第32章 終わらせないための終わり

 9月7日、土曜日。8時半も過ぎれば、普段ならば通勤・通学で利用する客足も減ってくる時間帯だ。しかし、土日ともなれば話は変わってくる。都心へと遊びに出かける学生、いつもよりも遅い出勤の許される会社員など、様々な理由により俺の乗っている電車はそれなりに混雑していた。


 祖師ヶ谷大蔵駅から代々木駅までは、電車でおよそ30分。始発駅でもないため、座席に座ることのできなかった俺は、ただ窓の外を眺めていた。本当であれば毎朝、この景色を見ながら通学していたはずだった。しかし俺は、米村と決着を付けるためにこの景色を見ている。


 米村の目的が、森谷の推測通りのもの……つまり、10年前の『エンドラーゼ』の事件、あれに関わる人物の一掃であった場合、俺は間違いなく死ぬことになる。そして、俺を殺した米村をも消す算段を、あの組織は立てているだろう。

 そうなれば、まさにゼロに帰すことになる。誰もあの事件のことを知ることが出来なくなり、組織は例の毒物の改良に集中することが出来るのだ。

 しかし、ここで俺にはある疑問が浮かび上がった。


 なぜ、米村は『決着』などという言葉を使ったのだろう。


 ただ俺を殺すだけなら、こんなまどろっこしいことをする意味なんてない。それこそ、鈴石……いや、実際は井上だったのだが、彼女がやったように急襲でもすれば、俺は呆気あっけなく死んでいたはずなのだ。宮尾にすら力負けする俺なのだ、現役の警察官である米村なら、赤子の手をひねるくらいに造作のないことだろうに。


 それが出来ない状況にある、もしくは、殺し方に何か制限があるのだろうか。殺し方に制限をかける、だなんて……殺人を、あたかもゲームやショウのようなものと混同しているかのようなことは、まともな人間ではあり得ない。しかし、あの組織、そして米村はまともではない。であれば、この推測も検討せざるを得ないのだ。


「次はぁー、新宿しんじゅくぅー、新宿ぅー……お出口はぁー、右側でぇす……」


 思案を続ける俺の耳に、独特な声色のアナウンスが届く。この声も、乗客により情報が伝わりやすくなるように工夫されているそうだが、今の俺には不快でしかなかった。何せ、俺はこれから死ぬ可能性が非常に高いのだ。それを必死に回避しようとする俺の思考を邪魔する、それは非常に不愉快であった。


「そんなことも言ってられない、か……」


 誰にも聞かれないように小さく呟いた俺は、新宿駅で乗り換え、代々木駅へと向かう。新宿駅から代々木駅までは、ほんの数分だ。そんな距離に駅を作ったのは、横着というべきか迷うところではある。


「あ、あれ……」


 代々木駅に降り立った俺の目に、ある人影が映り込んだ。背の高い、スーツ姿の女性……あれは、間違いなく中原だ。彼女は改札を出て、俺の行く先と同じ方向へと歩みを進めている。


(もしかして、中原さんも岬のお見舞いかな……)


 時刻は、9時を少し過ぎた頃……そろそろ、面会可能時間ともなるはずだ。恐らく、彼女もその時刻に合わせてここへ来たのだろう。車ではないところを見る限り、あくまでも私人としての見舞いなのだと思われた。

 その様子に、少しだけ嬉しくなった俺は、足早に彼女の足跡を追う。


「あの、中原、さん!?」

「え……」


 思ったよりも中原の歩行が速く、足早どころか駆け足で追いかけてしまい、俺は息も絶え絶えな様子で彼女に声を掛ける羽目になってしまった。驚いたような表情の中原だが、恐らく俺の疲労を見て驚いた、という訳ではなさそうで、少しだけ安心した。


「あ、高島くん……もしかして、岬ちゃんの?」

「え、ええ……それにしても、歩くの速いですね……やっぱり、警察官は違いますね……」


 少し息を整えるかのように、俺は軽く深呼吸をする。その様子に、中原は苦笑いを浮かべている。


「あはは……運動不足は、若いうちに解消しておいた方が良いよ? 将来、どんな病気が……あっ」


 突然、言葉に詰まる中原。何か気まずそうに、俺の顔色を窺っている。

 そうか、彼女は……恐らく、胡桃から聞いたのだろう。米村からの電話のこと、そして、俺の置かれた立場のことを。


「ご、ごめん……でもさ、まだ……」


 そう言いかけて、中原はまた無言になった。

 まだ……そう、まだ俺は死んでいないし、死ぬことが決まった訳ではない。ただ、米村と決着を付ける……それだけなのだ。ただし、それは限りなく俺の死を意味しているのだが。


「良いんです。俺はもう、覚悟の上でここに来ました。岬……いや、結果的にみんなが人質になっているんですから。迷うことなんて、ないじゃないですか」


 嘘だ。死にたくなんてない。出来ることなら、ここから逃げ出したかった。逃げてしまえば、もしかしたら米村も考え直すかもしれない。誰も傷つかないのかもしれない。

 でも、それも推測でしかない。本当に米村の言った通り、岬が犯人だと公表されれば、色々な人の人生が大きく変わってしまう。不条理に、不合理に。


 それは、俺がやってはいけないことだ。数奇な運命によって翻弄されるのは、俺だけで充分だ。そんな経験をした俺が、第二、第三の俺を生んではいけない。あってはならないのだ。


「それに、もしかしたら米村さんに勝てるかもしれませんしね?」

「……そう。そう決めたのなら、もう私が言うことはないわね……」


 俺の強い意志を汲み取った中原は、少し悲し気に、しかし納得したように小さく頷いた。そして、ふと腕時計を見た彼女は、慌てたように言った。


「ああ、そうだ病院……早く行かないと、私もまだ村田先輩の件があるからね、悠長ゆうちょうにはしていられないの」


 俺も、その言葉にスマホの画面を見る。9時30分……そう長いこと立ち話をしていた訳ではないが、俺も17時には、あの家に行かなければならない。そう考えると、この一分一秒は、何物にも代えがたい。


「そうですね、急いで向かいましょう。すみません、変な話をして」

「ううん……むしろ、その答えが聞けただけ私は良かったと思う。胡桃ちゃんも、とっても気にしてたから」


 やはり、中原は胡桃から話を聞いていたらしい。胡桃にはまだ答えを聞かせていないから、今頃やきもきとしていることだろう。もしかしたら、彼女には俺の答えなんて見通されているかもしれないが。


「病院で会ったら、話してあげて。胡桃ちゃん、あれでも最年長なんだから、少しは頼ってあげた方がいいよ?」

「はは……確かにそうですね。善処します」


 そしてまた、俺と中原は歩き始めた。東京総合国際病院、岬のいる病院へと。









「うぅー、まだかなぁ……」


 東京総合国際病院のロビーで、宮尾はスマホを片手にそわそわと待ちわびている。誰を待っているのか、ということは言うまでもない。しかし、彼女は俺の明確な答えを聞いたわけではなかったし、聞いていたとしてもここに来るのかどうかは、正直な話、博打ばくちであった。

 それでも、俺がここに来ると彼女は信じて、ここに来たようだ。


「……あれじゃ、不審者扱いされちゃうよね……」


 宮尾の挙動は、何も知らない人からすれば、かなり怪しいものだった。彼女の素性を知っている俺と中原ですら、思わず苦笑いしてしまうほどに、落ち着きのない様子だ。


「ええ、通報される前に話しかけておきましょう」


 そうして、俺と中原は彼女の元へと歩み寄っていく。

 思えば、渡辺の事件があったあの日も、宮尾はこうして挙動不審な様子で俺たちを待っていた。あの時と比べると、俺たちの状況はまるで変わっている。事件を追う立場であった俺たちが、事件に追われるようになったのだ。

 そして、その事件は、恐らく今日……終わりを迎える。


「……あ、ハル! 中原さんも!」


 俺たちの姿を見つけると、宮尾はパッと明るい表情へと変化させ、こちらへと駆け寄ってくる。


「こら、病院内で走るな。それにあんまり大声出すなよ」


 来年度には就職をするはずの年齢の人間が取る行動ではない。そこは冷静に、しっかりと指摘しておかなければならない。それこそ、俺は今日でいなくなるかもしれないのだから。


「うぅ、だって遅いんだもん、ハル」

「そもそも、俺はここに来るなんて一言も言ってないぞ。待ち合わせだってしてないんだし」

「え~? でも来たじゃん」

「うるさいな」


 しゃくなことだが、宮尾にすら行動が読まれているんだ。それは、誰にでも俺の行動は筒抜けであると公言しているようなものだった。


「はいはい、もう時間が惜しいからさっさと行く。それで、宮尾ちゃんは面会の受付は済んだの?」

「……え? 受付って必要なんですか?」


 何だそれは。ここで散々待っておきながら、そんなことすらしてなかったのか。


「……ほら、そこに書いてあるだろ。あそこで面会票を貰うんだ」

「あぁ、そっか……ごめんごめん」


 そう言うと、宮尾はまた駆け足で受付へと向かう。走るな、と声を掛けようと思ったが、その時にはすでに、宮尾は病院のスタッフにより注意を受けていた。


「あはは……昔からあんな感じなの? 宮尾ちゃんって」

「そうですね……でも、何というか……しっかりと空気は読んでいるように感じます。なので、あれが天然なのか、そうではないのか、未だによく分からないんですよ」


 宮尾の自由な行動には、ほとほと苦労させられた。でも、ちょうど今のように、強い緊張感や不安というものを吹き飛ばしてくれることもある。計算しているようには思えないので、彼女はそういう、空気を読む能力にけているらしい。


「でも、宮尾ちゃんって可愛いよね。彼氏とか出来たことないのかな?」

「さぁ……分けへだてなく、誰とでも話しているところは見ますけど……親密な関係、っていう雰囲気の人は見たことないですね」

「ふぅん?」


 なぜか、ニヤニヤと俺を見つめる中原。


「な、なんですか?」

「私にはそう見えないんだけどなー、って思って」

「……やめてくださいよ、そういうんじゃないですから」


 そういう関係ではないし、そうなったこともない。俺は少なくとも、そういう風に宮尾を見たことはなかったし、もちろん、岬に対してもそうだ。でも、確かに宮尾は……どうなのだろう。俺を、特別だと感じているのだろうか。


 そんな話をしているうちに、宮尾は受付を済ませたらしい。今度は駆け足ではなく、早歩きでこちらへと帰ってきているようだ。


「ごめんね、お待たせ。……なに? 何か付いてる?」

「あ、いや何も……それより、早く六階へ行こう。岬がもう目を覚ましているかもしれないし」


 先ほどの話に気を取られ、思わず宮尾の顔をじっと見てしまった俺は、慌てて病院の奥へと進む。顔は見えないが、恐らく中原はまたニヤニヤとしているのだろう。そう思うと、なんだか顔が熱くなる。そんな俺の顔を見られたくなかった。


「あ、待ってハル!」


 そんな俺を追いかけるように、宮尾と中原が続く。









 東京総合国際病院、六階。エレベーターを降りた俺たちの目は、廊下に佇む一人の女性を捉えた。小柄で、また一風変わった取り合わせの服を着た女性……。


「あ、胡桃ちゃん。やっぱり来てたんだね」

「え? ああ、みんな……春来くんも……」


 胡桃が、岬の病室の前でポツンと立っていたのだ。わざわざ面会に来たというのに、なぜ彼女は部屋に入らず、前に立っているだけなのだろう。もしかして、岬の状態があまりよくないのだろうか。


「えっと……何かあったの?」


 具体的な言葉を口にするのを恐れた俺は、返答にきゅうするであろう質問を投げかけてしまった。何かあったから、部屋に入っていないのは明白なのだ。


「え、ああ、うん。まだ、今日は目を覚まさないんだって。……あ、いや、状態は良いらしいんだけどね、薬が効いていて。でも、その薬のせいで眠ったままなんだって」

「あ、そう、なのか……」


 思ったような事態になっておらず、俺たちは少し安堵する。ただ、そうなってしまうと岬と直接会話することなく、俺は米村と対峙たいじすることになる。それは、少し心残りではあった。


「でも、部屋には入れるんでしょう? だったら……」

「あ、今はその、体を拭いて貰っているんです。看護師さんの邪魔になってもいけないから、ちょうど席を外したところに、みんなが来たの」


 岬はまだ当面の間、歩行など出来る状態ではないと、森谷は言っていた。食事もまだ点滴のみで、排泄も自分では行えないらしい。

 改めて、米村の行為に対する怒りが湧き出てくる。つい先日まで、まったくの健康体であった岬を、彼は一瞬にしてこんな状態にまで追い込んだのだ。年頃の女性が、自分で入浴も、食事も、排泄もできない……それは想像以上に耐え難いことだと思う。


「そっか……じゃあ、どこかで少し話せない? 多分、胡桃ちゃんも気にしていることだと思うし、それに……」


 そう言うと、中原はチラリ、と俺の顔を見る。


「そうですね……それは、俺の口から直接話さないといけないことですから……聞いてくれるかな、俺の意思を」


 俺の言葉に、胡桃と宮尾は黙って頷く。俺の意思、そう伝えた時点で、彼女たちには俺の答えが分かったはずだ。それでも言わないのは、俺の口から出た答えを聞きたい……その意思が、彼女たちにはあるのだと思う。


「……ありがとう。じゃあ、少し移動しようか」


 そして俺たちは岬の病室から離れ、エレベーターへと戻っていった。









 東京総合国際病院は、入院ベッド数が約四百床ある。この規模の病院であれば、敷地内にチェーン店のカフェや食堂などが存在していることが多い。ここも例外ではなく、俺たちが渋谷で立ち寄った、あのチェーン店もあった。


「あ、ここって……」


 胡桃は、それに気づいたようで少しだけ笑顔になり、そしてすぐに悲しい表情へと変化させた。岬の思い付きで行なった、あの親睦会という名のショッピング……あれを思い出しているのだろう。楽しい思い出であったが、それ故に、その会の発起人が今、この病院に入院している……その事実は、どうしても楽しい思い出を暗くさせてしまう。


「さてと、もう10時過ぎか……私、あと30分くらいしか居られないから、そのつもりでね。あと、お金はそれぞれで払うこと」

「え~、ケチ~」


 宮尾が口を尖らせる。社会人ではあるが、中原は年下でもある。むしろ、そんな彼女におごられても嬉しくないと思うのだが、彼女はそう思わないらしい。


「それはそうと……じゃあさっそく、高島くん」

「あ、はい」


 俺も中原も、多くの時間をこんなところに割くわけにもいかない。早々に、俺は、俺の意思を彼女たちに示さないといけない。


「多分、みんな分かってると思うんだけど……俺は、米村さんの言う、決着を付けに行く。……決着、というのが何なのかはまだはっきりしないんだけど、それでも、俺は行く」


 やはり、宮尾と胡桃は俺の返答を予測していたようだ。驚く素振そぶりは微塵みじんもない。むしろ、そうだろうと言わんばかりに、胡桃は頷いてすらいる。


「でもさ、でも……ハルが米村さんの、その、決着? それを付けに行ったところで、本当に米村さんは約束を守るのかな……本当に、ちーちゃんは大丈夫なの?」

「それは……分からない。決着というのが、俺の……いや、ほとんど森谷さんの推測なんだけど、その通りだとすれば、岬は無事だと思う」


 俺の言葉に、胡桃はキョトンとした顔で聞き返す。


「森谷さんの推測? どういうこと?」

「あ、そうか……胡桃には言ってなかったっけ。いや、知っているのは俺と宮尾、そして森谷さんだけか……説明するよ、彼の推測を」


 そして、俺は森谷の言葉から導き出した、俺なりの推測を話し始めた。

 それが真実である、という確証はない。しかし、それが正しいければ非常にシンプルに、そして綺麗に終わるのだ。そういう形を、あの組織のメンバーような頭脳派の連中は好むはずなのだ。


 一通り推測を話し終えたところで、胡桃が信じられない、というような表情で口を開いた。


「確かに、10年前のあの事件を消すことができれば、研究もやりやすくなるとは思う……でも、そんなゲームみたいに、人の命を……」


 やはり、胡桃にもそう感じられたようだ。人の命を使ったゲームのよう……それは、俺も考えていて思ったことだ。しかし、どれだけ信じ難くとも、あらゆる可能性を消した上で残ったものが真実なのだ。


「でも、でもさ? あの時の米村さんの様子……とってもおかしかったよね? あれって、もしかしてなんだけど……あの毒物を使われてるんじゃないかな、って思うの」

「え……?」


 宮尾の言葉に、俺は少し閉口する。

 米村の変貌、あれは今までの、真面目な警察官としての仮面を取り払っただけではない……そうすると確かに宮尾の言う通り、あの毒物によってマインドコントロールを受け続けた結果、米村は脳や精神の限界を迎えつつあるのかもしれない。

 であれば、俺がわざわざ彼の元へ向かわなくとも、彼はいずれ死に絶えることとなるだろう。そうなれば、誰も危険な目に遭わずに事件そのものが終わることだって考えられる。


「そうだ、中原さん……一つだけ確認させてください。米村さんに、何かおかしなところは無かったかどうか。それに、記憶の混乱のような症状は出ていなかったかどうか」

「……ちょっと待ってね、思い出してみる」


 すでに時刻は30分を経過しようとしているところだったが、中原はまだこの場に留まり、俺たちの議論に参加し続けてくれている。それだけ、この事件……いや、先輩である米村のことが気がかりなのだろう。


「ううん、仕事以外で会うことは無かったけど……基本的には、みんなが会った時に受けた印象通りの人だった。真面目で、表情も無くて」

「そう、ですか……では、本気であの組織の小間遣いとして働いている可能性の方が高い、と判断していいんでしょうね。あの毒物の作用を考えると、長期的な使用は難しそうですし」


 そもそも、長期的にマインドコントロールを受けていたのであれば、確か彼は警察官になって10年は過ぎているという話だったはずだ。10年前は、『エンドラーゼ』がようやく第三相臨床試験を始めた頃なのだ。そんなときから、その『エンドラーゼ』の副産物である毒物を摂取していたとは考えにくい。


「だとすれば、俺の両親の事件に関わったという米村さんの話には矛盾が生じます。真面目な警察官が、どうしてあんな事件に加担しようとしたのか。いくらそういう信仰のもととはいえ、さすがに米村さんがそういう短絡的な思考をするとは思えない」

「そうだよね。奥村さんが実行犯だったということはともかく、米村さんが事件の偽の証拠品を用意するだなんて、ちょっと考えにくいよ」


 俺の話に賛同するように、補足する胡桃。


「だとすれば……昨日、君たちが受けた電話での話は、ほとんどが嘘だということになるんじゃない? もしくは、記憶がもう……」


 そう言うと、中原は暗く俯く。

 彼女が俯いた理由……それは、少なくとも尊敬している先輩の死期が、もう寸前まで迫っているということを意味するからだ。生命としての死期というよりは、人間としての死期が迫っている。そう考えて良い状況なのだ。


「中原さんはあの場にいなかったので分からないとは思いますが、俺たちは……その、米村さんはすでに人格も破綻しているようでした。本当に、二重人格といいますか……あれはやっぱり異常でした」

「……」


 追い打ちをかけるようになってしまったが、これもまた事実だ。恐らくは、彼にとっても今日の17時……それくらいがタイムリミットなのだろう。俺の両親の事件と同じ時間帯を指定したのかと思われたが、もしかしたらそういう意味も含んでいたのかもしれない。


「だとしたら」


 重苦しい空気の中、ふいに口を開いた宮尾。


「米村さんを操っている相手……その正体を掴めれば、ハルは米村さんの待つ場所まで行かなくても……」

「それは……そうなんだけど。それが出来ているなら、中原さんや胡桃がとっくに突き止めているはずだよ。姿の見えない、絶対的な暴力を振りかざす存在が米村さんのバックにいるんだ。だから……」

「でも……ハル……」


 さっきから少し、宮尾の様子がおかしい。前向きで底抜けに明るい彼女が、俺の決断を悲痛な面持ちで必死に止めようとしている。親友である俺が死に向かうことを許せないという気持ちは分かるが、こうして理由を告げていても納得する気配がない。


「絶対に死ぬわけじゃないんだ。決着、という漠然としたものだから不安ではあるけれど……殺せるならもっと早くに俺を殺していただろうし、そもそも俺の両親の事件の時、気まぐれでも助けてくれたのは米村さんなんだ。それなら、抗う機会だって与えてくれるかもしれない」

「それは、ただの理想論でしょ……? ハルは、残される人たちの気持ちも考えたの……?」


 残される人たちの気持ち、か。それを確認する意味でも、こうして俺の意思を伝えているのだが……どうしても宮尾は納得が出来ないようだ。


「だからといって、放置することはできないだろ? 岬が犯人に仕立て上げられたら、岬だけじゃなくお前も、俺も……ここにいるみんなが被害を受けることになる。俺は、そんなことを絶対に許さない。認めない」


 少し強い口調となってしまったが、それだけ俺の決意は固いものだと宮尾に理解してもらうには、こうするしかない。


「ハル自身が、死んじゃっても……?」

「ああ、俺が死んでも……いや、俺が死ぬことで、昔の俺みたいな人間を生まずに済むなら、それが一番だ。それに何度も言うけどさ」


 俺はおもむろに席を立ち、宮尾の頭へ、ポン、と手を置いた。


「俺は死なないよ。戦って、みんなを……宮尾を守るから。信じてくれないか?」

「……ハル……」


 ようやく、宮尾は許してくれたようだ。小刻みではあるが、うんうん、と頷いてくれている。


「ふぅ、何て言うか……」

「見ているこっちが恥ずかしくなりますね……」


 わざと俺たちに聞こえるように、中原と胡桃は苦笑いを浮かべながらこちらへ呟く。あえて、その声は聞かなかったことにして、俯いたままの宮尾をなだめ続けた。


「さてと……ああ! もう11時過ぎてる!!」


 時計をチラリと確認した中原から、絶望的な声が発せられた。予定していた滞在時刻を、すでに30分以上も超過していたのだ。


「ヤバい、みんな絶対怒ってるよ……ごめん、私はこれで! お見舞いはまたいずれ来るから、そう伝えといてね!」


 それだけ言い残すと、中原は駆け足でその場を立ち去っていく。一応、ここも病院の敷地内であるから本来は駆け足ではマズいのだが……

 ああ、案の定スタッフから注意を受けている。


「……最後まで、色々と楽しい人だったね……」

「最後、じゃないでしょ。生きて帰ってくるんだから、また会うことになるんだから」


 チクリ、と胡桃に刺される。


「そうだった、ごめん。……胡桃も、信じて待っていてくれるのか?」

「当り前だよ。だって、友達なんでしょ? だったら、その背中を押してあげるのが私たちの役目。そこから先は、もう信じるしかないんだから。春来くん、信じている人がいるってことを絶対に忘れちゃダメだからね」

「……ああ、もちろん」


 忘れるものか。もし万が一、死にそうな局面になったとしても……俺は絶対に諦めない。こうして待っていてくれる家族や仲間たちがいるんだ。


 決意を新たに、俺はまた前へと向き直る。そして、残ったコーヒーを一息にあおると、気を引き締めるように息をいた。

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