第六節 偽善の男

 わたしたちの祖先がエジプトで奴隷として捕らえられていたころ、神は羊飼いを遣わし、わたしたちを助けて下さった。手始めに、神はわたしたちを苦しめていたエジプト人の家の、長男を殺すと言われた。その時、ユダヤ人の家に間違って入ってしまわないように、傷のない雄の羊を屠り、その血を戸口に塗るように命じられた。祖先たちがその様にすると、神の力はその家を過ぎ越し、エジプト人だけに災いを運んだ。祖先はこれを喜び、記念とした。これが過越祭である。このときは、罪人を一人、無条件で釈放してやる行事があった。それくらい、わたしたちにとってこの祭りは意味のあるものだった。

 その祭りが近付いているとき、わたしたちはベタニヤにいた。エルサレムを下りる途中だった。

 わたしは、このベタニヤを最初―――エルサレムに上るときから思っていたことだが、とても貧しい所だと思っていた。金を与えると血が流れそうだったので、わたしはあまりにも惨めに、犬に顔をなめられている男に、パンを買ってやった。勿論、他の者には内緒で、である。

 先生は、神をあがめる者は死んでも生きると言われた。つまり、死後の復活がある、というのだ。わたしもこの国に生まれただけに、それを否定はしない。しかし、骸骨に濡れた布を被せたような乞食がごろごろと転がっているのに、パンの一切れも先生は与えようとしない。先生の教えが彼らの心の支えになっているだろうことは重々承知しているが、それでもわたしは、先生の心を救う教えよりも、飢えを満たしてやることが先だと思っていたから、わたしはわたしの善を行っていた。偽善者とならないよう、わたしは隠れてそれらを行っていた。

 けれども、いつのころからか、偽善者になりたくないという怯えは、わたしの中で形を変えて膨らんでいく。わたしはもはや、この施しが愛故なのか、偽善故なのか、それとも自己満足故なのか、分からなくなっていたのだ。しかし、先生に教えを請いたいとは思っても、請おうとはしなかった。わたしは先生の教えに疑問を抱いたこともあったが、わたしは先生その者を疑ったことはないし、先生をとても愛していたから、そして愛されたいと思っていたから、あの老人や漁師や、元取税人やらよりもとは言わないから、彼らと同じくらい愛してほしいと思っていたから、言うに言えなかったのだ。

 そしてわたしは、先生がわたしをきっと救ってくれると、この心の重荷を取り除いて下さるとわかっていたから、言えなかった。

 帳面をごまかしながら自分の善を行うことには、何の咎めも感じなかった。ただ、時折先生の言葉を質問したり、何気ない世間話で盛り上がっていたりするときに、ふと気付いた先生の視線などが、恐ろしく心に突き刺さる。そして泣きたいような、喚きたいような気持に駆られた。先生の視線や指先の動き、衣の靡(なび)き、全てがわたしをかき乱し、わたしを狂わしていく。

 恋が苦しい。羨望が苦しい。あんなにも美しかった先生の踊り子は、今や移り気し、しゃらんしゃららと貝殻でわたしを嘲笑う。ああどうして、そんな顔をなさるのですか、わたしが何か粗相をしましたか?


 わたしは今も昔も、貴方一人をお慕いしているだけなのに!


 否や違うだろう。もう気づくべきだ。否、ずっと前から気付いていたはずなのだ。先生に師事した時から。わたしは、同じ弟子の誰でも、弟子の罪人女でも、誰でもない先生に、ずっと嫉妬していたのだ。わたしは恋などしていなかったのだ。わたしは先生を羨み、先生になりたいと望み、そしてそのようにならないことが悲しかった。悔しかった。求めても与えられない決定的な違い。それが憎らしかった。

 わたしとそう変わらぬ年で、わたしよりも貧相な家庭に生まれながら、わたしよりも裕福に育ち、わたしよりも優れた人格である先生に憧れ、あのようになりたいと思いながら、あのような人などいなくて良いのにと思っていたのだ。

 そう、ずっと気が付いていた。わたしの善が、心を苛んだのは、わたしの善が先生よりも優れていない、その場しのぎの施しだったからだ。わたしは、先生が疎ましかったのだ。だって先生が、わたしよりも優れた施しをする限り、わたしは何処まで行っても慈悲深い男にはなれないのだから。先生の教えに頼り、祈ってみても、この気持ちは強くなるばかりだった。そして、わたしを苦しめる先生への尊敬が薄れていくことに恐怖した。わたしが苦しんでいるのも、すべて先生は分かっていらっしゃるだろうに、放置して救ってくれない、この素晴らしい方が憎らしく感じつつあった。わたしの言葉やパンでは、先生のように人は救えない。当り前のことと悟りながらも、悔しかった。飢えで苦しみ死にゆく人に、施せるだけの金が、助けるだけの金がありながら、神の教えを話す先生が理解できないことが、苛立ちから謗りに変わっていく。わたしの中で、先生は光り輝く偽善者になっていく。

 しかし、わたしは認めたくなかった。

 わたしは頭では分かっていた。施しをして、神から離れてその後を生きていくよりも、神に立ちかえらせた方が、その人の為になる。先生はおかしくなっているこの国を正そうとして下さっている。小憎たらしい律法学者たちを批判し、病を癒し、貧しさゆえに姦通を犯した女を許し、その心の広さと清さは、わたしたち十二弟子が一番よく分かっている。

 分かっている。分かっているのだ。先生は間違ったことはしていない。

 それなのに、どうして先生は一番近くにいる十二弟子が一人のわたしを救ってくださらないのだろう。先生は村の全ての人々に気を配り、癒すことが出来るのに、どうしてわたしという一人の人間には省みてくださらないのだろう。

 絶望感で、心が黒く染まる。救ってくださらない先生への失望。否、まだ時を待っているだけなのだという絶望的な希望。

 わたしは悪魔に心を惑わされているのだろうか。信じたいと思うのに、愛していたいと思うのに、どうしてこうも、疑心や憎しみが湧いてくるのだろうか。自分の意志の弱さゆえか。そんなことは分かっていた。だから神に祈り、先生の教えも大真面目に聞いた。それなのに、自分の意志は強くなるばかりか弱くなるばかり。素直にハイハイと、あの老人のように聞き入れられず、わたしは心の中で反論をしていた。

 あの、先生に純粋に尽くしていたわたしはどこへ行ってしまったのだろう。もう彼は戻ってこないのだろうか。お姿を見るだけでいい、その為なら三百デナリオンの香油を無駄にしたって構わない。確かにわたしはそう思っていたはずなのに。


 そんなことを考えながら、わたしたちはベタニヤのある皮膚病の男の家で、食事をとる事になった。

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