第一章(3)

 自分はいったい何者になるのだろう。

 夏休みに入るまでの期間、栄太はそれについて考えていたことしか記憶にない。心が砕かれた。なまじっか、走ることに興味を持ったせいで。

 家に帰っても、受験勉強などせずに、ぼんやりとテレビを見るばかりだった。スポーツで栄光に輝く選手たちを見て、小さい時から英才教育を受けている割合が高いことに気づいて、自分の田舎育ちの環境を呪った。それとも、探せばそこら中に、上達の機会はあったのだろうか。自分が単に行動を起こさなかったから、このような結果に終わってしまったのかもしれない。

 そうして自分は、一生自分の能力のなさをほかの人のせいにしながら、卑屈に過ごすのだろうか。そう言う自分は、何者にもなれずに終わっていくのではないか。

 勉強。それが努力をする誰にでも開かれた成功への道なのだと、塾の講師が言っていた。栄太にはよくわからなかった。勉強をどれだけしたって、本当にすごい努力家で、元の頭がいい人間にかないっこない。

この頃の子供は皆そうであろうが、彼が塾に通わせてもらっているという事実、それから両親がいて、しっかりとした職に就き、安定した生活ができているという環境の良さなどには思い至りもしない。学校でも塾でもそれを、教えてくれることはない。

「大会、残念だったな」

 いつしかなんとなく話をする程度の中になっていた石井が、慰めの言葉をかけてくれた。 彼はいい結果を残せたからそんなことを言えるのだと思った。彼はそれに、成績もよく、隣の市の有名な進学校を志望していたな、と栄太は恨むともなく考えた。

「ん、ありがとう」

 栄太は曖昧に礼を言った。彼がずっと、優に嫌がられながらも連絡を取り続けていると聞いていたので、やや尖った声色になった。

「長谷くんは北高に行くんだろ? 割と勉強も大変らしいぞ」

「何とかなるさ」

 何とかできる自信はなかったし、そこに確実に受かるとも言えなかった。本当は、もっと危機感を覚えるべきなのだと、分かっている。自分の本心は確かに見えているが、ガラス越しにあって、手を触れることができないような感じがした。


 栄太の通う中学校は同じ市の中学校との交流がかなり少ない。たまに市内中学の学力を比較されたり、部活動同士での交流試合などが行われたりする程度で、他の市内三校とは一種隔絶の感がある。

 ほとんどの生徒が入っていた部活動も終わり、受験勉強にいそしむことができない人間は仲間内でぶらぶらとつるむ。栄太は抜け殻のように、よろよろとたまに散歩に行く程度だった。夏休みの課題にすら手を付けられない。

「私栄太が心配だから、北高受ける」

 夏休み中ごろの登校日、バスの中で二人きりになってから、優はしなびている栄太に言った。

「成績、いいんなら、もっとランク上の高校狙えるんじゃないの」

クラスが離れているので詳しくわからなかったが、彼女は成績優秀で鳴らしていたはずだった。

「別にいいよ、どこへ行ったって、結局頑張るのは自分だから。どんなに高いレベルのところにいても、自分が頑張らなきゃ仕方ないじゃん」

「それはそうだけど……」

 栄太は半ば本能的に、そういう口ごたえをするような返しをした。優は、

「だけど?」

「いや、そうだと思う」

 言い切らされてから、自分の意見はある程度まっとうではないかと考え直した。けれどもう無粋なので、あえて言いなおす気力もなかった。優は、こうして人に簡単に意見を曲げられるような自分には興味がないのだろうと思った。

「大丈夫だよ、私が栄太のそばにいてあげるから」

 そのやわらかな言葉は、彼女が幼馴染より親密な関係を築こうとはしていないことを思い知っている栄太にはさして響かなかった。栄太が陸上記録会へ応援に来るよう誘うたびに、それを断らない優に少し期待をしてしまっている。それも、ただの幼馴染としての好意のにすぎないのだろうと思った。

「あのね、私これから川西中の人たちに、遊びに誘われてるんだよね。カラオケ屋さん」

 川西中と聞いて、まず石井の顔が思い浮かんだ。

「よかったな、行って来れば」

「実は石井君っていう人が、面倒くさくて。うまく断りたいんだけど」

 ある程度、予測していたことだ。自分の関わることではないと思った。

「適当に断ればいいだろ。当日急に熱が出たとかさ」

「友達も一緒なんだって。私だけドタキャンはできないよ。それになんか、石井君、多分その子のこと狙ってる感じがするから」

「お人よしだな――どうせ行くんなら、なんで俺に話したんだよ。勝手に行けばいいだろ」

「ちょっと――不安なんだもん」

 優はそれから彼に話をしなかった。すねたように心なしか頬を膨らませ、窓外を眺めている。他の中学校の生徒と交流ができるのであればいいんじゃないか、と呑気に考えようとした。しかし、そわそわとして心が落ち着かなかった。かわいらしく張った頬を見ながら、栄太は石井の、優に好意を抱いているような普段の素振りを思い出していた。

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