第30章 鋭く突き刺さるような狂気の昇華
米村からの着信――――それはまさに、晴天の
村田は死に、岬は命からがら解放された……事件は、そこで終わりを告げたはず。そう解釈していた俺にとって、彼からの電話というのはつまり、事件はまだ終わっていない、そのことを予期させるものであった。
「ど、どうしよう……出た方がいい、かな……」
この状況に、宮尾も焦りの色を隠せていない。彼女にとっても、この電話は予想外のものだったのだ。
「……出てくれ。全員に聞こえるように、頼む」
「……う、うん。分かった」
そう言って宮尾は、静かにスマホを卓上に置いた。彼女のスマホの画面には、通話中の文字が浮かんでいる。
心臓が早鐘を打つ。しかし、そんなことに屈してはいけない。冷静に、適切な判断を取らなければ、彼の術中に
「も、もしもし……」
恐る恐る、宮尾はスマホへと話しかける。まるで爆発物の処理をしているかのように、静かに、慎重に。
「もしもし!? 宮尾さんか!? 俺だ、米村だ。そこに高島くんはいるか!?」
切羽詰まったような声を上げる男。やはり、その声からして米村からの着信で間違いはない。
しかし、それにしては妙だった。不審なほどに焦っている様子の彼は、俺ではなく宮尾に電話を掛けていたのだ。彼は、俺の電話番号を知っている。そうであれば普通、他の人に電話を掛けるようなことはしないはずなのだ。
彼が、そんな単純なミスをするはずがない。しかし、現に彼は宮尾へと電話を掛けている。つまり、彼の精神状態は通常ではないということを意味しているのだ。
「お、俺はここにいます……何の用ですか……」
彼の異常な態度に違和感を覚えつつも、俺は気持ちを落ち着け、冷静に声を出した。しかし、緊張していたこともあり、少しだけ声が上ずってしまった。
「あ、ああ、高島くん……落ち着いて聞いてくれ……村田先輩が、殺されたらしいんだ……」
「……は?」
その言葉に思わず、
村田が、殺された、『らしい』?
この男は、一体何を言っているのだろうか。その村田を殺したのは、米村だというのに……そして、その現場に俺はいたというのに。
「いや、君の反応は実に正しい。俺も最初は何の冗談だ、と笑いそうになってしまったんだが……口に爆発物を咥えさせられて殺されたらしい。しかも、よりによって警察署内で起きたらしいんだ」
「え、あ、あの……何を言って……」
落ち着きつつも、まだ気持ちの整理が付いていないかのように、今仕入れたであろう情報を矢継ぎ早に投げ込む米村。
俺は、自分の頭がおかしくなってしまったのか、と思うくらいに戸惑った。本当に彼は村田の死を知らない……そう信じてもおかしくないほど、彼の言動は
「……もしかして、君はすでにこの情報を聞いていたのか? だったら話は早い、詳しい話を聞きたいから、できれば明日……いや今日、この喫茶店まで来てくれるか?」
「ま、待ってください……」
少し、冷静になる時間が必要だった。つい数時間前まで、狂気を浮かべて岬に感覚
彼は、こんな嘘を
「本気で、そんなことを言ってるんですか? あなたが……米村さんが、この事件の犯人だというのに……」
「は? 俺が……犯人だって? おいおい、何の冗談だよ。みんなして俺を騙そうとしてるのか?」
米村は、吹き出しそうになるのを我慢しているかのように、静かに答えた。
その、まるで事態を把握していない話し振りに、俺は少し怒りを覚えた。短い付き合いだったとはいえ、信念を持って捜査に当たっていた村田への
「……いい加減、そのおかしな演技を止めてください。あなたは、村田さんに死を選ばせた……それは、紛れもない事実です。村田さんを死なせて、岬をあんな目に遭わせて……あなたには人間の心がないのですか!?」
「……」
徐々に怒りがこみ上げ、
傍で静かに聞いている宮尾、そして胡桃も同じ気持ちのようだ。二人とも、その拳を握りしめ、ぎゅっと唇を噛み締めている。
すると電話口から、カチャリ、と乾いた音が聞こえた。食器同士が当たった時に発する音……そうだ、ティーカップとソーサーの接する音……それが聞こえたのだ。ということは、彼はこの期に及んで呑気に紅茶を
思い返せば、彼はこの喫茶店、と言っていた。その言葉が意味するもの、それは、彼は今、あの喫茶店……カフェ・レストリアに居て、そして紅茶を飲んでいる。
その事実は、俺たちの怒りに油を注ぐものだった。
「どうなんですか!答えて――――」
感情が
少しの静寂が、俺たちと米村の間に流れていく。すると――――
「ふっ……ふふっ……アハハハハハ!!」
不意に、スマホから高笑いが響き出した。
そして、ひとしきり笑い終えた米村は、
「ああ、その通りだ……俺には人間の心はない。だから、殺すんだ」
急に、ぞっとするような低い声色で、米村は囁いた。それは、人が変わったかのように冷静で、抑揚のないもの……いつもの米村ではない、また別の彼が、そこに存在しているかのように。
「……ああ、まったく不愉快なものだ。お前たちのようなガキに説教されるとはね。……まぁいい、せっかくだ……少し、昔話でもしようじゃないか」
そう言うと、米村はまたカチャリ、と音を立てる。
「……お前の両親、吉岡 拓馬、聡美を殺したのは、知っての通り鈴石じゃない。そして、
「な、急に何を……」
「黙って聞け。俺は、ただ鈴石の犯行だという証拠をバラまいただけだ。そして、ああ、本当にどうでも良かったんだが……気まぐれで俺は、お前を助けたんだ」
米村は、また小さく笑った。優しさの欠片も存在しない笑いに、俺は身を
「あの事件の実行犯は、お前たちのよく知る人物だよ。……と言っても、遺体でしか見たことはないだろうけどね。あれがきっかけで、お前たちはこの事件に関わることになったわけだが」
「……ま、まさか……」
「そうだよ、奥村 保昌……アイツは、
奥村 保昌……彼により、俺の両親は殺された……? だとすれば、俺の両親は、一体何の理由で殺されたというのか。鈴石による犯行でないとすれば、その動機が思い至らない。
「……吉岡夫妻が殺された理由を考えているな?」
突然の問いかけに、俺は凍り付く。その様子を感じ取ったのか、米村はまた小さく笑った。
「ククッ……分かりやすいな、お前は。単純な話だ……吉岡夫妻は、
俺の両親は、
「彼らが辞めるきっかけとなったのは、十中八九、『エンドラーゼ』の研究が原因だろう。あの事件の異質さに、恐らく最も気づきやすい立場にいたからな。……ああ、そういうことも含めて、彼らは殺されざるを得なかったのかもしれないな……」
「そ、そんな……そんなことで……」
米村の口から明かされた真実、それは、俺の両親の正当性を示すものだった。またそれが故に、理不尽さが際立つのだ。
正しかったが故に、殺された。そんな真実を、誰が欲するというのか。両親は正しかったんだ、と晴れやかな気分になるだろうか。あり得ない。そこに待っているのは、ただこの世の理不尽に振り回されたことに対する絶望……それだけなのだ。
「と、そんなこともあったわけだ……しかし、奥村はあの組織の方たちの予想より、はるかに頭が回らなかった。組織のことを
彼の言葉には、少し怒りの色が潜んでいた。それは、俺の両親に対する
「それで……本題といこう。俺はこうしてお前に電話を掛けたのは、そんな昔話を伝えるためじゃない。決着を付けなければならないんだ」
「決着……?」
予想だにしない発言だった。俺と、決着を付けなければならない……しかし、一体何の決着を付けようというのか。
「ちょ、ちょっと待ってください、俺はこの事件に巻き込まれただけで……何でそんな俺が、この事件の決着を付けないといけないんですか? そんなの……」
「明日の……そうだな、17時でいいな。お前の住んでいた、あの家で会おう。もちろん、一人で来い。まぁ、見送りくらいは許してやる」
俺の言葉を無視し、米村は淡々と要件を伝える。
あの家……俺お両親が住んでいた、そして俺の両親が殺された……すべてが始まった、あの家で、決着を付けようというのか。
「決着を付けないなら、それでいい。俺に会いに来るということは、命をかけたものになるからな。誰だって、自分の命は惜しいものさ。……ただ、この事件の犯人は、岬 千弦であるとマスコミにリークする用意はできている。言っている意味は、分かるな?」
「なっ……!?」
岬が犯人だと、公表する……その意味は、あまりにも大きい。
それが、例えば俺のような一般人がタレコミを入れたところで、マスコミは動くことはない。それに、背後には例の組織が存在しているのだ。誰も彼も、俺の言葉などに耳を貸さないだろう。
しかし、米村……例の組織の一員で、しかも警察官である彼がリークした情報ならどうか。言うまでもなく、マスコミだけじゃない、警察組織が動き出すだろう。そうなれば、例え充分な証拠が出てこなくとも、岬の人生は終わりを告げることになる。
つまり、あの家に俺が一人で行かなければ、岬は社会的に抹殺される。行けば、俺は死ぬ。その選択を、明日の17時までに行え、ということを彼は言っているのだ。
「な、なんで、なんでそこまでして、俺を事件に巻き込むんですか……なんで、俺がこんな目に遭うんですか……」
「……知るか。俺はただ……ただ……?」
米村は、何かを言い終える前に言葉を切った。スマホの電波が急に途切れているかのように、彼の言葉は端切れしか聞こえてこなくなった。
「ただ……何だ……俺は? ああ、村田先輩……殺さ……」
「え……? す、すみません、電波が悪いみたいで……もっとはっきり喋ってくれませんか?」
不穏な空気を察し、俺は米村に問いかけた。しかし、返ってくる言葉は、まったく俺の問いかけを無視したものだった。
「明日……あの家、お前の……ああ、君の両親は、血塗れで……そこで俺は助け……お前の家……」
もはや話とは言い難い、ただの独語となった彼の言葉が、しんと静まり返った室内へ響き渡る。思わず、俺たちはお互いに顔を見合わせた。
「……気を……つけ……あア、殺ス……あノお方……君は……オ前……」
「よ、米村さん? 米村さん!?」
彼の声は、明らかに異常を呈していた。二人の人格が互いに否定し合って、消し去ろうとしているかのように……そして、そこで電話は途絶えた。
ツー、ツー
スマホから、ビジートーンが
「……」
ポカン、と口を開けたままの宮尾は、ただスマホの画面を見つめて固まっている。胡桃は、異常な恐怖感に襲われ、ガタガタと身を震わせ始めた。
「だ、大丈夫、か……?」
「こ、怖かった……怖かったけど……春来くん……一体、どうするの……?」
一体、どうするの……それは恐らく、米村の言っていた、決着……彼の意図するところは全く不明だが、行かなければ、岬は死ぬ。生命が奪われるのではなく、社会的に抹殺される。
そして、それは岬だけに留まらない。彼女の父親、それに親友である俺や宮尾、胡桃……それに中原。この事件に関わった全員の人生が、俺の選択に委ねられたのだ。
「どうするって……そんなの、分からない……分かるわけ、ない……」
どうして俺が、何の関係のない事件の決着を付けないといけないのか。巻き込まれただけの俺が、どうして。
「も、もう一回……米村さんに……」
未だビジートーンの鳴りやまないスマホへ向け、俺は手を伸ばす。しかし、その俺の手は、不穏な物音により引っ込めさせられた。
ガチャ
ドアノブが回された音……それが部屋へとこだまする。不意に響いた物音に、俺たちは身をすくませ、一斉にその物音がした方向へと、視線を移した。
「お? まだ警察の人たちは来ていないんですね。ちょうどよかった、患者家族との面談が終わりましてね……ええ、と?」
部屋へと入ってきたのは、呑気な顔をした森谷だった。手には、何かコンビニの袋を下げている。
「な、なんだ……森谷さん……」
へなへなと、スマホへと伸ばした手を下ろす俺。
まったく、彼の空気の読めなさには、心底呆れかえる。しかし、今回は正直なところ、彼の呑気さに助けられた気がした。あのまま、宮尾のスマホへと手を伸ばしていたら。そして、米村へ電話を掛けていたら。
そう思うと、少し冷静になれる時間をくれた彼には、感謝をしないといけないのかもしれない。
「なんだ、とは随分な……それよりさ、昼からみんな何も食べてないでしょ? あんまり気の利いたものは無いんだけど、少し食べて」
そう言って森谷は、手に下げたコンビニの袋の中身を卓上へと広げ始めた。ほとんどがお菓子……しかも、チョコレートのお菓子だった。
「糖分を補給すると良いですよ? 特に、君たちのような若者は、ちゃんと食べるものは食べるべきですからね」
「あ、はは……そう、ですね……」
思わず、苦笑いを浮かべる俺。お菓子など口にするような気分ではなかったのだが、確かに、脳へのエネルギーの補給を怠っては、何も始まらない。
彼に勧められるがまま、俺たちは素直にお菓子へと手を伸ばす。
「そうそう、それでいいんですよ。……そうだ、君はどうするんだい? 自宅には帰れないんだったっけ?」
「え……ああ、そう、ですね……自宅、か……」
そういえば、すっかり忘れていた。元はと言えば、自宅アパートの模様替えをしようと、色々と作業の途中だったのだ。それで街中で胡桃にばったりと遭遇して……そして、そのまま家には帰っていなかった。
その後、レストリアで中原に出会い、鈴石が死んでいないと知らされたのだ。そのため、俺は家へと帰ることが出来なくなっていた。
しかし今は、事件の犯人が米村だということが分かった。そして、明日の17時……彼に会うか、会わないか。今はその選択に迫られてる状況だ。その状況で、彼が俺を殺しに来ることはないと思うし、もうアパートは安全と言っていいのだろう。
「ちょっと心細いですが、アパートに帰ろうかと思います。ゆっくり体を休めたいですし……」
「あ、いや、俺が言っているのは、本当の住居の方。確か、君は親戚の家にいたんだったよね? こういう時は、誰か知っている人と過ごした方が、俺は良いと思うんですよ」
親戚夫婦の家……10年前、両親が殺されてからずっと居候させてもらっている家だ。本当の家族ではないから、とお互いに……いや、俺が距離を取っていたため、何となく居心地が悪いと感じてしまっていた場所。
しかし、ここ数日のうちに俺の考えは変わっていった。形だけの家族とは違い、血は繋がらなくても、彼らなりに精いっぱい愛そうとしてくれていた、そんなことが少しずつ分かるようになってきていたのだ。
それに、明日もし米村に会うのであれば……恐らく、彼らに会うのもこれが最期となるだろう。10年以上も面倒を見てくれていた人たちに、何の挨拶も出来ない……それは、あまりにも失礼であり、悲しいことだと思う。
「そう、ですね……少しここからは離れているのですが、帰ってみよう、かな……」
「それが良いと思います。一人で過ごすには、少しね」
森谷は、少し満足げに
「さてと、では、俺がみんなを送りましょう。ちょうど、研究の方も時間が出来たし、患者への処方も全部終わりましたからね」
「え、いやそれは悪いですよ! 一人でも帰れますから……」
宮尾が、驚いたような目で森谷を見つめる。しかし、彼が見ているのは宮尾や俺ではなく、胡桃の方だった。
ああ、胡桃を送りたいがために、俺たちもついでに送るのか。
「あー……胡桃ちゃんのついで、ですかぁ?」
「えっ!? いや、何を言うのかなぁ、そんなことないですよ! そんなやましいこと……ねぇ?」
「いや、俺に聞かれても……」
慌てふためく森谷の様子に、宮尾も胡桃も、すっかり笑顔になっている。あの電話の後だというのに、まったく、森谷の持つ空気は恐ろしいものがある。
「えー、とりあえず……支度をしてもらっていいかな。そうしたら……」
コンコン
森谷の話の途中、部屋のドアがノックされた。急な来訪者に、森谷は少し飛び上がり、恐る恐るドアへと近づいていく。
そして、ゆっくりとドアを開ける森谷。するとそこには、いかにも体育会系、という風体の男が立っていた。
「ええ、と……どちら様ですか?」
「あ、すみません……代々木警察署から来ました、品川と申します。安藤さんはこちらに?」
代々木警察署の人間……ということは、恐らく中原の派遣した警察官だろう。夕刻の、しかも病院の研究室に警察官が訪れる理由はない。であれば、答えは一つしかないのだ。
「あ、はい。私が安藤です。もしかして、中原さんから言われてこちらに?」
「はい、家まで送るように、と」
予想通りの返答に、ホッと胸を
「じゃあ、すみませんが私はここで。森谷さん、遅くまですみませんでした。あと、お菓子、ありがとうございます」
「あ、いや、いい。いいんだ……」
少し寂しそうに、いや悔しそうに、品川を見つめる森谷。そんな彼の視線を感じていないように、品川は胡桃と共に廊下へと消えていった。
「……略奪する愛も、あるかもしれませんよ?」
「余計なことは言うな、宮尾」
軽く、ペシッと宮尾の頭をはたく。幸いにも、森谷には宮尾の声は聞こえていなかったようだ。
「はぁ……しょうがない。二人とも、さっさと付いてきて」
そう言うと、森谷はとぼとぼとした歩みで進み始める。まるで亀の歩くような速度に、思わず俺と宮尾は顔を見合わせ、吹き出すように笑った。
そして荷物を手に取り、歩みの鈍い彼の後を追っていった。
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