第十一節 流離の男

 思えば、わたしが他人に対して少なからず嫉妬していたのは、彼らがわたしと同じ人間であり、当然嫉みも妬みも持っていながら、それを表面化せずに穏やかに過ごしていたからかもしれない。わたしはそのような器用な生き方が、それらを持っているわたしへの当てつけのような気がしていたのだ。先生はしかし、初めからわたしがそういう人間であると見抜かれたうえで、わたしを弟子にして下さっていたのだ。

 たしかに、聖書には先生が親しい者に銀貨三十枚で裏切られるとは書いてあった。勿論こじつけとでも言えるのだが、わたしの裏切りは、先生に関する預言の成就ではなかった。先生の十字架は、人類がどうとか、未来がどうとか、そんな大それたものではなく、わたし個人の為の、ひいてはあの老人や取税人や、その弟子たちの、弟子たちの、弟子たちに至るまで、一人一人の為のものだったのだ。それ以上でもそれ以下でもない。先生の十字架は、人類全体の為ではなく、固有名詞を持ったわたしや、弟子たちや、弟子の弟子たちの為の者で、その血の齎す|贖≪あがな≫いに、誰ひとり除かれることはなかったのだ。恐らく、偽善者や律法学者もそうだったし、祭司や総督もそうだった。

 わたしは偽善者となんの変りもなかった。先生に指摘されたことを受け入れられず、わたしは先生の弟子であることを鼻にかけていた。わたしは先生がそれについて、本当はどう言われたかったのか考えもせず、そんな自分を嫌ってばかりいた。先生も事実嫌っておられた。

 先生は、偽善や嘘を憎んでおられたが、偽善者や律法学者は憎んでおられなかった。寧ろ愛してくださっていた。だからわたしは弟子になることが出来た。先生があの時、声をかけてくださらなければ、わたしはあの民衆たちと一緒に先生を罵っていただろう。

 わたしは彼らと何も変わらない。あのように人を罵りもするし、|唾≪つばき≫もかける。それをわたしは認めなかった。先生はそれを悲しんでおられ、わたしに引き渡させることによって、わたしに認めさせようとし、先生の死で持って、それすらも、狂うほどにわたしを愛しているのだということを示して下さったのだ。


 その答えにたどり着いてからは、わたしは先生が殺されたというのに酷く穏やかだった。否、もしかしたら何も考えられなかったのかもしれない。

 ふと、わたしは先生の言葉を思い出し、安息日だというのに先生の葬られた墓へ向かった。総督の番兵が、墓を封印している。ははん、と、大司教達が何を言ったかが手に取るようにわかった。わたしは遠巻きに番兵を眺めていようかと思ったが、つまらなそうでそこを離れた。わたしはまた、流離った。

 わたしは、荒野にいた。

 そういえば、先生は洗礼をあの川で授けられてから四十日の間、ここで断食をなさったらしい。その間、三度悪魔の囁きを聞いたとか何とか、言っていたような。

 わたしには風の音しか聞こえない。カラシダネも無花果もない荒野に、悪魔の声と聞き紛うはずのない、風の音が響いている。わたしはそこをまた、歩いた。

 何も聞こえない。何も聞けない。

 先生の声も聞こえない。憑き物が落ちたかのようなわたしの心は軽すぎて、高波にさらわれてしまいそうだった。早く錨を下ろさなければ。それなのに、わたしには錨を下ろすための手がないし、方法さえ知らない。だから先生に頼まなくてはならないのに、先生は沈黙を守り通しておられる。

「先生、何故黙っておられるのですか。|御言葉≪みことば≫を下さい。」

 何も聞こえない。何も聞けない。誰も答えない。誰も答えられない。

 荒野で独り、わたしが先生を呼んで彷徨う姿は、はたから見れば悪魔憑きが徘徊しているように見えたかもしれない。わたしは先生という確立された個人を呼んでいるのだが、そんなことは誰も理解できないだろう。先生は今や、洞窟の奥、墓の中なのだから。

 ただ、わたしはたった一つだけ、まだ分からないことがあった。

 それはあの時、わたしにぶどう酒につけたパンを渡す直前に、わたしを含める弟子達に言った言葉。

『しかし、人の子を裏切るような人間は呪われます。そういう人は生まれなかった方がよかったのです』

 あの眼差しをする人が、あのような事を言った理由が、どうしても知りたかった。


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