第34章 誰も彼も、真実がどれほど役に立つという?

 米村が、子どもを人質に立てこもっている……

 そんな、にわかには信じがたい情報を興奮気味の中原は伝えてくる。彼女の息遣いからして、恐らくその現場へ向かおうとしているのだろう。

 しかし、そんなことはあり得ない。俺と約束した、17時にあの場所で、という話……あれは、嘘だったというのか、それとも、米村の脳がもう限界を超えてしまっているのか。


「そ、そんな! まだ約束の時間じゃ……」

「それが、話が支離滅裂らしくて……でも、米村さんの要求はただ一つ、高島 春来を読んで来い、それの一点張り。だから、君は今病院にいるんでしょ? すぐに迎えに行くから、ロビーまで来て! お願いよ!」


 そう言うだけ言って、中原は電話を一方的に切った。呆然ぼうぜんとする俺の耳には、ただ機械音が流れるのみであった。


「ど、どうしたんだい? 高島くん……すごい汗だけど……」


 尋常ではないと感じたようで、一雪も不安げにこちらを覗き見ている。こんなことを、少なくとも無関係の人間に伝える意味はない。それに、事態が事態なのだ、ここに留まってはいられない。


「す、すみません! ちょっと俺、ロビーに戻ります! 後は、すみません、お願いします!」

「わ、私も行く!」


 後のことを米村に託し、駆け出した俺。しかし、なぜか後ろから付いてくる宮尾がいた。


「宮尾!? お前はいい、ここで―――――」

「ヤダよ! 危険な状況なんだってすぐに分かったもん! ハル一人だけ行かせるなんてイヤ!」

「お前、そんな……」


 そこで、先ほどの病室でのやり取りを思い出した。友達は、お互いを思いやる……。

 もし、これが宮尾に来た電話だったら俺はどうするか。決まっている、付いていくんだ。だったら、この宮尾の行動を止める理由はない。


「……分かった、でも、状況をちゃんと確認してからな!」

「うん!」


 走らないでください、という病院スタッフの言葉を無視し、俺たちはエレベーターへと駆け込んだ。残された一雪と森谷は、走り去る俺たちの様子を眺めることしかできず、ただその場に立ち尽くすのみであった。


「と、とりあえず……入室を許可しますので、どうぞ……」

「え、あ、そうですね……」


 何が何だか、といった具合に、一雪は狼狽ろうばいしつつも、大人しく病室へと入っていく。


 その様子を、俺は閉まるエレベーターのドアの隙間から見守る。こちらへと駆け寄ってくる存在がいないことは上々だが、しかし、病院のエレベーターは速度が遅い。体感でも分かるくらいに、のろのろと降りていくのが分かった。


「くそ、もっと早く……」


 本来であれば、見舞客だけでなく動けるようになった患者も利用するエレベーターである。高速で動いてしまうと、患者に対して少々の負担になるということは、さすがに俺にも分かることだった。しかし、今この瞬間だけは、この遅さに苛立ってしまう。


「落ち着いて、ハル。まだ中原さんは来てないかもしれないし……それに、冷静になるにはちょうどいいかもしれないよ?」


 肩に手を置き、そっとなだめるように宮尾が語り掛ける。

 確かに、宮尾の言う通りだ。電話口では、中原は走っているような、そんな息遣いだったはず。そうだとすれば、少なくとも車で来ていない。すでに病院に来ているのかもしれないが、エレベーターで降りてくることは想定内だろう。だとすれば、今俺がすべきこと……それは、ただ落ち着くことだ。


「……ごめん、ありがとう、宮尾。そうだな、少し落ち着こう。そもそも、何が起きているのかもよく分かっていないんだ。だったら……」

「どんとこい、だよ、ハル」


 それはそれでどうなのかとも思うところだが、それくらいの余裕を持った方が良い、という彼女なりの表現なのだと、俺は好意的に受け取ることにした。


 一階です、と機械音声がロビーのあるフロアへの到着を知らせる。

 歩くということでもなく、しかし走らず。中原が待ち受けていそうな場所を探す。この場合、恐らく車で来るのだと考えてよいだろう。そうであれば、駐車場の方向にいるはずだ。


「あ、あれ……中原さんじゃない?」


 宮尾が指さす先に、一人の背の高い女性がいた。視力の良くない俺には見えないが、宮尾が言うのであれば恐らく、中原なのだろう。そして、予想通り彼女の声が、その指す方向から聞こえてくる。


「ああ、高島くん……と、宮尾ちゃん? 見送り……じゃないよね、どうして?」

「どうしても何も、私に電話をくれたのは中原さんでしょ、私がいて何が悪いの?」


 それは確かに、中原の落ち度ではある。しかし、だからといって事件現場に全く関係のない素人を送り込むわけにもいかない。中原は、そうだけど、と露骨に嫌な顔を浮かべる。


「あの、俺からもお願いします。現場には踏み入らせない、という約束でここまで来てもらいましたから。それに……」


 あまり言いたくはなかったが、ここでそんな押し問答をしている場合ではないのだ。恥をさらすつもりで、俺は言うしかなかった。


「宮尾がいてくれた方が、その、心強いので……」

「……ハル……」


 驚いたような目で俺を見つめる宮尾。一方の中原は、もう観念したかのように、ハァ、と一息ついて振り返った。


「じゃ、ついてきて。言っておくけど、宮尾ちゃんは絶対に現場には入らせないので、そうなった場合は君の責任、ということでよろしく」

「もちろんです」


 意外とすんなり了承した中原に続き、俺と宮尾は駐車場へと歩みを進める。外は相変わらずの暑さだが、少しだけ風が出てきたようだ。それに、少しではあるが厚めの雲も見える。雷雨の予兆と考えても良いだろう。


「それで、一体どこに立てこもっているんです? もしかして、祐天寺駅の近くですか?」

「……そう、まさに君の生家と言っていたところだよ。それにしても……」


 中原は、スマホをチラリと一瞥いちべつした。


「約束の時間って、確か17時だったはずよね……どういうことなのかしら」


 中原は、そう呟きながら特に面白みのない黒い車のドアを開ける。あちこちに傷がついているが、彼女の運転の粗さが際立っている訳ではない。何人もの警察官が利用する車両であるから、経年劣化も伴い、なかなか損傷の目立つものであった。


「どういうことって……早すぎる、ということですか?」


 後部座席を開けた俺は、宮尾を先に乗せながら中原へと確認をした。


「そう、米村先輩……いや、もう先輩ではなくなるのかな。彼は、絶対的に約束を守る人だから、自分の都合で約束を破るなんて、考えにくいの」

「約束……」


 そうだ、確か彼は……そう、村田が死んだときだ。俺は約束を守る男だ、と話していた。そして、その約束通りに岬を解放したのだ。俺たちの怒りを煽るための言葉として受け取っていたが、まさかそれが彼のポリシーだったとは。

 つまり、彼は今、そのポリシーすら守れないほどに錯乱さくらんしている、ということになる。そうなると、人質となった子どもは……


「急いだほうが良さそうですね……その人質については、何か情報があるんですか?」

「ええ……というより、街中でいきなり子どもを連れ去られた、って通報があったのよ。これまでの事件のように、10年前の関係者の子どもかと思ったんだけど……全く関係のない、ただ普通の男の子だった」


 事件の関連性さえも否定させるような被害者を選んだ……そうなると、これは明らかにあの組織による指示でもないことが分かる。つまり、これは彼の単純な暴走だ。こうなってしまえば、もうあの組織も黙って見ている訳にもいかなくなる。


「じゃあ、警察も総出で対応することになったんですよね? 例の組織からの指示ではない行為ですし……」


 俺の言葉に、中原はギリッと奥歯を噛み締める。その音が、後部座席の俺の耳にまで届いた。


「いえ……上層部は、静観しろ、とだけ。交渉しろとも、突入しろ、とも言わず、ただ待機するように命じられたわ」

「……は?」


 それは理論的におかしい。米村個人の暴走であれば、むしろ積極的にあの組織は止めに入らなければならないはずなのだ。しかし、中原の話では警察は動けない状況だという。一般市民の、しかも子どもを巻き込んでいるというのに。

 であれば、あの推測……10年前の事件を、全てゼロにする、という意思……これに当てはめると……


「そ、そうか……時間はどうあれ、俺と米村さんが対峙たいじし、二人ともが消えてしまえば、人質がどうなろうと関係ないのか……」

「……なるほどね、そういうことなの……本当に、人間のクズよ、そいつらは」


 いや、クズなんてものじゃない。人類の進化というエゴに近づくために、まるで神にでもなったかのように傍若無人ぼうじゃくぶじんに振舞うだけの、ただの災害だ。それはもはや、人ではない。


「許せませんが、今はとにかく、その子の無事を確認しないと……」

「そうね、急ぐから、ちゃんとシートベルトしておいてね。私の運転、ちょっと粗いから」


 そう言い、中原は一気にアクセルを踏む。とにかく早く、一刻も早く、あの家へと辿り着かねば。


 十数分後、祐天寺駅付近の比較的静かな区画にある、俺の生家。そこへようやく到着した。ドアを開け、その地に降り立った俺は、久しぶりの光景に少しだけ懐かしさのようなものを感じていた。しかし、俺がここを離れてからほとんど外観も何もかも、変わっていなかった。


 立地条件も良く、建売としては非常に安価で売りに出していたはずの生家だったが、未だに買い手がつかないらしく、誰も住んだことがないのだと英三から聞いたことがある。殺人があったことは伏せているそうだが、それでも買い手が付かないというのには、何か理由があったのかもしれない。


 また、本来であれば、人質を連れ込んだ立てこもり犯がいる場合、周囲に規制線が張り巡らされ、多くのパトカーや特殊部隊のトラックなどで物々しい雰囲気になるはずだ。しかし、今回は全く異なる。そもそも警察は誰一人として駆け付けていない。いや、駆け付けられないのだ。上層部からの指示、ということもあるが、それだけでなく、マスコミなどの取材班の姿もない。


 それ故に、昔の頃と同じような静けさを保ったまま、あの家は目の前に存在していた。


「本当に、立てこもっているのか実感が湧きませんね……」

「そりゃそうよ。どこにも情報は漏れていないし、警察官は全員、何もなかったことにするように言われてるんだから」

「でも、これじゃあ……」


 あまりにも静かすぎる。人質となった子どもの安否どころか、米村の安否すらも不明なのだ。何も打つ手立てが存在しない。


「米村さんからは、何か指示があったんですか?」

「いえ、ただ高島くんを連れてくるように、とだけ。ああ、一人で、というのも条件ではあったけど……いざとなったら、私も突入するからそのつもりで」


 つまりは、正面玄関から堂々と入ればいいのだろう。開けた瞬間に銃で撃たれる、何てこともあるかもしれないが……出来る限り、全力で立ち向かうこと。俺にできることは、それだけだ。


「じゃあ、行きます……」

「私も、門の前までなら、いい? 見送るだけだから……」


 宮尾の言葉に、俺は中原の顔色を窺う。また少しため息を吐いたようだが、その様子から、彼女の許可が出たと判断した俺は、宮尾の手を引き、門の前へと向かう。


 門の前に立つと、改めて当時と全く変化のないことに気付かされる。垣根の手入れは不十分だし、庭には雑草も生い茂っている。そして――――


「あ、あの玄関の色……まさか……」


 玄関の床……あの事件の日までは、コンクリートのような灰色だった。しかし、あの事件の当日……床が赤黒い液体で染め上げられていたのだ。後で聞いた話であったが、あれは両親の血液で塗りたくられていたらしい。今でも、その話を聞くとおぞましく思う。


 そんな玄関の床は、赤黒く光っている。あの時と同じように、塗ったばかりのような光沢を出しているのだ。もちろん、建売にする際に全て洗い落としたはずだった。それが今、こうして色づいているということは……。


「人質の子どもは、もしかしたら、もう……」


 いや、やめておこう。趣向を凝らしただけなのかもしれないし、彼と対峙たいじする前から心が折れてしまってはどうしようもない。

 黙って深呼吸を、二回、三回と繰り返す。晩夏の暑い空気が鼻腔を伝わり、体中を温めてくれるような感覚がした。


「……よし、そろそろ行くよ。宮尾、ここでお別れだ」

「……ハル、絶対に、生きて帰ってね」


 心なしか、宮尾の目に光るものが滲んでいるように思えた。

 泣きたいのはこちらだが、いや、まだ泣くのは早い。彼と向き合い、そして生きて帰ってくること。それが果たされたときに、存分に泣いてやろうじゃないか。


「そうだ、宮尾」

「え?」


 門を開け、庭へと入ろうとした俺は、ふと思い出したことがあった。それは、ほんの数時間前、病院で約束したこと。振り返り、笑顔で宮尾にこう伝えた。


「帰ってきたら、絶対にあの店に行こうな。岬と、三人で。約束だからな、それまで、行くなよ?」

「……うん、約束。絶対に、行こうね」


 宮尾の笑顔を背に受け、俺は血腥ちなまぐさい玄関へと向かっていった。




 一人、門の前に佇む宮尾に向かって、ざあっと、一陣の風が吹き抜ける。先ほどとは異なり、冷たい空気を帯びた風。辺りの木々を揺らし、宮尾の髪もなびかせる。

 空には、大きな黒雲が、少しずつその大きさを増して、こちらへと向かってくる。それは、これから訪れるものを予感させていた。


 拳を、ギュッと固く握りしめた宮尾は、ポツリと小さく呟いた。吹く風によってほとんどかき消され、彼の耳には届かなかった言葉。













 一方、病院に残された一雪と森谷は、病室へと入ってく。


「当り前ですけど、さっきの話も彼女には聞かせないようにお願いしますね」

「ええ、それはもちろんです」


 さっきの話とは、中原からの電話のことだ。彼らが見舞いに来ない理由を、岬自身が尋ねることはないと思うのだが、念のため確認が必要だったのだ。胡桃にも、あとでそれとなく伝えておかなければならないが、とにかく今は彼女の様子を見る以外にない。


「千弦? 起きてるか?」


 恐る恐る、といった調子でベッドへと歩み寄る一雪。到底、彼と彼女が本当の親子だとは思えないような態度だが、昨日のことがあったばかりということもあり、お互いに気まずいということも要因としてはある。


「あ、岬ちゃんの……今は寝ています、でも、顔色は良いみたいですね」


 ベッドの横にある椅子に腰かけていた胡桃は、スッと立ち上がり、椅子に座るように勧める。しかし、一雪は手のひらを向け、それを拒否した。


「まだ、必要な手続きとかがあるのでね。ちょっと着替えとか、そういうのだけ先にしまっておこうと思ったんですよ。でも、女物の着替えとかどうしたらいいのか分からなくて……家にあるものを一通り持ってきたので、申し訳ないけどやってくれるかな?」


 見ると、彼の両手には大きな紙袋が二つほどある。病衣などは借りられるはずだが、そういった勝手も分からず、とにかく色々なものを詰め込んできたらしい。

 そんな彼の様子に、胡桃は少し微笑ほほえみながら、頷いた。


「ありがとう、じゃあちょっと、書類の確認をしてくるので、それまでよろしくね」

「ええ。任せてください」


 そう言うと、一雪はペコリと頭を下げ、病室を一旦後にした。


「ああ、着替えの片付けをするなら、俺も出た方がいいね。その前に、ちょっとだけ様子を診させてもらっていいかな?」


 森谷は、様々な管や配線、そして岬の顔色、脚、手の様子など細かく観察を始める。その目つきは、まさに医者のそれであった。

 その様子に、思わず胡桃は感心して口を開いた。


「森谷さん、お医者さんみたいですね……」

「いや、医者なんですけどね……うん?」


 苦笑いしたと思った矢先、森谷は脳波の様子をじっくりと見つめる。そして、岬の顔を見た。何か異常を発見したかの様子に、胡桃は不安そうな目で彼の一挙一動を凝視する。


「おかしいな、この感じだったら起きているはずなんだが……」

「あ……」


 森谷の言葉に反応した岬が、小さく声を上げた。

 急に声を出されたことにより、驚いた森谷は軽く飛び上がった。そして、そのまま病室の壁に後頭部をぶつける。


「あいててて……びっくりさせないでよ、もう……」

「あ、すみません……まさか森谷さんも来るとは、思ってなくて……」


 目を開け、ぎこちなく笑顔を見せる岬。それに胡桃はまた驚き、やや悲鳴のような声を出してしまう。


「お、起きてたの!? 言ってよぉ……」


 椅子に座っているとはいえ、崩れ落ちるようにベッドへしな垂れかかる。


「おー、痛ぇ……ちょっと頭の様子見てくる……」

「え、そんなにですか? 大丈夫です?」


 本当に痛そうにする森谷に、胡桃は心配そうな目を向ける。大丈夫、と一言だけ残し、足早に病室を去っていった。廊下に出たはずの森谷の、痛ぇ、という声が、病室にも聞こえてくる。


「あれ、多分大丈夫じゃないよね……」

「そう、だと思う……な」


 まだ言葉も途切れ途切れで、笑顔も仮面様ではある。しかし、ある程度のコミュニケーションは図れるほどに回復した彼女の様子に、胡桃はホッと胸をでおろす。

 しかし、岬はまた天井へと向き直ると、静かに涙を零し始めた。


「ずっと、起きてた、からね……聞いてた、よ……みんなの、話……」

「嘘、ずっとって……もしかして、春来くんがいたときから……?」


 すると、岬は小さく頷いた。


「そう、聞いちゃった……ウチ……ハルのこと……ずっと、好き、だった……」

「あ……」


 胡桃が何となしに尋ねてしまった、彼の、岬に対する想い。寝ているものだとばかり思っていた彼女の前で、それをはっきりと聞いてしまったのだ。そしてあろうことか、彼も素直に答えてしまった。

 恋愛感情はなく、家族の一員のような関係……そんな事実を、こんな精神状態の彼女に聞かれてしまうとは。


「ご、ごめん……そんなつもりじゃ……」

「ううん、いい、の。ウチは、ハルの……大事な友達、だから……」


 ポロポロ、と涙が溢れ、真っ白い枕に小さな染みを作っていく。


「ごめん、ごめん……私が悪いの! あんなこと、こんな時に聞くことも無かったのに……私、やっぱり空気が読めなくて嫌な子だから……」

「違う!」


 今の岬からは考えられないような、大きな否定の声。思わず胡桃はビクッと体を震わせ、自己否定を止めた。


「違う……分かってたから。ハルは、多分……トーカの方が、好き。トーカも、ハルが……だから、応援しようって、ずっと……」

「岬ちゃん……」


 岬は、自分の気持ちを封印してまで、あの二人を応援していた。それは、毎日が地獄のようだっただろう。好きとも言えず、友達の応援をして、それで……

 自然と、胡桃の目からは涙が零れだしていた。その姿に、少し驚いたように目を大きくする岬。


「なんで、胡桃ちゃんが、泣くの……」

「だって、だって! そんなの辛いよ! どうしてそんなの耐えられるの!? 私……全然知らなかった。そんなに苦しんでいたなんて……そんなの……」


 そして、胡桃は岬を抱きしめる。


「辛かったよね、ごめん……気づけなくて……」

「……ううん、楽しかった、よ……辛かったけど、それでも……一緒に、居られたから」


 しばらくの間、そのまま二人は静かに泣いた。精神的に不安定な岬だったが、一緒に泣いてくれる友達がいたこと。これによって、発作のような症状が出なかったのかもしれない。





 二人が泣き止むころ、病室のドアがノックされる音が鳴り響いた。

 泣いていたことがバレないように、急いで顔を拭い、胡桃はドアへと向かう。


「はい、どうぞ」

「あ、ああ。どうかな、荷物は片付いたかな?」


 入室してきたのは、一雪だった。やや疲れた顔の彼は、張り付いたような笑顔で胡桃に尋ねる。恐らく、慣れない書類への対応に苦慮していたのだろう。


「あ、はい、ある程度までは。あとはタオルとか、そういうものだけです」

「そうか、ありがとう。娘の様子はどうかな」

「はい、ちょうど起きていますし、お話しできそうです」

「それは良かった」


 そう言うと、彼は岬のベッドまで歩いていく。岬の双眸そうぼうが、彼の顔を捉えると、また小さく微笑ほほえんだ。


「あ、お父さん……今日も、仕事、休み?」

「そうだよ、少しは親らしいこともしないとな」

「ふふ、何それ」


 多少、二人の関係性について危惧していた胡桃だったが、和やかな会話を聞き、少しほっとする。何しろ、先ほどまでさめざめと泣いていた彼女なのだ。万が一の場合を想定していたが、この様子であれば、杞憂きゆうとなりそうだ。

 すると、物音も立てず、そーっと病室のドアが開く。僅かな隙間から、森谷がチラリと顔を覗かせていた。


「花南ちゃん、ちょっと」


 小声で、胡桃を呼びつける森谷。明らかに不審者のとる行動だったが、彼の奇行にはもう慣れたかのように、胡桃は努めて冷静に要件を聞く。


「なんですか、用なら中ででも……」

「いや、事件のことだから、ちょっと席を外してほしいんだ」


 事件のこと、それは、彼……高島が死ぬのか、生きるのかによって異なってくる。生きていればもちろん問題はないが、もし、彼が死ぬようなことがあった場合、どう対応するかについては、綿密な話し合いが必要なのだ。


「……分かりました」


 チラリ、と奥にいる二人の方へ目を向ける。何か会話をしているようで、こちらの様子には興味を示していないようだ。

 それを確認した胡桃は、また音をたてないように、静かに病室から退席した。


 残された二人は、そんなことに気付かないまま、会話を続けている。


「病院の手続きって、本当に面倒でね。お父さん、もうこの眼鏡じゃあ字が小さくて……」

「もう、老眼、ってほどじゃ、ないでしょ」


 他愛のない、普通の家族の会話。つい先日までは、こんな光景はあり得なかったのだが、少しずつ少しずつ、やり直せて行ける気配を感じられるまでになっていた。

 それは、当の二人においても同じようだ。話しながらも、少し頬を紅潮させているのが見て取れる。


「しかし、やっぱり女性は強いよ。男はダメだなぁ……」


 笑いながら、そんなことを口にする一雪。


「どう、して?」

「だってさ……俺はもう仕事に没頭してないと頭がおかしくなりそうだったのに、千弦はちゃんと受け入れて。すごいと思うよ。母さんも、鈴石さんの事件があって少し落ち込んでいたけど、元気を取り戻せていたし。藤花ちゃんも、久しぶりに会ったけど相変わらず元気だったしね」


 ああ、そういうことか、と岬は理解した。

 精神的な強さ、と言いたいのだろう。それは確かにそうだ。事情があるにせよ、未だに高島は失神することもあるくらいなのだ。それに、この父親も、バレているとは知らずに無理して、悪い父親を演じていたのだ。弱いというよりは、受け入れられないのだろう。

 しかし一雪の発言の中に、岬には気になる言葉があった。


「どう、して……トーカのこと、強いって……」

「え?」


 岬の言葉に、目を丸くする一雪。


「だってほら、いつもうちに来て遊んでいたでしょ? 出産して母さんは仕事を辞めたけど、それからもさ。そういえば、宮尾くんはどうしてるのかな。あの事件以来、会ってないんだよね……」

「鈴石さんが、トーカを……?」


 その情報は、明らかにおかしい。米村や村田の話では、鈴石は天涯孤独の研究者だったはずだ。岬の母親とも、共同研究をした程度の仲だったはずなのだ。しかし一雪は、鈴石は宮尾 藤花を連れて来た、と言った。それに、宮尾くん……恐らく彼女の父親についても知っている。


「ああ、そうか……千弦はまだ小さかったもんな。藤花ちゃんは鈴石さんの子どもじゃないんだけど、宮尾くんと鈴石さん、とても仲が良かったんだよ? 子どもが出来たとかで、確か結婚するような話になっていたと思うんだけど……」

「ま、待って、待って……それじゃ……」


 つまり、宮尾 藤花は鈴石と繋がりがあった。しかも、幼少期を共に過ごすほどの親密な関係だったのだ。それが事実だとすれば、この事件は……


「つ、伝え……ううっ!?」


 岬の脳に、突如として激痛が走る。意識は朦朧もうろうとし、胃酸が逆流してくる。

 苦しい、痛い、苦しい、痛い!!


「ち、千弦!? おい、どうした! しっかりしろ、おい!!」

「どうしましたか!?」


 慌てて入室する森谷。その姿は、岬にはもうぼやけて見えなくなっていた。


(伝えなきゃ、ハルに……トーカが、そんな……)


 薄れゆく意識の中、岬の目からまた一滴の雫が、枕にポタリと落ちていった。

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