第6話
次に来たのは、テーマパーク近くにある水族館だった。さっきの遊園地での出来事は忘れて、楽しんでいこう。
ちなみに首元のキスマークだが、コンビニで絆創膏を買って、それを貼って隠した。店員さんの俺を見る目が、なんとも言えなかった。
「このお魚かわいいね! 宇和神くん!」
魚を見てはしゃぐ重士を愛らしく思いながら見つめる。横顔も整っていて可愛い。
「ダンゴウオだって! かわいいね!」
「そうだな、かわいいな」
重士がな。
しかし水族館か……。いつぶりだろう。久しぶりに来たがやっぱり雰囲気いいな。
俺はこの不思議な感じが好きだ。幻想的なこの感じが。
「宇和神くん! あっち行ってみよ!」
目をキラキラさせている重士。やっぱりかわいい。楽しんでくれているようで何よりだ。
その後、いろいろと二人で見てまわっていると一つの水槽が目に止まった。
カップル写真コーナー、と書かれた人二人分くらいの大きさの水槽があった。説明書きには、ここで写真を撮れば幸せが訪れる!? と書いてある。幸運を訪れさせる魚の写真と説明が書いてあった。間にこの水槽を挟んで撮るのだろうか。
こういうの、重士と撮ればいい思い出になるかもな、と考えていると、後ろから声をかけられた。
「よろしければお撮りしましょうか?」
うわっ、と声が喉まで出かかる。
いつのまにか後ろにスタッフの人がいた。俺の後ろに立つんじゃないよ。立っていいのは愛菜之だけだぞ!
「いいんですか?」
全く驚いていない重士が訊く。少しは驚いて欲しい。
スタッフがいつのまにか後ろにいたことよりも写真の方に興味津々、といった感じだ。
「いいですよ。何枚ほど撮りましょうか?」
そう訊かれた重士が急に黙り、腕組みしながらなにかを深く考え出した。
「二十枚……? でもここは三十枚ぐらい……」
なにか良からぬことを考えてそうなので、俺が代わりに答えた。
「三枚、お願いします」
スマホをスタッフの人に渡し、水槽を間に挟む。
……やばいな、これ。めちゃくちゃ照れる。周りの人たちが結構見てる。
「ではいきますよー」
間延びしたスタッフの指示を聴きながら、重士との間に水槽を挟む。
「はい、チーズ」
シャッターの音が鳴る。二人でお揃いのポーズをとってみる。顔を見合わせて笑い合ってみたりも。周りの視線が少し気になるが今は出来る限り、写真に集中だ。
「ではもう一度ー、はい、チーズ」
もう一度シャッターの音が鳴る。今度はまた別のお揃いポーズで。なんだか少し恥ずかしい。
チラッと愛菜之の方を見てみると、愛菜之も少し照れているのか、頬が赤くなっていた。思わず顔がにやけそうになる。
「はーいラストでーす。はい、チーズ」
必死にニヤつくのを抑えて、次のシャッターの音が鳴るのを待つ。その時だった。
スタッフの人が、周りの人が、驚きの声をあげた。
重士が写真を撮る瞬間、俺の腕に抱きついたからだ。
「重士!?」
俺も遅れて声を上げる。
恥じらいだとか嬉しいだとかの感情がごちゃ混ぜになって、最初に思い浮かんだ感想が、水槽を挟んで取らないとダメだろうに、という感想だった。
「とてもいいものを見させていただきました」
スタッフの人がすごい笑顔でスマホを渡してくれた。心なしか肌のツヤも良くなっている気がする。
「はぁ、それは良かったです」
心臓がバクバクと鼓動を打っていて、俺もよくわかんないことを言ってしまった。
「では引き続きお楽しみくださーい」
微笑ましいものにかけるような声と笑みに見送られながら、ふわふわとした頭のままで別コーナーへ歩いた。
「ご、ごめんね。宇和神くん」
重士が少し顔を赤らめながら謝る。思わず、いや耐えられずやってしまったという感じなんだろう。と、恥ずかしさを紛らわすために憶測を立ててみたりする。
耐えられずにやってしまった、という予想が合っていたらめちゃくちゃ嬉しいけど、そんなことはないんだろうな。
「いや大丈夫だ。てか、嬉しかった」
実際、嬉しかった。好きな女の子に抱きつかれて嬉しくない男が世界のどこにいるっていうんだ。
「ほ、ほんと? それならいいんだけど……」
少し恥ずかしそうに、だがホッとしたように息を吐きながら重士は言う。
「ほんとだって。あ、写真送っとくよ」
不安を残さないよう、これからも抱きついてくれるよう念を押しつつ、俺はスマホでさっきの写真を送った。改めて見ると、三枚目の写真の重士かわいい。耳まで真っ赤になって、えいっ! って感じに抱きついたせいで目を瞑ってしまっているところも、ほんとにかわいい。耐えきれず緩む口元に手を当てて隠す。どうしてそんな可愛いことばっかするんだ。
「ありがとう、宇和神くん。スマホの壁紙にするね」
重士が実に嬉しそうに言って、ウキウキとスマホを操作する。
言われて気づいたが、そうか壁紙。そんな素晴らしいことができるんだった。なんで気づかなかった。灯台下暗し。けど愛菜之と一緒なら、灯台の下さえ照らしていけそう。
「俺もそうするよ。これでいつでも重士の顔が見れるし」
けれど、晴我は思うんですよね。この写真を壁紙にすべきではないと。
自分の顔はあまり見たくない質なので、壁紙にするなら重士だけを壁紙にしたい。そのために重士の写っている部分だけを拡大して壁紙にしても、画質が荒くなってせっかくの美人さんの質が落ちてしまう。
愛菜之単体の写真が欲しい。単体って言い方はアレな感じがするけど。
なにがなんでも手に入れたい。そう、人は強欲なのだ……。どうしたもんかと考えながら歩いていると、目の先にちょうどよく店があった。
そこで俺はとっても素晴らしいことを閃き、思いつくままに重士を呼び止めて、重士を誘った。
「少しカフェで休んでいかないか?」
「見て見て宇和神くん! ジンベエザメパフェとかあるよ。パフェ、好きでしょ?」
楽しそうにメニュー表を見せてくる重士。海の生き物にちなんだ可愛いケーキやらパフェやらが色々と載っている。どれも美味しそうだ。甘党の俺にはとても嬉しい。
そして、パフェ。甘党にとってはエクセレントすぎる甘味。それをチョイスしてくれる愛菜之は俺に対するメタデッキでも組んでるのかね。
ていうか、なんで俺が甘党ってこと知ってるんだろう……。
「俺の好み、完璧に理解してるんだな」
「もちろん! 大好きな晴我くんのこと、ずっと見てきたから!」
ずっと、とはいつ頃からだろうか。でも可愛い可愛いとびきりの笑顔を見ていたらそんな疑問はしおしおと薄れていった。
「嬉しいよ。じゃあ、それ頼もうかな」
「うん!」
ジンベエザメパフェがきた。思ったより大きく、二人で食べきれるか? と、ちょっぴり不安になる。けどうまそう。なにが入ってるかはよく分からないけど、なんでかこういうカフェのスイーツって美味しそうに見えるんだよな。
「すごーい! かわいいね!」
そうだね可愛いね重士がね。
パフェには、ジンベエザメの形をしたチョコが乗っていたり、灰色のアイスとバニラアイスが入っていたりでオシャレベルが高かった。ていうか灰色のアイスってどうやって作ってんだ。
「じゃ、食べようか」
そう言ってスプーンでアイスをすくう。さっき閃いたことを実行するための布石として。
「ほら」
そしてアイスの乗ったスプーンを自分ではなく、重士に向けた。
「え? わ、私に?」
重士が慌てた様子で驚く。あたふたしてる間に、スプーンの上のアイスはじわじわと液体になっていく。
「ほら、早く食べないと溶けるぞ」
俺がそう言って急かすと、重士は慌ててスプーンのアイスにかぶりついた。口元に手を当て、口の中で溶けていくアイスに味わっている。
「……えへへ、あーんしてもらっちゃった……」
来た。シャッターチャンス。
嬉しそうにしている重士を、しっかりとスマホのカメラに収める。
ごめん、と心の中で謝っておく。でもどうしても重士の写真が欲しいんだ。一写入魂。うらぁぁぁあ!!
「え!? 宇和神くん!?」
パシャリと音が鳴る。ブレたりはしていないようだ。うまく撮れている。
計画通りすぎて、俺は思わずニヤリと笑ってしまう。俺がキラだぁ……。
「重士の写真がほしくてさ」
「で、でも! なんであーんしてもらってる時の私なんか撮るの?」
「いや、あーんしてもらってる時の重士すごい幸せそうな顔でかわいいし、見ててこっちも幸せになるし」
そう言うと、耳まで真っ赤な重士が顔を手で覆った。覆ったせいか声がくぐもっている。
「わ、私、だらしない顔になってたかな?」
指の間から覗く目が、とってもかわいい。恥ずかしそうにモジモジしているのもたまらない。もう一枚写真を撮りたいが、撮ったら怒りそう。
「俺はどんな顔の重士も好きだぞ」
からかい半分でそう言ってみる。本当はだらしない顔になんてなってない。
なってたとしても、絶対に可愛いだろうけど。
「だらしない顔になってたってこと!?」
愛菜之が今まで一番驚いた顔をして、俺に聞いてきた。そのあまりの驚きっぷりに思わず吹き出してしまう。
「ごめんごめん。なってないよ」
思った以上のリアクションに笑いながら謝ると、頬をぷくー、と膨らまして重士が怒っている。もう全部可愛い。
「もう! 宇和神くんはもう!」
プンプン! という擬音が似合いそうな怒り方をする愛菜之に、どうにもならない愛おしさを感じる。抱きしめたいけど、こんなとこで抱きしめたらバカップルになっちゃうしなぁ……。
……もう十分バカップルかもしんないけどな。
「ごめんごめん」
「もう……。じゃあ、お返し」
そう言って、俺にアイスの乗ったスプーンを向けてきた。
少し躊躇いながら、そのアイスをありがたく食べる。顔を見合わせて、二人で笑う。
なんだろう、この満たされる感じ。
なんか今すごい幸せだ。
二人でパフェを食べた終わった後、もう少しだけ魚を見ていこうと重士に誘われた。
「その……もうちょっと、一緒にいたいなって」
こんなことを言われたら、断るなんてできるわけない。断る奴はきっとお母さんのお腹の中に、色々なものを置いてきてしまったんだと思う。
俺の腕を抱き、並んで歩く。腕に当たってる柔らかい物のせいで、色々と元気になってしまう。頼むから今は煩悩は消え去ってくれ、と強く願いながら歩く。
「見て見て宇和神くん! ほらこのお魚!」
愛菜之の楽しそうな姿を見てると、煩悩くんたちはどこかへ飛び去っていった。なかなか空気が読めるじゃないか。あとで相手してあげるから大人しくしててね。
そんなバカなことを考えていると、パタパタと足音が聞こえてきた。それはこっちに向かって進んできているようだった。
俺はそれに気づかず突っ立っていると、その足音の主にぶつかられた。
「おわ!?」
「わわ!?」
周りにいた人が驚いて声を上げる。
俺とぶつかってきたやつが共倒れになってしまった。俺はぶつかってきたやつの下敷きになる形だ。
(いつつ……)
後頭部を強く打たなくてよかったが、それでも痛いっちゃ痛い。思わず目を瞑っていた。頭を起こしたいのだが、唇になにか柔らかいものが押しつけられていて、頭をおこせない。
よくよく考えてみれば、頭を起こせないのは当たり前だった。
(え?)
恐る恐る目を開ける。ぶつかってきたやつは、俺と同い年ぐらいの女の子だった。そしてその女の子は、俺と唇を重ねてしまっている。道理で頭を起こせないわけだ。
「ご、ごめんなさい!」
女の子が慌てて立ち上がる。なんというか、ドジっ子って感じの雰囲気の子だ。自然と愛菜之と比べてしまうが、若干愛菜之に似ていなくもない。そんなのは今はどうでも良くて。
「ほんとうにごめんなさい! 気持ち悪かったですよね……?」
謝りながら手を貸してもらい、俺も立ち上がる。
「いえ、大丈夫です。怪我はありませんか?」
俺がそう聞くと、また一段と申し訳なさそうに大丈夫です、と女の子が言った。
「ごめんなさい、急いでて……」
それであんなに走ってたのか、大変だな。なんて同情してみたりするが、内心俺は焦っていた。別の、愛菜之以外の女の子とキスをした、という事実に、胸がバクバクと鼓動をうっている。
それは忘れよう。忘れないと頭が痛くてダメになる。ていうか、急いでるならこんなことしてる場合じゃないだろう。
「いえ、本当に大丈夫ですよ。それより、急いでるんですよね? 時間は大丈夫なんですか?」
今度は俺がそう訊くと、女の子はハッとなり、またもあわあわしだした。
「そ、そうなんでした! ごめんなさい、私はこれで!」
そう言ってまたも走っていった。落ち着かない子だなぁ、などとぼーっと考え、さっきの柔らかなものの感触を思い出してみる。
……すごく柔らかかった。ふわりと、女の子特有の甘い匂いもした。そんなふしだらなことを考えていると
「宇和神、くん……?」
重士が抑揚のない、負の感情がこもりにこもった声で俺の名前を口にした。
それだけで、俺の頬に一筋の汗が流れる。
「今、別の女とキス、したよね?」
思考が急回転する。どうやってこの場をおさめればいいのか、と。いや、誤魔化しなんてきかなそうだ。
なんと言えばいいのか悩み込んで、俺は黙ったまま立ち尽くしていた。
「こっちきて」
さっきと同じ抑揚のない声で、重士が俺の手を引っ張ってどこかへ連れて行かれた。
連れていかれたのは、近くの柱のかげだった。
人の通りも他に比べれば少ない。照明も当たりにくいから見えづらいだろうが、近くを通ればなにをしているか分かるような場所だ。
「ねぇ、宇和神くん。私以外の女にキスしたよね?」
「したというかされたというか……」
「どっちでもいいの。キスしたんだよね?」
「はい……」
短くそう聞いてくる声は、俺の背筋を凍らせるのには十分すぎる。
俺がキスしたことを認めると、急に重士が俺に抱きついてきた。
「ちょ、重士!?」
なんでまたこんなところで抱きつくんだ。さっきの知らない子にキスされた時よりも、より一層心臓が音を立てる。
てか、周りの人に見られたらいろいろとまずいんだが……!?
焦る心とは裏腹に、こんなところも可愛いなぁ、なんて思っている自分がいた。能天気すぎないか、と少し自分に呆れる。
「今から上書きするから、宇和神くんは少し大人しくしててね」
俺に拒否権はない、有無を言わせない、という迫力があった。
というか上書き、とはなんだろうか。なにをされるのか考えていると、俺の頬に手を添え、キスをしてきた。
「んむっ!?」
なんか驚いてばかりだな、とまたのんきに考えている。あまりの展開に脳が追いついていないのかもしれない。遅れて今の状況を理解する。
やばいやばいやばい。誰かに見られたらやばい。あまりの予測不能な事態にやばいしか言えない。
…………唇柔らけぇ…………。
「ぷはっ」
重士が唇を離す。解放されたか……と安心していると、間髪入れずにまたキスされた。酸素を取り込む余裕もない。
「んむっ!?」
塞がれた口から変な声が漏れる。
本当にまずい。このままじゃ周りの人に……! 早く終わってくれと願う反面、ずっとこうしていたいなんて思っている自分もいる。高校生男子だからこう思ってしまうのも仕方ないだろ!と、誰かに向かって言い訳していた。
そんなことを考えている俺をさらに焦らせる事態になる。
重士が舌を入れてきた。
「っ!?」
正気を疑った。けれど、すぐに俺は舌に意識が向いてしまう。入れてきた、というよりは捻じ込んできたそれは、熱く、ヌメりとしていて、それは俺の口内を、舌を、執拗に弄る。重士の唾液が俺の口に流れ込んでくる。鼻孔は重士の甘い香りに包まれ、脳も口も全部、重士に全て塗りつぶされそうだ。
どうするどうするどうする!! と、頭が高速で回転する。最悪の事態を考えて。
このままじゃ本当に周りの人に……!
「じゅ、んむ!? ……うし……!」
キスの合間合間に名前を呼び、止めようとするが効果はない。まるで俺の声なんて届いていないようだ。
「好き、宇和神くん……。私だけの……私以外を見ないで……」
止まらない。止まる気配がない。キスは、一向に激しくなっていく。
仕方がない、ここは無理やりでも離すしかない。
重士の肩を掴み、思い切り引き離した。
「ハァ、ハァ……、重士……」
息が切れている。喋るのもつらいほどに。肺は酸素を求めて痛いぐらいだ。
「宇和神くん……? なんで? ねぇ? なんで? 私のこと、嫌いになったの?」
不安そうに、縋るように聞いてくる。嫌いになんて、そんなわけがない。嫌いになんてならない。今もこれからも。
「違う……!」
空気を求める体に鞭打ち、否定する。だが、思いはそれだけじゃ伝わらない。
「じゃあ、なんで……! 私のキスは嫌がるの……!?」
重士が涙を目に浮かべる。
違う。嫌じゃない。むしろ嬉しい。好きな人にキスをされて嫌なわけがない。
思いは、言葉にしても伝わらない。それなら。
「……こっち」
残った酸素で声を出し、重士の手を取り、ツカツカと歩く。そうして歩いている間、二人共無言だった。
俺たちは水族館を出た。そのまま俺は、重士を人気のなさそうな路地へ連れていくり
「宇和神くん……?」
不安げな声を出す重士。
そんな重士を壁に追い詰め、俺は壁にドン、と手をついた。
いわゆる、壁ドンというやつだ。まさかこんなことをするなんて思ってもいなかった。
「俺は、重士のことを嫌いにならない……」
「宇和神、くん……?」
さっきよりかはマシだが、まだ不安そうな声が胸を抉る。彼女の不安そうな顔に抉られながら、言葉を続けた。
「重士が好きだ。愛してる。さっきの、知らない女の子とキスをしたのは、事故だ。好きでしたわけじゃない」
重士の目に再び涙がたまる。悲痛そうな顔が、俺の胸を締め付ける。
「嫌なの。事故でも、宇和神くんがキスをするなんて……」
重士の頰が濡れる。
ああ、好きな女の子を、なに泣かせてるんだろう。
自分が、嫌になる。
「不安なの。不安に、なるの。私よりも別の女のほうがいいって、なるんじゃないかって……」
大きな瞳から、涙を溢し続けてそう話す彼女は、辛そうに顔をうつむけた。
「もし、私が宇和神くんにふさわしくないのなら……他の女の方が、宇和神くんを幸せにできるなら、潔く諦めるから。だから、宇和神くん。正直に、言って……?」
心底辛そうに、まるで大切なものを壊されたかのような顔をしている重士に、俺は
「愛菜之」
名前を呼んだ。
「俺が好きなのは、愛菜之、お前だけだ。お前よりいい女なんていない。俺はお前が好きだ。だから安心してくれ」
呼ばれた瞬間、重士は弾かれたように顔を上げ、目を見開いていた。
涙を流しながら、俺の正直な言葉に、顔を真っ赤にしている。
でも、すぐに現実を、事実を飲み込んで、意を決したように口を開いた。
「宇和神くん。……ううん、晴我くん……」
名前を呼んだ。
「上書きの続き、して……?」
それで重士が安心してくれるなら、お安い御用だ。
重士の頰に手をあてがう。
重士が目を閉じる。
私の頰に宇和神くんの手が触れる。
私は目を閉じる。
宇和神くんが、キスをしてくれた。
柔らかく、優しく、キスをしてくれた。
幸せな気分に浸って、時間も何もかも飛ぶ。
さっきみたい私の強引なキスの時はなかった、温かな感覚が、胸に広がっていく。
晴我くんは、私を選んでくれた。晴我くんは、私をずっとずっと幸せにしてくれる。
大好き、大好き大好き大好き。
唇を離す。
重士の目にはもう涙はなかった。あるのは、綻び、柔らかな笑顔だけだった。
「……帰ろう」
俺は手を出す。
涙をぐしぐしと乱暴に拭って、愛菜之が聞いてくる。
「……繋いでいいの?」
許可なんていらない。いつでも、いつまでも繋いで欲しいくらいだ。
「いつでも繋いでてほしいぐらいさ」
少し照れながら、ぽりぽりと頬をかいてそう言うと、重士はまた柔らかく笑い、俺の手を取った。
「んじゃ、ここでお別れだな」
ここからは俺と重士の帰り道は反対方向になる。
送ろうか? と聞いたが大丈夫、と断られた。迷惑はかけられない、と言って断られた。別に迷惑じゃないんだけどな……。
今の時間なら襲われることもないだろうが……それでも心配だ。
だが断られてしまったものは仕方ない。無理やりついて行こうものならそれはストーカーってやつだ。
「また明後日、学校でな」
そう言い、帰ろうとした。
「晴我くん」
俺の名前を呼び、引きとめた。
下の名前で呼ばれるって、結構幸せなことらしい。
緩みそうな口角を引き締めて、振り返る。
「今日は、ありがとう。楽しかった」
そう笑顔で言ってくれた。
「……ああ」
「じゃあ、またね。晴我くん」
少し赤みがかった頬で、照れを隠すようにパタパタと小走りで帰っていく。その後ろ姿を見送り、俺も帰り道を歩き始めた。
一時はどうなることかと思ったが、最後は笑顔になれてよかった。
「ねぇ、なんであんなことしたの?」
私がそう聞くと、その女はニヤニヤと笑いながら答える。
「えー? 面白そうだったんだもんー。あの男さー」
その女は楽しそうに、わざとらしい間延びした口調で続ける。
「いやー楽しかったよー。しっかしさー、あーんな地味な男が好きなわけー? 趣味悪いよー?」
「……晴我くんは、優しい」
「優しいだけでしょー? そういう男っていろんなやつに優しくしてるよー」
「……晴我くんは私を受け入れてくれる」
「受け入れてくれるって言ってもさー、どうせそのうち折れるよーその男ー」
「……もういいから黙って。私たちの仲を邪魔しないで」
拉致が開かない。この女との話はいつもこうだ。
「そんなこと言われちゃったらもーっと掻き乱したくなっちゃうじゃーん」
その女はまた、楽しそうに言う。
「まぁーでもキスはやりすぎたかなー、反省反省ー。私の大事なファーストキスが取られちったよー」
「っ!」
思わず、その女の首に手をかけそうになる。けれど手を出せばおしまいだ。
晴我くんは、きっと私が手を汚すことを嫌うだろう。
手を出せない私を見て、その女はまた楽しそうに笑って、言った。
「期待しててね、おねぇちゃん」
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