34 断りきれなかったんだが

「ねぇこの前のパンの人」


 その声に顔をあげればまだ目尻に涙が残っている向島葵の顔が俺の目に映る。

 先程の会話を聞いていたので大体彼女の目的は分かるが、今の俺の気持ち的にはその頼みを受けたくない。その一言に尽きる。


「ほら、もう授業が始まるぞ。早く席についた方がいいんじゃないか?」


 時計を見れば既に授業開始二分前、全教科補習の彼女にとっては授業に遅れること、それはすなわち死を表す。


「あーもう! この授業のあと話があるからどこにも行かないでよ!」


 彼女も分かっているのだろう、俺に何か言いたげな顔をしながらも渋々自分の席へと戻っていった。

 一旦彼女を撒くことは出来たが次の時間にはまた来てしまう。

 彼女から逃げる良い方法はないものかと考えているうちに授業開始のチャイムが鳴った。


◆◆◆


 授業終わり、トイレに駆け込もうとしたところで不覚にも向島葵に捕まってしまった。

 やはり逃げ切ることは無理だった。


「ちょっとお願いがあるんだけど」


 彼女はまるでカツアゲをする昔の不良のような形相で俺に迫る。

 というか彼女の態度も相まって本当にカツアゲをする輩にしか見えなかった。

 まぁそれでもカツアゲをするにしては少々背丈と迫力が足らないが。


「その前にトイレ行っていいか?」

「じゃあ、私も一緒に行く」


 最後の抵抗で再びトイレに行こうとすれば彼女もついてくると言い出す。

 常識的に考えてまさかトイレの中にまでは入ってこないとは思うが入ってこなかったところで出口で待ち伏せされるのは簡単に想像出来た。

 どう頑張っても俺が彼女から逃れることは出来ない、要するに俺は諦めるしかなかった。

 人生諦めが肝心とはよく言ったものであるが今の俺にとってはただの皮肉でしかない。


「やっぱり止めた。それよりもお願いってなんだ?」


 俺の唐突な手のひら返しに一瞬キョトンとした表情を浮かべる向島葵。

 しかしその後すぐに持ち直し俺の肩を掴んだ。


「そう、助けてよ! 私補習でヤバイんだよ! だから勉強教えて! 確かあんたって点数良かったよね?」


 確かに今回の期末テストでは各教科八十点以上は叩き出せたが普段は四十点に届くかどうかのギリギリライン、そんな俺が上手く教えられるはずがない。

 頼るならもっと別の人を頼って欲しいものなのだが……。


「てか何で俺の点数知ってるんだ?」

「テストが返却されたときチラッと見えたんだよね。あんたなら面識あるし気軽に頼めるでしょ?」


 一度パンのやり取りをしただけで気軽に頼めるとはどんな神経してるんだと思ったが口には出さない。

 彼女もそれだけ必死なのだろう。


 それにしてもどうしたものか。

 頼まれても俺では確実に力不足である。

 ここは彼女に申し訳ないが断る他ない。


「すまないが今回のテストはたまたま良い点数取れただけで普段は……」


 だがここでタイミング良く次の授業のチャイムがなる。

 ざわついた空気が一気に静かになり、代わりに椅子を引く音が教室内に鳴り響いて俺の言葉を掻き消した。


「じゃあよろしくー」

「ちょ、待て……」


 しかし俺の声は相手に全く届かず、そのまま次の授業が始まった。

 これはもしかしなくても彼女のお願いを引き受けてしまったらしかった。


◆◆◆


 昼休み、俺は自分の席で妹お手製の弁当を広げようとしていた。

 しかしそれはある人物によって妨げられた。


「ちょっと聞きたいことがあるのだけれど」


 その人物とは椎名えり。

 彼女が教室で俺のところに来るなど珍しいこともあったものだが何か用事があるのだろう。


「分かった。屋上でいいか?」

「ええ、そこで問題ないわ」


 いちいち彼女と話をするために屋上へ行くのは少々面倒くさいがこれは仕方ないこと。

 教室内ではまだ俺に対する蔑みの視線が少なからずあるし、それと単純に彼女は目立つのだ。

 彼女は中身があれでも一応有名な美少女。

 俺と一緒にいるところなんて見られたら彼女の名に傷がつく。

 それを気にする俺にとって話をする場所といったら屋上、それ以外に人がいない最高の穴場スポットはなかった。

 とにかくそんなこんなで俺と椎名えりは注目されるのを避けるため別々に屋上へと向かった。


 そして屋上、俺がたどり着くとそこには既に椎名えりがいた。

 初め彼女は屋上を吹き抜ける風に髪を押さえ校庭を見下ろしていたが俺が扉を開けると、その音で俺の方へと向き直った。


「それで早速本題なのだけれど」


 俺が彼女に近づくや否や彼女の口はすぐに開かれる。

 彼女からどこか焦りのような感情が伝わってきているあたり、彼女にとってかなり気になることのようだと推察出来るが話を聞かなければ何も分からない。

 俺は彼女に頷いて続きを促した。


「どういう関係なの?」


 それからすぐに彼女から一言だけ発せられるが全く意味が分からない。

 一体何のことを言っているのだろうか。


 俺が困った表情をしていたからか彼女は微妙に眉を下げて不満そうな表情をしながらもう一度、今度は俺でも理解出来る言葉を発した。


「だからあの転校生とはどういう関係なのよ」


 転校生というとアイツのことだろう。


 パッと思い浮かぶのはついこの間転校してきた少女、向島葵。

 彼女との関係と言われてもただちょっと話して、ちょっと厄介事を押し付けられたくらいである。

 つまり関係も何もないのだが椎名えりは若干不機嫌そうな様子で俺を見ていた。

 まるで何かを咎めるような無表情である。

 何故不機嫌なのかは分からないがとりあえず彼女を宥めなければマズイ、そう思った俺はすかさず彼女に自分の無実を訴えた。


「俺は何もしてない。あっちから勝手にやって来て、勝手に面倒事を押し付けたんだ」

「面倒事って?」

「もしかして勉強を教えてもらうことかな?」


 彼女がそう言葉を発した時だろうか、どこからか彼女の声に反応する声が聞こえた。

 この声はもちろん俺ではない。


 声の正体を探すため辺りを見渡すと屋上に唯一ひとつだけある扉から今まさに入って来ようとしている人影が見えた。

 扉から覗く赤色のメッシュが入った黒髪で大体誰であるか見当はつく。


「ごめんね、別に二人が何してようと構わないんだけどパンの人が困ってたでしょ?」


 そう言って頭に手をやりながら扉から出てきたのは俺に面倒事を押し付けた張本人、向島葵だった。

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