第八節 晩餐の男

 エルサレムの邸宅で、わたしは先生と一緒に気の重い晩餐に参加していた。先生は結局、わたしの言いたいことを察することはできても、言われたいことを察することは出来なかったのだ。

 本当ならば、それでも信じていたかった。愚かにも信じて、信じて、たとえ最期に先生に裏切られようとも、信じていたかった。老人のように直情径行な愚直さがあったら、どんなにか救われただろうか。しかしわたしは、あそこまで馬鹿にはなれていなかったし、出来てもいなかった。

 先生がパンを裂き、ぶどう酒を分けて祝福する。わたしの席にまでそれが回ってきて、わたしがそれを取ろうとした時、先生が言った。

「―――貴方方のうちの一人で、私と一緒に食事をしている者が、私を裏切ります。」

 先生が誰の事を言いたいのか、すぐに分かった。

 しかし、他の十一人の弟子は、驚嘆し、悲しんで代わる代わる先生に問い詰めた。そして、先生は続けられた。

「確かに、人の子は自分について書いてある通りに、去っていきます。しかし、人の子を裏切るような人間は呪われます。そういう人は生まれなかった方がよかったのです。」

「先生! それは一体誰の事ですか!」

 ぶった斬ってやります、と、老人が意気込む。

「私がこのパン切れを渡す者がそうです。」

 目の前が真っ暗になった。まだ、わたしのことであると決まったわけではないのに、先生の合わさらない眼差しは、確かにわたしを見ていた。わたしはこの暗闇を祓おうと、先生に聞いた。

「先生、まさかわたしのことではないでしょう?」

 声が震えた。その時、先生は手に持っていたパンをぶどう酒に浸し、赤くなったそれをわたしに差し出した。

 そして、言われた。

「貴方がしようとしていることを、今すぐにしなさい。」

 周りの弟子たちは、先生が『裏切る』と言ったにも関わらず、先生がわたしに何を求めているのか分からなかったようで、きょとんとしている。祭りで入用のものを買えとでも言いたいのだと思ったのだろうか。

 嗚呼本当に、そんなことならどれだけ好かったろう! わたしはお前達よりも悩みも多くて、欠点も多くて、だからこそ一番に救われたかったというのに、わたしは誰よりも早くその奇跡から離れなければならないのだ!

 わたしは、口元がフッと緩んだ。|雁字搦≪がんじがら≫めになっていた縄が緩められたように、フワッと身体が軽くなった。わたしは力強く椅子から立ち上がり、家を飛び出した。

 わたしの役目は、この御意志を成就させることなのだ、と悟った。あの偽善者どもに声をかけられたことがあり、またそれ以前から彼等を知っている、わたしにしか出来ない役目。わたしにしか出来ない奉仕。それなのに、次から次へと涙が流れて止まらない。

 嗚呼、それはきっと、先生がわたしを裏切ったからだ。わたしが先生を裏切ったのではない。先生がわたしを裏切ったのだ。先生がわたしを、主要な弟子十二人に選んだのは、決してわたしが先生の御心に留まったからでなく、ましてわたしを救おうとして下さったからではない。ご自分が死ぬために、古の預言を成就させ、より美しく惨殺されるために、わたしを選んだのだ。

 何を嘆くことがあるだろう。何を悲しむことがあるだろう。先生についての預言を成就させるこの大役。仰せつかって、なんと名誉なことだろうか。わたしはずっと、あの老人や漁師や元取税人のように、自分にしかできない役目がしたかったのではないのか。

 否や否や、嗚呼そうではない。わたしはこんなことでなくて良かった。わたしは完璧にさえなれればよかったのだ。したいと思う善を行い、したくないと思う悪を行わない人間になれさえすれば。

神の御心に従える人間になれさえすれば、何も望まなかったのだ。先生にはそれが出来るはずだった。

 わたしが先生に師事して得た物は何だったろうか。

 裏切り者の烙印か、永遠の地獄の責め苦か、聖者の列からの脱落か、それとも、己の惨めさを噛み締めただけだったのか。それでもわたしの心には、置き去りになった先生への愛がまだ残っている。花が光を求めるように、当然な向きで、当然な力で、先生への愛がまだ残っている。

 それでもわたしの足は、あの偽善者や熱心党のいる所へと向かう。これは神の力か、悪魔の導きか、そんなことはどうでもよかった。

 わたしの先生が、わたしのすべきことをしろと言われた。そうしてわたしの足は、今まさに最愛の師を殺そうと意気込む者たちのもとへ向かっている。わたしの中に、先生への憎悪がなかったわけではないから、それはむしろ強制的なものではなく、私個人の決定によるもの。

 わたしは、憎んでいたのだ。妬んでいたのだ。最愛の先生を。

 完璧なあの人が、神にいつでもすべてを奉げられるあの人が、羨ましくて、羨ましくて、たまらなかったのだ。あの人の周りで、あの人と笑っている弟子も嫌いだった。どうしてあの輪の中に、わたしは入れなかったのだろう。わたしはあの中に入りたかったのに。あの輪の中に入れさえしたら、こんなことにはならなかったのだろうか。

「きみ! こんな夜に、一体どうしたんだ。」

 熱心党の男は、しらじらしく言った。わたしは息を切らせ、涙に喉を詰まらせながらも、言った。

「わたしの先生を引き渡したら、いくらくれると言ったか。」

 男たちが顔を見合わせたのが分かった。

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