恋人が学校に来ない

綾上すみ

序章(前)

 幼稚園の送迎バスにはじめて乗ったときのことを、長谷栄太(はせえいた)は鮮明に覚えている。

 五歳になった年のことだ。

 送り迎え担当の先生に手を引かれて車内に入っていくのは、まるで肉食獣に食べられるみたいだった。大きなエンジンの回転で車がごろごろ揺れる。この大きな動物は、獲物を見つけて喉を鳴らしている……。

 ステップを二つ踏んだところで栄太は泣き出してしまい、バスに添乗していた先生がやってきて背中をゆすった。この人は獣の仲間で、おなかの中に食べ物を入れるのを、手伝っているのだ。バスの中に泣き声が一段と大きく響き、先生が年取った運転手と顔を見合わせて苦笑いした。

 送り迎えの順番の都合で、車内に園児は一人しかいなかった。バスの一番後ろの席に座っていた女の子を、知っているけれどまるで知らないような気がした。実際、栄太は柳井優(やないゆう)に何度も会っていたのだが、久しぶりに見る彼女の姿や雰囲気が、彼の目には一段とませて、しっかりしているように映った。涙を新品の制服でぬぐいながら、優ちゃんはなんで怖くないんだろう、と思った。同じ年中組で今日入園初日だと聞いていたが、あれは嘘だったのかも。

「ママに、手を振ってあげたら?」

 優は窓から車の外を見ている。同じようにそちらを見ると、母親はからかうような笑みを浮かべながら手を振っていた。先生も運転手も笑顔だ。みんなして、なんで笑っているんだろう。元気よく手を振り返す気力もなく、母親にはちょっと手を上げただけで、栄太はすぐに優のそばまで駆けつけた。

 安心して、ほっと一息ついた。すこし落ち着いて優の隣の席に腰を下ろした栄太は、ようやく幼稚園に入ったのだと実感した。バスが動き出す。

 そこで、優に対してなんだか恥ずかしい気持ちがこみ上げてきた。身長は大して変わらないはずなのに、そのからだが大きく見えた。

「大丈夫?」

 心配と息切れのせいで胸が詰まるような感覚、それから呆れたような優の言葉がセットになって、栄太の胸に響いた。


 栄太にはあまり友達ができなかった。外で遊ぶ時間は優のそばにいて、たまに手を引かれて遊びに駆り出された。

 入園して二ヶ月たったころ、優はほかの子の手を握ることが増えていた。彼女は遊びを率先して考える、頭のいい園児だった。ほいほいと考えつく遊びがどれも面白く、本人も明るい性格だったので、仲間は自然と集まった。

 室内で過ごすあいだも、優はたくさんの友達に囲まれていた。いつしか栄太はそれを教室の隅で、ひとり羨ましげに見るようになった。

 仲間と楽しく笑い遊ぶ優のことが、面白くなかった。泣きわめいて気をひきたい気持ちだったが、そうすると、あとでみっともないからやめなよ、と言われてしまう。優はまわりの子よりもうんと聞き分けよく成長して、気配りもできる。

 なんだか先生の子分のようにも思えた。

 かまってもらえなくて寂しい気持ちを紛らわすように、図鑑を読んでいた。栄太は動物が好きで、とくにサバンナのがっしりした肉食獣を見て喜んだ。強く地面を蹴って進む生き物の背中に乗って、なだらかに続く草原を、どこまでも走っていきたい。

 そして手元にはクレヨンがあった。想像を膨らませて動物の絵を描くのが、栄太は好きになった。絵や工作の時間はもちろん、雨が降って外で遊べない日にも、彼は黙々と画用紙に向き合っていた。

 クレヨンの線をじっと眺めていると、動物に乗りたい、という思いがはっきりしていき、実際はそれになりたいのだと気づいた。けれど、簡単にそうはなれないのもわかっていた。たまに優に誘われて鬼ごっこをして逃げるとき、足が遅くてすぐに追いつかれてしまうから。むしろ草を食べて暮らす動物だ、と言うほうが似合う気がした――バスに食べられるような想像をしてしまうのだから。

 栄太の速く走りたい思いは、五歳の子には早すぎる、諦めのこもったあこがれへと移り変わろうとしていた。すぐに絵に対する興味が失せ、ただ図鑑を見ることだけを続けていった。

 幼稚園で、大きくなったらなにになりたいか? というのを発表する時間が設けられた。シマウマになりたい、と栄太は小さな声で話した。

 自分たちの上に立つ肉食獣にふさわしいのは、優のような子だろうと思っていた。

 けれどそのとき優がなんと言ったか。戦隊もののヒーローや、お花屋さんになりたいという子たちと違い、ひどく現実的な夢だったような気もするが、確かなことを栄太は覚えていない。

 動物の絵が優の目に入るまでに、そう時間はかからなかった。しかしそのときもう栄太はそんな絵を描いたことすら忘れてしまっていた。

 休みの日で、家族ぐるみの付き合いに駆り出された。ファミレスで互いの両親が久しぶりに顔を合わせ、談笑していた。話が幼稚園のことに至ると、母親が、いつになく大きいかばんから、栄太の落書き帳を取り出した。

 栄太には六歳離れた兄がいて、名前を涼平(りょうへい)といった。習い事で絵画教室に通っていて、栄太の絵にセンスをはじめて見出したのは彼だった。ファミレスでも、親たちと涼平が栄太の才能にうなずき合っていた。それが栄太は嬉しかった。にっこりと誇らしげに、彼が本当に認めてもらいたい相手である優のほうを向いた。

 面白くなさそうな顔をしていた。栄太の母親に言って、彼女はそれを手に取ると、

「これ、もらっていい?」

 そう言った。優も表情に出さないものの、絵を評価してくれているのだと感じた栄太は簡単にうなずいた。

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