”ですよー! 顔バレ大歓迎ー!」


 人だかりが出来始める。騒ぐ男たちを止めようとする人、男たちの陰でよく見えない東間凪子の姿を写真に撮ろうとする人、なんとなく騒ぎを目にして、通り過ぎる人。


 私はどれでもなかった。

 気づいたら、人ごみをかき分けて火中に飛び込んでいた。


「いい加減にして!」


 信じられないくらい、大きな声で叫ぶ。東間凪子の体を急いで覆うと、彼女の暖かさが伝わって来た。

 私の腕の中で、小さな女の子は震えている。

 震えを止めたくて、一人ぼっちじゃないよと伝えたくて。守らなくちゃいけないと、そう思って。私は、彼女を全身で抱きしめた。頭を撫でてみるが、彼女は私の胸に顔をうずめたまま、ピクリとも動かない。


 私の様子が可笑しかったらしい。男たちは下品な声で大笑いする。


「うわー、王子様気取りの女が来た!」

「凪子さあん、ひょっとしてこれが“センセイ”ですかあ?」


 人だかりが割れて、その先から警備員のような紺色の制服を着た男性二人がやって来た。その姿を見て、酔っぱらいの男たちは「やべえ」と声を上げて走り出す。

 警備員の一人は、その場にいる人々に解散するよう誘導を始める。もう一人は、立ち尽くしている私たちの方にやって来て、品行方正な声で言った。


「大丈夫ですか?」

「大丈夫です」


 答えたのは、私ではなかった。

 いつの間にか私の元を離れた東間凪子が、何事もなかったかのような顔をして、いつも通りの声色で、言ったのだ。


「お騒がせしてすみませんでした」

「いいえ。お二人とも、災難でしたね。それでは」


 警備員が去っていく。何の変哲もない雑踏の中で、私と彼女は顔を見合わせた。


「凪子ちゃん、ごめん。一人にしちゃって」

「別に、センセイのせいじゃないでしょう。こんな真昼間から男に絡まれるとか、この国の治安はどうかしてますよ」

「そういうの、言わなくていいよ」


 だって私は、東間凪子が震えていたのを知っている。


「なんて言うか、怖かったら、“怖かった”って言った方が気楽でしょ? それか、“ムカついた”でもいいし」


 彼女は私を見上げていた。しばらく何も言わないまま、私の顔を眺めている。

 でも、それに飽きてしまったのか、足元に置いた荷物を持ち上げると、顔を逸らして小さく口にした。


「……怖かったですけど、来てくれたじゃないですか」

「それは、そうだけど」

「十分嬉しかったんで、もういいです」

「え?」


 そんなこと言われるなんて、思っていなかった。驚いて聞き返してしまえば、彼女は、言葉を繰り返す代わりに声を上げる。


「ありがとうございましたって、言ってるんですよ!」

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