第20章 事件の影は、形を変えて迫ってくる

 井上 翔也……俺は会ったことが無いが、宮尾が知っているということは、少なくとも高校時代まではずっと会っていた人、ということになる。岬のあの時の様子を考えると、恐らく彼女は、今も井上のことが忘れられていないのだろう。


「……それは、驚きではあるけど……今回の事件には何も関わらないこと、だと思うんだけど?」


 俺は、その帝都大学での事件と、今回の一連の事件には関連性が見いだせなかった。もちろん、例の組織が絡んでいる、というのは考えられることなんだが……。


「うん、それは私もそう思う。岬ちゃんが、あの組織について知っているかどうかはともかく、彼女には少なくとも、今回の殺人を犯す理由は、見当たらなかった」


 もちろん、岬が例の組織を知っていたとしても、殺害するならばもっと別の人を選ぶはずだ。霊身教れいしんきょうの信徒と10年前の医療事故に関わった人間を殺す、そんなのは、理屈としてありえない。


「じゃあ、岬は犯人じゃない、そう言っていいと思うんだけど……それだけじゃないんだね?」


 胡桃の表情を見て、俺はまだ、彼女の意見に続きがあることを察した。


「……岬ちゃんの、ご両親。お父さんは、普通の会社員で、別に何かおかしなところはなかった。でも、お母さんの方は元々、大学で研究を行っていたそうよ」

「研究……」


 研究、と言っても色々な分野がある。それ自体は全く特殊な職種でもないし、むしろエリートの血筋なのだな、と感心するくらいだ。しかし、それが何かあるのだろうか。


「そう、研究。脳神経に関する研究室に、四年間ほど在籍していたらしいの。その研究室で、一定の期間だけ、あの人……鈴石 初穂と共同研究していたらしいの」

「なっ……!?」


 鈴石と、岬の母親が共同で!? もしかして、その共同研究は……。


「……そう、『エンドラーゼ』の研究。研究途中で、岬ちゃんのお母さんは退職したみたいだけど……これ、何も関係が無いとは言い切れないかなって思って。当時のデータを、彼女がまだ持っていたとしたら。彼女は研究の途中でやめてしまったため、『エンドラーゼ』は作れない、けど……副産物の方はどうなのかな? あれは、合成の過程で生成されるって、春来くん、教えてくれたよね」


 そう、以前森谷が言っていた、あの副産物……今回の事件に用いられたとされる、あの毒物は、『エンドラーゼ』の合成過程で出る副産物だと。それ自体は『エンドラーゼ』になり得ないし、『エンドラーゼ』もそれにまたなり得ないもの。


「ちょ、ちょっと待って。もし万が一、岬のお母さんがそのデータを持っていたとしても、もう普通の主婦になった彼女には、そんな情報は必要ないんじゃないか? 鈴石と共同研究していたって言っても、寝食しんしょくを共にするとか、そういう意味じゃないし、鈴石があの組織に消されたことなんて……」


 そうだ、いくらデータを持っているとはいえ、動機が希薄すぎる。過去の仲間のために、なんて思うほどの気持ちは抱かないだろう。それに鈴石は、以前聞いた話では、他の人とほとんどコミュニケーションを取らなかったそうじゃないか。そんな彼女のために、何て普通はあり得ない。


「……私ね、ちょっと前からおかしいなって思ってたの。何で、鈴石本人が生きているって決めつけているのかって」


 ……今、その議論に戻るのか。米村さんと中原さん、三人で話し合った内容については、彼女たちにも教えていたはずだった。


「いや、その話は前にもしたはずだ。例の組織についての件は伏せたが、国家ぐるみで彼女の存在が隠蔽いんぺいされているって。胡桃は、例の組織の存在を知っているんだ、分かるだろう?」


 そうだ、例の組織の存在を示せていないと、どうしてもファンタジーな内容になってしまう。しかし、例の組織を知っているのであれば、話は別だ。実際に六年前にも、帝都大学で大規模な死亡事故……もはや殺人ともいえるものが起きて、もみ消されている。鈴石一人を消すくらい、どうってことはないはずだ。


「……それ、なの。あの組織が、鈴石の『研究』を目的とした隠蔽いんぺい工作を行うなら、彼女の生死はどうでもいいことなんじゃないかな。データさえあれば、あとは再現するだけ。そうだったら、わざわざ国を動かしてまでも、彼女を生け捕りにする意味はある?」


 ……言われてみれば、確かにそれはおかしかった。いくら鈴石が研究者として超一流でも、そのデータがあれば、他の一流の研究者たちでも充分に再現はできるだろう。それに、例の組織は世界中の優秀な頭脳で結成されている。そんなことは、火を見るよりも明らかだった。


「それにね、おかしいことはまだあるの。その組織が、鈴石を生かしていたとしたら、まず優先して研究すべきは『エンドラーゼ』の方。人類の進化のためには、痛みの克服、なんてかなり大きな題材よね。それなら、今回の被害者には『エンドラーゼ』が投与されていないとおかしいの。でも、投与されたのは副産物……毒物の方だった。これは何故?」


 少しずつ、しかし確実に、パズルのピースがはまっていく音が聞こえた。そうか、組織の目的は、『エンドラーゼ』の開発ではない。TOX - Aと呼ばれる毒物、あれの研究か。そうだとすれば、彼らの目的……あの毒物の特性、それは……。


「覚せい剤を超える物質の実験……情動じょうどうのリミッターを強引に解除して、マインドコントロールが可能かどうか、そういう研究……」

「……そう考える方が、妥当、でしょう……」


 マインドコントロールの研究……そして霊身教れいしんきょうの存在がある。作為的に抽出した信徒たちに、例の副産物を混入させたエンドルパワーを配り、飲ませる。そうして、徐々に適度な濃度を測っていた、とすれば。


「……岬のお母さんがデータを持っていれば、それを回収し、マインドコントロールの研究に使う。岬のお母さんは、確か……」

「五年ほど前からずっと入院生活。……この推測が正しければ、岬ちゃんのお母さんは、データを渡すことを拒否したんでしょう。それで、可哀そうに彼女は事故に巻き込まれて、今もなお、自分で動くこともままならない……そういうことになる、かな」


 想像しうる中で、かなり最悪のものだった。岬が例の組織の存在を知っていた場合、この事件を引き起こす動機がはっきりとある。最愛なる人間の死、母親の事故、それらを起こしたのが、例の組織。そしてその組織は、さらに母親から奪ったデータをもとに、霊身教れいしんきょうの信徒たちに人体実験を行っている。それを、彼女が許せるはずがなかった。


「と、なると……TOX - Aの研究を止めさせるべく、あえて目立つやり口で殺害している、ということ、か。でも、岬が犯人だとすれば、どうやって霊身教れいしんきょうの信徒たちを見つけ出したんだろう。それに、毒物の入ったエンドルパワーを、どうやって見分けるんだ?」

「信徒の名簿みたいなものはあるんじゃないかな、それに、岬ちゃんのコミュニケーション力があれば、多少の無理はききそう、かな。行動力は、言わなくても分かるよね」


 まるで隙のない推測に、感心する俺。つい先ほどまでは、目の前の彼女に、告白されるのでは、などど考えていた自分が、とても恥ずかしく思えた。


「……でも、一人だけ、この推測に外れる人がいるの。それは、渡辺。彼は、エンドルパワーを飲まないし、霊身教れいしんきょうの信徒でもない。10年前の医療事故の治験担当医だった、というだけ。……状況的には、『エンドラーゼ』による事故だと判断した張本人だから、研究を止めさせたい側からしたら、正しい人になるんだけど……」


 そうだ、以前俺は村田に話したことがあった。渡辺の事件だけは、意図的に他と区別している、と。ただ、岬が犯人であるならば、渡辺を殺すことが目的、という俺の推測は外れることになる。そもそも、例の組織、もしくは霊身教れいしんきょうから金品を受け取っていたとしても、それを理由に殺害にまで至るだろうか。それと、確認しておきたいことが一つあった。


「胡桃、一つだけいいか?」


 念のため、というつもりで、彼女にあのことを伝えた。そう、俺たちがこの一連の事件に巻き込まれることになった、あの事件のこと。


「奥村の件、あれは、宮尾が証言した通りだ。あの時間帯に、俺たちは三人で集まっていた。後から米村さんに聞いた話では、俺たちが全員、集合していた時間、奥村の姿が、あのビル付近の監視カメラに映っていたらしい。これは、どう考えるんだ?」

「あ、ああ、そっか……」


 そっか、と彼女はとぼけた顔で言った。もしや、時系列を把握しないまま、今の推測を立てていたのだろうか。ああ、彼女も米村と同じく、詰めが甘い。しかも彼女は、肝心なところで油断したようだ。


「……物理的にムリ、なんだね。あはは、そ、そっか……」


 みるみるうちに顔が赤くなっていく胡桃。赤っ恥、というのはこういう時に使う表現なんだろうな。……しかし、彼女の推測、途中まではかなり筋が通っていた。あの推測が途中まででも正しければ、鈴石は最初から死んでいても、何ら問題はないのだ。また、岬の母親でなくとも、共同研究者からデータは奪えたことだろう。


「……うん? 待てよ……ということは、鈴石の遺体が発見された、というのは、どういうことだ?」

「え?」


 胡桃は、まだ顔を赤らめたまま、こちらを見つめている。


「胡桃の意見が、犯人が誰か、というのは別にしても、当たっていたとする。となると、あのかれて死んだという女性、あれは、誰なんだ? 鈴石が生きていなくて良かったのであれば……10年前、鈴石は本当に死んでいたとしたら……あれは、誰の遺体なんだ?」


 表情を固くしたまま、沈黙する胡桃。彼女の、鈴石が死んでいることを前提とした推測……あれが正しいのであれば、俺を襲ってきた女性は鈴石ではない。しかし、画像データを解析しても、鈴石とあの女性の顔の特徴は、90%以上が一致した、と米村は言っていた。本当に、彼女の亡霊なのだろうか?

すると――――


 カランコロン


 店内に誰か他の客が入ってきた。思わず入り口を凝視した俺は、そこに立っている存在に気が付いた。いつもよりも髪の手入れが雑だったが、あの女性は、中原だ。中原が、こちらを睨んだまま、息を切らし、そこに佇んでいた。


「ど、どうしたんですか?」


 俺は、中原が入店してきたことよりも、その様子に気を取られてしまった。あんなに慌てた様子の彼女は、今まででも類を見なかった。


「どうしたもこうしたも……全く、浮かれ気分でデートか、良いご身分だな……」


 はぁー、と大きく息を吐いた中原は、ゆっくりとこちらに向かってきた。今さら彼女が、しかも一人で俺に訪ねてくるのだ。途轍とてつもなく嫌な予感が、頭を過ぎる。


「っと、誰かと思ったら胡桃ちゃんか。……そっか、ちょうどいいかも」


 中原は、俺の向かいに座る胡桃に気づいたようだった。しかし特に気にする様子もなく、俺のはす向かいに座った。よほど焦って来たのか、彼女の汗の臭いが、軽く漂った。


「ええと、お久しぶりですね。春来くんに用、ですよね。私、席を外しましょうか?」

「いや、大丈夫よ、そのまま聞いて。むしろ、聞いてほしい、かな」


 そう言って中原は、手近にあった胡桃のコップを奪った。恐らく、随分と駆けまわったのだろう。水を一気に口に含む中原。しかし、彼女の言葉に、俺と胡桃は顔を見合わせた。俺だけではなく、胡桃にも聞いてほしい話? それは一体なんだというのか。まさか……。


「……もしかして、例の遺体、鈴石のものではない可能性が出てきた、そう言いたいんですか……?」


 俺は、先ほどまで考えていた話題を、中原に尋ねた。すると中原は、飲みかけていた水を噴き出した。テーブル上に少しだけ、水が流れていく。


「ゲホッ、ゲホッ……ああ、ごめん……もう、カッコ悪いなあ、私。……で、何でそんなこと分かったのよ」


 手近なお手拭きで、その水をふき取る中原。そのお手拭きは俺のだったが……あとで新しいのを貰おう。しかし、何でと言われても、彼女……警察官が俺を訪ねてきた。そして、この前まで一緒に事件を追っていた胡桃にも聞かせたい話、そう言ったのだ。そんなに考えなくとも、ある程度、答えは絞られると思うのだ。もちろん、先ほどまでそんな話をしていた、ということもあるが。


「いえ、ちょうどその話をしていたところだったので……あれ、今日は米村さん、いないんですね。また置いて行かれたんですか?」


 彼女一人が、要件を伝えに来るということはまず考えにくい。信頼度の問題もあるが、まだ二年目の彼女には、上司が付いていないと危ないだろう。俺はそう考えて発言した。


「……いえ、この件は私の捜査。ま、結局は村田先輩に投げちゃうんだけど、米村先輩には、このことは黙っていてくれるかな」


 神妙な面持ちで、中原はこちらに確認した。彼に黙っていること、それは別に構わない。しかし、彼女があの事件を捜査するということは、米村は外されたのだろうか。あれだけの推測を、端的に、素早く絞り出せる彼だ、もう解決済みとなった事件の捜査は担当しない、ということかもしれない。


「……その沈黙は、肯定として受け取るからね。さて、じゃあまずはあなたたちの話を聞かせて。何でそういう答えに行きついたのかを」


 そう言われて、俺たちは先ほど話した内容……岬の家族や、井上のことも含めて、彼女に話した。もうそろそろ11時を過ぎる、そんな時間だった。









「……なるほどね、先輩の推測よりも、しっかり的を射ている感じ。でも、確かにその推測だと、岬ちゃんは犯人とは言えないわね。もちろん、高島くんも、宮尾ちゃんもだけど」


 一通り、俺たちの話を聞いた中原は、少し考えつつも、おおむね同意見だったようだ。この推測が正しいとは限らないが、生きていた鈴石が何らかの理由で組織から逃亡し、殺戮さつりくを繰り返す、なんていうものよりは、多少信頼性がある。


「それで、中原さんは何を伝えに来たんでしょうか。俺たちの意見を聞きに来たわけじゃないでしょうから、そろそろ話していただければ、と」


 俺は、しびれを切らしたように彼女に尋ねた。そう、急いで俺のところに来たはずの彼女は今、呑気にコーヒーを飲んでいる。急ぎの要件なら、俺たちの話なんか聞いている暇などないはずだ。


「うん? あーそうね、ゴメンゴメン。サクッと見つけられたからちょっと安心しちゃって。……そう、伝えに来た、というのもそうなんだけど、君を保護しに来た、っていうのが正しいかな」

「俺の、保護、ですか? それはつまり……」


 保護……警察が身柄を抑える時の言葉。拘束とは違って、守ってくれる方の意味での言葉だが、結局、やっていることは拘束とさして変わりはない。俺の自由は、また奪われるということだ。


「そう、私と村田先輩は、あの礫死体れきしたいが鈴石ではないと踏んでるの。そうなると……君を、あの女を使って追い回していた別の犯人が、まだいるとしたら、よ。自由になった、と言って浮かれる君を、殺しに来ることも考えられるの」


 俺は、その言葉に戦慄せんりつした。確かに、そうだ。俺を追いかけまわしていた鈴石が、遺体で発見された。その話を聞いて、まさに今、のこのこと買い物に出てきてしまったのだ。安心しきった状態で、模様替え、なんてどうでもいい理由で。


「で、でも……そのかれた女性が鈴石じゃなかったとしたら、彼女は既に死んでいるって考える方が普通、ですよね? でしたら、何故、俺はまだ狙われなければならないんですか?」

「そ、それは……」


 中原は、そこまで考えてはいなかったようだ。しかし今、はっきりしたことがある。理由は不明だが、俺はまだ襲われる可能性が高い、ということだ。


「とにかく、今日はまた大家さんに事情を話すしかない、でしょうか。もしくは――――」



 カランコロン



 話の途中で、誰かがまた入店してきたようだった。俺たちの話は、部外者に聞かれては宜しくない。咄嗟とっさに口をつぐみ、来客の様子を確認した。

 30代、いや、40代かそこらの、小太りの男性が立っていた。見た目は小奇麗にしていた男だが、その目は、心の汚さを表していた。そして、その男性はこちらに近づき、言った


「いやぁ、お話しのところ申し訳ない。私、『毎秋文芸まいしゅうぶんげい』の芸能担当をしています、田中たなかと言います。ええと、湊 花南さんは……ああ、そちらですね」


 自らを文芸誌の者だと名乗った、その田中という人物は、俺や中原に目もくれず、胡桃の方へ駆け寄った。胡桃は、怪訝けげんな顔つきで彼を見つめている。


「どうもすみませんね。私、貴女のお姉さん、安藤 理佐さんが亡くなった事件のことを調べておりましてね。彼女のマネージャーだった、伊藤さんに、貴女のことを聞きまして。それで直接、ここまで来てしまいました」

「はぁ、でも私、もう芸能界は引退していますので、こういった取材はお断りしているので」


 胡桃は、田中の言葉を聞くや否や、冷たくあしらった。前もって何も連絡がなく、こうして私的な会話に割り込んできたのだ。この男は、かなり失礼なことをしている。

 しかし、そんな彼女の態度を全く意に介していない田中は、矢継ぎ早に質問をし出した。


「いやー、お姉さん、随分とバッシングされていたじゃないですか。マネージャーの伊藤さんからも色々と言われていたみたいですし? 妹の貴女には、何かこう、言い方は悪いですけど、いじめられた、とかそういうことは聞かなかったですかぁ?」


 この男、一体なにを言い出すのかと思えば。彼女の姉は、一連の事件に巻き込まれた被害者だ。芸能界の、芸能人同士でのいざこざで殺された訳じゃない。今まで、彼女の事件を調べていたのなら、そんなことは知っているはずだ。これには何か、意図がある。


「ですから、取材はお断りしていますので。お帰り下さい」


 胡桃は、先ほどよりも強く、きっぱりと言い放った。そんな彼女の様子に、下卑げびた笑みを浮かべる田中。


「そんなに冷たくしないでくださいよ、もしかしてアレですか? 東野 遥さんにも、そんな態度だったんじゃないですかぁ?」

「っ……!」


 胡桃の表情が少し変わった。東野 遥……彼女がアイドル時代、共にメンバーとして活動をしていた、彼女の唯一無二の親友。その名前を今、この男は軽い口調で言った。しかも、胡桃が東野に冷たい態度だった? それは、彼女の話を聞く限り、あり得ないことだった。


「おい、アンタ。いきなり出てきて何を……」

「てめぇには聞いてねぇんだよガキ!」


 俺が田中に反論しようとした時、彼は脅すように睨み、怒鳴った。長年、こういった取材を行ってきたのだろう。彼のメンチ切りは、それなりの迫力があった。


「んで、どうなのかなぁ、花南ちゃん? 貴女、遥ちゃんとは、睡眠薬を飲ませて事故に遭わせちゃったくらいに仲が悪かったじゃない。……あ、ああ! お友達の前だったね、ゴメンゴメン! 知らなかったよね! でもね、この子、意外と怖いことするんですよぉ」


 今、この男は、胡桃が東野に睡眠薬を飲ませ、事故に遭わせたと、そう言った。それは一体、どういうことなのか。タクシー運転手の病気で、彼女たちは事故に巻き込まれたのではなかったのか?

 俺は、思わず胡桃を見た。先ほどまでの強気な目はどこかへ消えてしまっていた。今は、ただ目の前の男に怯え、震える一人の女の子になっていた。


「じ、事故は、私は関係ない! 運転手さんが、急病で、それで……!」


 震える声で、胡桃は反論した。しかしそれは、反論、というにはあまりにも力のないものだった。それを聞いた田中は、さらに意地の悪さを顔に出した。


「ええ? でも同乗していたんでしょ、睡眠薬を飲ませた遥ちゃんと一緒に。なんで貴女は生き残って、彼女は死んだのかな? 薬が効いてなかったら、事故の前に目を覚ましていたかもしれないんじゃないのかなぁ?」

「おい、いい加減に!!」


 俺はもう黙って見ていられなかった。怒りをあらわにし、その男へ詰め寄る。しかし、田中は逆に、こちらの胸倉むなぐらを掴んだ。


「うるせぇんだよガキィ! さっきから舐めてんじゃねぇぞ!!」


 ブチブチ、と俺の服の繊維が破れる音が聞こえた。頭に血が上った俺は、咄嗟とっさに拳を握りしめていた。そして、その拳を振りかぶろうとした時だった。


「はい、そこのお前。暴行罪の現行犯だ」


 中原の声が、店内に響いた。その声の方を見ると、彼女は静かに、ただ、この中の誰よりも恐ろしい目つきで、この男を睨んでいた。


「は、はぁ? 何言ってんだテメェ、何も暴力なんざ……」

「過去の判例では、水をかけられたというだけでも、暴行罪は適応された。それに、お前はさっきから脅迫行為を繰り返している。証人も、少なくとも三名いる。お前が訴えられた場合、勝てる見込みはない」


 つらつらと無感情に、しかし、目には力いっぱいの怒りを込めて、中原は言った。


「そして、まぁ、そうですね。私も、こんなことを店内でされてしまったので、営業妨害として訴えましょうか。ねぇ、『毎秋文芸』の田中さん?」


 いつの間にか奥の部屋から出てきていた大野も、彼に強い言葉を投げつけた。いつもの微笑ほほえみは一切なく、ただ彼を威圧していた。


「……で、このまま帰るか、現行犯か、どっちがいい? その選択によって、私にはお前を捕まえる義務が生じるんだ。早くしてくれないか」


 そう言って、中原は警察手帳を掲げた。みるみるうちに青ざめていく田中。俺の胸倉むなぐらを掴む力が徐々に失せていき、そして手を離した。


「……チッ」


 そして、彼は最後まで悪態をつきながら、足早に店内から消え失せた。ドアを力いっぱいに閉めたのか、鐘が鈍い音を立てて床に落ちた。


「ああ、全く……『毎秋文芸』さんには、私からよろしく伝えておきますよ。これでも、そういうことは得意なのでね」


 はぁ、とため息を吐いた大野は、中原にそう告げた。そういうわけには、と言いかけた中原だったが、今は胡桃の様子の方が気がかりだった。


「すみません、マスター。……胡桃ちゃん、大丈夫かな?」


 中原は、未だに真っ青な顔色の胡桃を、心配そうに覗き込んだ。俯き、小さくガタガタと震えている胡桃。まるで、お化けか何かに襲われたように。


「……この様子じゃ、しばらくは動けないかな。しかしもう昼過ぎか、何か昼食を買ってこようか?」


 中原は朗らかに俺に尋ねた。俺は、まだ自分の頭が冷静ではないのかと疑ってしまった。何故なら、彼女の言っている意味が分からなかったのだ。


「あの、中原さん……ここ、カフェですよ」

「……あ」


 中原は、素早く大野の方へ振り返った。大野はこのやり取りを、ただただ苦い顔で見ていた。


「一応、サンドウィッチとか軽食はあるんですけどね。まぁ、しばらく作っていないので、味はコンビニのサンドウィッチの方が美味しいかもしれませんから、お気になさらず……」

「いやいやいやいや……ほんと、すみません……」


 あんな空気の後だというのに、中原と大野は、何もなかったかのように会話をしている。俺は、先ほど握った自分の拳を見つめた。血が通い始めた俺の手のひらは、息を吹き返したかのように、じんじんとしびれだしていた。冷静に、自分を見失わないように行動している彼らは、とても大人に見えた。それだけに、中原の失言は笑えてしまうものなのだけど。


「では、久しぶりに何か作るので、少々お待ちください。あ、そうだ……私も何か食べてきますので、また一旦お店を空けてしまいますが……よろしいですか?」


 自分で作った料理を食べないのかよ、とツッコもうとしたが、これは、彼の配慮だ。聞かれたくない話は、大人数に聞かれない方が良い。それに、気の知れた者同士だけの空間にすれば、彼女の……胡桃の震えも治まるだろう。そういう意図が感じ取れた。


「……分かりました。ありがとうございます」


 その言葉に、いつもの微笑ほほえみを浮かべ、大野は厨房へと消えていった。


「さてと、まぁ、そうだよね……あそこまで聞いてしまった以上は、こちらも聞かないといけない雰囲気ではあるけど……どうかな、胡桃ちゃん。話せそう、かな?」


 こういう空気は得意ではない俺は、中原に主導して貰おうと考えていた。しかし、彼女も俺と同じらしい。しどろもどろな彼女を見て、俺も逆に緊張してしまった。


「い、いやまずはお腹に何か入れた方が、安心感というか、その……」

「あ、それも、そうかな? えっと、どうしよっか、分かんないんだけど、こういうの!」


 中原は、最終的には半ギレ状態で俺に詰め寄った。それに戸惑う俺。……そんな俺たちの様子を見て、胡桃は少しだけ、クスッと笑った。その声に、俺と中原は思わず顔を見合わせた。


「すみません、気を遣っていただいて……そうですね、もう、隠すことはできませんね」


 そう言って胡桃は、まだ少し震えながらも、顔を上げた。少しだけ吹っ切れたような、そんな目。彼女は、意を決した様だった。


「お話しします。私があの夜、遥にしたことを」

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