「的を得る」は本当に誤用ではないのか?三省堂国語辞典・飯間浩明氏への反論

うるふ

知られざる国語辞典の編纂理念の真実「みんなが使う言葉ならなんとなく載せてしまえ」-なぜ「辞書は正しいは誤り」なのか-

 どれだけ人生、自分自身、我々を取り巻く世界について理解していないかに気づいた時に、我々一人一人に英知が宿る。

 -ソクラテス-




 結論から言うと「辞書は正しい」は誤りです。

 辞書では言葉の元来の正誤を判断する材料として成立しませんし、現在での正誤を定義するためのものでもなく、辞書編集者はそれを望んでいません。


 多くの人が誤解していますが、辞書は「正しい言葉・意味・文字・読みを載せる」本ではありません。

 辞書というものは「時代とともに変化していく世間の言葉と意味と文字と読みの後追いをするもの」です。


 辞書はどのように編集されているのかというと、下記の条件・理念によって作られています。

 1.現在の日本国内で多用されている。

 2.意味が伝わるほど定着している。

 3.元々日本語であるか外国語であるかは無視し、本国である外国での用例や用法も無視する。

 4.編集者の語感によって意味等を決める。

 5.元来の正誤は無視する。

 6.かといって現在では正しいと定義するわけでもない。


 どの言葉を載せるかの基準ですが、たとえばあまり流行に乗らない広辞苑だと「なんとなく」です。

 辞書とは世間の言葉の手本となる「鑑」でも、世間の言葉をそのまま映す「鏡」でもなく、自分がその時見聞きしたものに対して思ったことを書く「日記」です。


 四字熟語辞典も同様です。

 日本における四字熟語の読み方は、過去の慣例・用例によって定められる側面があり、中国発祥の言葉の「不失正鵠」を「正鵠を失わず」と読むと記載する理由は「言葉の本国での用例は無視して、日本で用例があったから載せる」です。

 あくまで日本で使われる言葉を解説し、日本に輸入された時点で誤っている外国語に対しては無力です。


 さらに辞書は「文字そのものの意味」を解説していません。

 漢字とは絵からはじまったものです。

 漢字そのものが何を表すかは成り立ちから解読できます。

 たとえば「失」は「手」と「乙」が入っていて、失という漢字は「手から物がすべる」を表現しています。

「佚」や「軼」などの失が入った字は「失=それる」から成り立っています。


 また同じ出版社であっても編集部が別々なのですから、当然同じ出版社といえど同じ見解ということはありません。


 国語辞典の編纂理念は辞書の前書きで少しだけ説明されています。


 辞書の編集という仕事には、完了ということがない。その時その時の一応の仕上げがあるだけである。

 言葉というものがつねに変化・発展の歩みを続けてやむのないものであるために、それをとらえて記録する仕事は、いつになっても、これで完了したということにはなり得ないのである。

(新選国語辞典 第七版)


 上記の文章から辞書の編纂理念が解らない訳がないでしょう。




 民衆は、よく「気に入った」とか、「気にくわない」とかいう。

 まるで、彼らの気に入ることよりも重要なものがないかのように。

 -クララ・シューマン-

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