39 間一髪なんだが

 鳴り響く爆音、チカチカと七色に光る照明、周りから聞こえるタンバリンの大合唱。

 まさにこの世の地獄を体現したような空間に俺はいた。


「聞いてくれてありがとー、で次は誰が歌うの?」


 そこはカラオケ店のとある部屋の中、本日の打ち上げ会場である。

 結局三十人も一つの部屋には入ることが出来なかったためパーティールームを二つ貸し切っていた。


「俺でしょ、いやー披露しちゃうよ。俺の美声」

「あんたが美声とか似合わなすぎ!」

「うるせーな、俺の美声を聞いて驚くなよ?」

「自分でハードル上げたね」


 そのうち俺がいる部屋には椎名えりの姿があった。

 彼女は色々な男子に話しかけられながらも本を読んでいるが、少し鬱陶しそうな表情をしているのは話しかけられて読書にあまり集中出来ないからであろう。

 それなら何故この打ち上げに来たんだと素朴に思ったが彼女を誘った身としてはそんなこと口が裂けても言えない。それに今彼女の周りには複数の男達が集まっており、とても話が出来る状況ではなかった。


「じゃあこの歌を椎名さんに捧げます!」

「ちょ、お前急に何言ってるんだし!」

「良いだろ! 俺の勝手じゃねーか!」


 なんとなくこのカラオケ特有の空気に疲れた俺はコソコソと物音を立てないようにトイレへと向かった。

 別に物音を立てても俺の行動など誰も気にしないのだが出来るだけ人目を避けたかった。


 用を済ませ、洗面台で手を洗っているとガラスに誰か入って来るのが映った。

 特にそれ自体は気にならなかった。カラオケ店のトイレなのだから他に人が入ってきてもなんらおかしいことはない。


 扉から人が入ってきた辺りで俺は一度視線を外しポケットから取り出したハンカチで手を拭う。

 それから再びガラスに視線を向けるとそこには椎名えりの姿が映っていた。

 バクバクと聞こえ始める心臓の音、まず始めに考えたのは俺が男性用と女性用を間違ったのではないかということ。しかしトイレの構造を確認しても俺が間違っているとは思えない。ということは確実に彼女の方が間違って……いや若干顔が赤くなっているのでここが男性用だと分かって入ってきたということになる。


「流石にまずいだろ」


 俺の他に誰もいなかったから良かったものの、今この瞬間にも誰かが入ってくる危険性はある。


「だっていなくなるから……」

「だからってここまでは入って来ないだろ。もし他に人がいたらどうしてたんだ?」

「それは……」


 考えなしか。

 なんとも彼女らしくない行動だがそれほどあの空間が辛かったのだろう。分からなくもないので何も言えない。


「とにかく誰か来ないうちに早く外に出るぞ」

「……」


 俺の言葉にコクりと頷く椎名えり。

 だが外に出ることは出来なかった。

 なんともタイミング悪く扉の外から楽しげな会話が聞こえてきたのだ。

 その会話が扉のすぐ近くで聞こえるようになったところで俺は彼女の手を掴み、個室へと駆け込んだ。


「悪い、ちょっとこっちに来てくれ!」


 半ば強引に彼女を個室に押し込み、すぐに鍵をかける。

 数秒後には楽しげな会話が個室の扉を挟んですぐそこから聞こえるようになっていた。声を聞くに同じクラスの奴ららしい。

 危なかった。俺はこの間一髪の危機を回避出来たことにホッと息を吐く。だが彼らが出ていくまでまだ完全に安心する事は出来ない。


「そういえば椎名さんってカラオケに行くようなイメージないよな」

「あー確かにな。思ったわ」

「それってやっぱり……」

「早見狙いか?」

「まぁそうだろうな。じゃなきゃ椎名さんがカラオケに来るはずないって」

「くっそ、俺も若干狙ってたのにな」

「いや無理だろ。その顔じゃ」

「うるせー」


 状況を探るため扉の向こう側から聞こえて来る声に耳を澄ませば、扉の向こう側では椎名えりについての話がされていた。

 話の内容は椎名えりが打ち上げに来た理由。

 確かにそれは気になる内容だった。

 先程までの彼女を見る限り、明らかに歌う気がなかった。本を読んでいたのだ、見れば誰でもそう思う。

 となれば彼女が何故打ち上げに来たのか、目的が分からない。早見優人がいるからという理由も可能性としては十分にあり得た。


「まぁ精々頑張れよ。無駄だと思うけどな」

「お前、俺のこと応援してくれないのかよ!」

「だって結果なんて分かりきってるだろ?」

「ワンチャンある!」

「いやいやいや……」


 次第に離れていく話し声、扉の閉まった音がしたところで俺が彼女の方へと視線をやると彼女は床の一点をじっと見つめていた。


「もしかして怒ってるのか? 俺が無理やり押し込んだりなんかしたから」

「違うのよ、ただ……」


 俺の言葉に彼女は顔を上げるとまっすぐに俺を見る。


「違うから!」


 それだけ言うと彼女は俺を押し退けて個室、それからトイレからも出ていった。


「おい、もっと慎重に!」


 必死な俺の言葉も彼女に届かず、トイレにはただ大声を出す俺だけが残された。

 結局彼女がここで何をしたかったのか、最初から最後まで分からずじまいであった。


◆◆◆


 それからクラスメイト達が待つ部屋には戻らず、カラオケ店の外に出れば、カラオケ店のすぐ近くにあるベンチには椎名えりが座っていた。


「拓也君……」

「ああ」


 彼女の声に反応して返事をすれば彼女は更に言葉を続ける。


「さっきはごめんなさい。色々とどうかしてたわ」

「まぁ確かに男性用のトイレまで入ってきたときは何事かと思った」


 率直に驚いたということを伝えたかったのだが彼女はどうやら俺の意図したのとは違うように捉えてしまったらしく。


「……もしかして嫌いになった?」


 何故かそんなことを俺に聞いてきた。

 普通そういうことは彼氏とか家族とかもっと親しい関係の者に聞くべき言葉なのだろうが彼女がずれているのは最初から分かっていること、特に気にしてはいけない。


「そんなことはないから安心しろ。それに今更男性用のトイレに入ってきたくらいじゃなぁ……」

「それって少し私をバカにしてるわよね?」


 言葉を濁したつもりだったのだが椎名えりの勘は意外にも鋭く、あっさりと俺の言わんとすべきことを察してくる。


「気のせいじゃないか?」


 苦し紛れにそう言い訳すれば彼女は訝しげな顔をしながらもなんとか矛を収めてくれた。


「まぁいいわ、じゃあ私はそろそろ戻るわね。二人ともいないなんて怪しまれるもの」


 彼女は立ち上がるとそのままカラオケ店へと戻っていく。そしてカラオケ店の入口に入る直前、彼女は俺の方へ振り返ると俺にあることを告げた。


「私は早見君狙いじゃないわよ」


 そう言う彼女は何故か少し恥ずかしそうな表情をしていた。

 そんな彼女をかわいいと思ってしまったのはきっと彼女の容姿が優れているからであって、見たら誰でもそう思うはずで。とにかく俺だけではないはずだ。

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