File.12

 夜も更けて静寂が訪れ始める。アリシアはとっくに寝室で寝息を立て始めており、ジャックは一人、二階のデッキでバーボン入りのグラスを傾けていたが口を付けることはなかった。

 人間にとっては自分の手足も見失うような暗闇でも、ジャックには関係ない。

 百メートル以上離れた所で複数の人影が動き回っていた。時折合図のためか朧げなペンライトの光が揺れている。


 偵察か夜襲か、どちらにせよ好ましくないシチュエーションだ。

 ジャックは傍らのショットガンを掴み上げ、ライフルドスラグ弾を装填した。弾薬の方に螺旋が彫られていることで疑似的にライフル並みの射程と精度を散弾銃に与えられる優れものである。


「我慢比べか……得意じゃないんだよな」


 基本的に睡眠時間が人間の倍近い猫にとって警戒任務は苦手分野だ。一定以上の集中力を保っていられるのは二時間が限度であろう。

 あくびを噛み殺しながら遠くに見える小さな人影を注視していると、無限に夜が続くと思えるほど、時間の進みが遅い。ジャックの瞼は限界を迎えつつあった。


 最終手段として、ずっと放置していたバーボンを一気に喉に流し込んだ。体の奥から炭火のような熱気が昇ってきて目が覚めた。

 しかしすぐさま軽いめまいが襲い掛かってくる。それでも、揺らめく頭で何とか怪しい影を見張り続けた。

 幸いなことに人影はそれから三〇分程度で退散し、動きのない平和な光景に戻ってくれた。

 ジャックは頼りない足取りで部屋に戻り、そこから全ての扉と窓の戸締りを確認していく。

 カーリー家の玄関扉には防犯装置が付いているし、窓ガラスも破壊検知用のセンサーが取り付けてある。無音での侵入は不可能にも等しい。

 ジャックはよたよたとソファによじ登り、銃を抱えたまま眠りに落ちた。



 翌日の午前十時頃、ジャックとアリシアはメイフォールズに向けて大急ぎで車を飛ばしていた。


『ドルフ・ファミリーとの交渉の場が用意できました。本日正午にメイフォールズのブルーリバーホテルの最上階で待っているそうです』


 というブラッドからの連絡が来たのが数分前。農場からメイフォールズには車で一時間強かかることを考えると、かなりぎりぎりの時間設定だ。


 ここまで的確な嫌がらせを遂行するブラッドのこだわりにはほとほと頭が下がる。

 ジャックはスマートフォンで何度も時間を確かめながら、メイフォールズについてからの予定をアリシアに伝える。


「街に着いたら、君はブラッドの家で待っててくれ」

「……うん」


 予想外に素直な返事が帰ってきたので、思わずジャックは彼女の顔を覗き込んだ。


「さすがに、付いてくるとは言わないんだな」

「だって、どう考えてもやばそうじゃん」

「まあな。俺も胃に穴が空きそうだ」


 マフィアとの会合に子連れで行くなんて話は聞いたことがないし、下手をすればそこに「遅刻」というステータスも付与されかねない。


「もし俺が五大湖に沈められたら遺体を引き上げてくれ。水は嫌いなんだ」

「怖いこと言わないでよ」


 一応ジョークのつもりだったが、自分でも笑えないタイプのものだ。犯罪組織と仕事で関わったことは何度かあるが、敵対状況で交渉の場に出るのは初めてのことだった。

 何とか午前十一時半にブラッドの家へと到着。アリシアと車を無理矢理預からせて、ジャックは装備の入ったバッグを抱えて徒歩でホテルに向かう。


 ホテルの駐車場に停めて車に何か仕掛けられたらたまったものではない。ブラッドの所なら幾分か安全だろう、という希望的観測の混ざった判断だ。


 ジャックの足で十分もかからずにブルーリバーホテルに辿り着いた。

 ここはメイフォールズにおいて二つの意味で最も高いホテルである。迷うことなく足を踏み入れた。

築八十年という年月はロココ調の内装に良い重さをもたらしており、ロビーは荘厳な雰囲気が漂っていた。しかし宿泊しに来たわけではないので素通りしてエレベーターへ向かう。


 最上階の八階に到着、エレベーターの扉が開くと広めの通路が奥に伸びていた。スイートルーム用のフロアだけあって装飾には気合が入っているし、埃やゴミは見当たらない。


 会合場所の部屋がどこかは行けば分かる、とブラッドに言われたが、残念ながら目印のような物は見つけられなかった。

 時間もあまり残されていないので通路をゆっくりと進んでいくと、数メートル先の壁の窪んでいる所から大男がぬっと姿を現した。黒いセーターを筋肉で盛り上がらせたその迫力にジャックは無意識に身構える。

 しかし、数発の鉛玉ならやすやすと耐えそうな大男はこれといって何かをしてくるわけでもなく、ジャックを一瞥し「入れ」と低く言いながら近くのドアを開けた。


 こいつが目印兼見張りということか、とジャックは心の中で頷きながら男の横を通り抜けて部屋に入ろうとした。時間をチェック、刻限には間に合っている。

 しかしその時、大男の太い脚が目の前に立ちはだかった。


「おい、入れと言ったのはあんただろ」


 ジャックは猫背が治るくらい体を反らしながら男の顔を見上げて睨みつけた。

 男は無表情にジャックの抱えているバッグを指差す。


「それには何が入っている?」

「商売道具さ。それ以上は企業秘密だ」

「銃があるならここは通せない」


 言いたいことは理解できるが、敵陣で銃を捨てるような真似はしたくないし、大事な商売道具を見知らぬ男に預けるなどもってのほかだ。


「バッグからは出さない、これでいいだろ?」

「いやダメだ。俺が預かる」


 ジャックは舌打ちし、数歩引き下がる。


「これ以上の譲歩をするつもりはない。それが叶わないなら俺は帰る」


 そこまでのリスクを背負う価値が、この会合にあるとは思えなかった。

 大男の方もいら立ちで顔を歪め、膠着状態に陥ったその時、部屋の奥から乾いた笑い声が響いてきた。


「いいじゃないか、そのままで。銃が無ければ人と話せない子猫ちゃんなのだろう」


 その声に従って渋々退いた男の横を通り過ぎ、ジャックは部屋に入る。

 部屋の奥のソファに、グレーのストライプスーツに肥満気味な身体を包んだ老人が座っていた。例のサングラスのおかげで一目でドルフだと分かる。不敵な笑みを見せているが、ジャックには彼が大事そうに握っている杖が至って平凡で印象的に映った。


「子猫ちゃんとは心外だな。大層な護衛を付けてるあんたに言われたくない」


 ドルフの背後に一人、部屋の隅に二人、入り口の男も合わせて四人のガードマンが同伴している。肩の張り具合からジャケットの下に拳銃を携帯しているのは明白だ。


 ジャックはドルフの向かいのソファに座ったが、これだけ囲まれていては緊張を緩めることができない。それを察したらしいドルフは手で合図して護衛を部屋の外に引かせた。

 そして、彼は姿勢を正しジャックに向き直った。


「非礼は詫びさせてくれ。わしにも面子があるのでな。わしの部下共は強い言葉が好きなんだ」


 ドルフの態度の変わりように意表を突かれたジャックは、動揺を顔に出さないよう淡々と話を切り出す。


「そんなことより、今回交渉の場に出てきたということは多少の妥協の準備があるということか?」

「場合によるが交渉の余地はある。わしは見た目ほど頑固じゃないからな。君の知り合いのブラッド……とか言ったか。彼を怒らせると面倒だというのもあるが」


 冗談めかしているが表情はこわばっている。マフィアのドンが本気で一匹の猫を恐れているのだ。

 もしかすると、この交渉で優位なのは自分なのかもしれない、そう考えたジャックはブラッドの想像以上の影響力に苦笑いしながらも、期待を込めて身を乗り出した。


「なら話は早い。俺には一〇万ドルの用意がある。あんたらのことを不問に付す、っていうサービスも付けるから、これで手を引いてくれないか?」


 ジャックにとっては小さくない額だ。これ以上出すと老後に支障が出る。

 これでドルフ・ファミリーがこの件から退いてくれれば、ディアナ達の手足はもがれたも同然だ。あとはどうとでもなる。

 しかしドルフは鼻で笑って、ジャックの要求をはねつけた。


「そんなはした金では話にならんよ。こちらも商売だ」


 想定された返答だ。ジャックは声を低くし交渉の方向を転換する。


「そのはした金にあんたらの命が含まれているとしても、か?」


 老人の皺だらけの額にさらに皺が寄ったのが、サングラスの上からでも認められた。

 ブラッドのことを恐れている人間がジャックのことを侮るはずがない。そう踏んで脅し半分のセリフを吐いてみたが、効果は予想以上のようだ。

 ドルフはズレたサングラスを掛け直し、口を開く。


「……そう熱くなるんじゃない。こっちは五〇〇万ドルのビジネスだ。そう簡単には諦められんのだ。それよりもこちらの提案も聞いてくれないか? 君のものよりも遥かに有意義だと思うがね」


 民間人を脅すだけで五〇〇万ドルとはおいしすぎる仕事だ。にもかかわらず彼らから「提案」してくる意図がいまいち読めない。


「有意義……か。そうであること願う。続けてくれ」


 ジャックの返答に、ドルフが強張った肩を安堵で緩めた。


「単純に言えば、今回わしらが関わっている計画それ自体を乗っ取りたい。君の力があれば可能なはずだ」

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