第54話 ミルクラン

 数十分後、小熊は病院で点滴を受けながら、面倒な書類への記入を済ませていた。

 小熊を突然昏倒させた急病はイレウスとかいう物で、要するに腸の活動不全らしい。

 原因は内科手術の合併症が最も多いが、それだけでなく心労や食生活の偏り、時に何一つ身体的な落ち度の無いまま突然発症し、腸が蠕動と栄養吸収を停止させる。


 小熊の症状を見た春目は、かつて自分から親友を奪った虫垂の炎症破裂による腹膜炎と勘違いし、小熊をカブの後ろに乗せて病院まで運んで来たが、治療はそれほど仰々しい物にならず、欠乏状態になった水分と栄養分を輸液で補給して、整腸剤を飲んでしばらく安静にしていれば入院も不要らしい。

 医者は付け加えるように言った。

「あと五分遅れていたら危なかったですね」

 結局、春目には命の恩と言う物が出来てしまった。


 小熊は春目の乗るカブの後部にラッシュベルトで縛り付けられ、自宅と救急病院の間を横たわる山を越えてきた記憶を思い返し、軽く身震いする。

 かつて配達の仕事でスーパーカブに乗っていたという春目。最低限の乗車スキルくらい備えているんだろうと思った小熊は、差し当って自分の命が助かる選択肢が他に無い様子なので任せる事にした。

 春目がごく自然に、ニュートラルから一速に入れたシフトペダルを踏みっぱなしにして、半クラ状態のままスロットルを開けて回転数を上げた後、爪先を離してクラッチを繋ぐ、カブで重荷を載せたまま急発進する方法を使っているところを見た小熊は、これなら病院まで乗せて貰うくらい大丈夫だろうと判断した。

 カブで林道の悪路を走る事に慣れた小熊にも可能なテクニックだが、春目の技術云々よりも、高額修理を抑制するため配達業では禁じられた方法を躊躇なく使う、臨機応変の判断は信頼に値すると思った。

 発進した春目が、サイドスタンドを上げ忘れるまでは、そう思っていた。

 

 小熊が自分の判断を後悔し、やっぱりペイジのジムニーに乗せて貰おうとした瞬間、春目は車体を軽く傾ける。

 まずサイドスタンドの先端に取り付けられたゴムが地面に接触し、その後、鉄のスタンドがアスファルトを擦って火花を上げた後、サイドスタンドは明らかに部品寿命を削る音と共に走行中の定位置に収まる。

 そこから先の、二人乗りツーリングというには切迫しすぎた時間は、小熊にとって驚嘆と畏怖の入り混じった物だった。


 他車も走る一般道を、さほど飛ばす事も無く走っていた春目は、突然カブを道路外に飛び出させ、歩道と公園を突っ切って一本隣の道路に入る。交差点の信号に捕まった時は、一度歩道に乗り上げたり、手前の路地を曲がって赤信号をバイパスする。明らかに違法で、小熊なら決してやらないマナー違反だが、早朝の配達カブがそうしているのをよく見かける。

 ミルクランという言葉がある。地元の牛乳屋だけが知っている、配達のバイクや自転車が通る道。通っていい道ではなく、通ることが物理的に可能な地面と空間によって構成される移動線。それらは街を走り回る配達業の人間が誰しも口伝され、あるいは自分で拓いて持っている、形の無い財産。

 かつてカブで、今は山菜取りの自転車で多摩の里山を走り回っている春目は、いかなる地図やナビアプリより正確で実用的な、自分のミルクランを持っていた。


 その後、カブの左右を車両乗り入れ禁止のポールにぶつけながら通過した春目は、この辺でよく見かける自然遊歩道に入り、ハイキングコースの階段を駆けあがって山を越える。

 企業グラウンドのフェンスと崖のような斜面の間にある、ほんの数センチの道とも言えぬような走路を駆け抜けた時は、カブを斜面側、体をグラウンド側に傾け、鉄条網に肩を擦りつけながら通過する。

 小熊は春目の後ろで死を覚悟したが、春目は広告会社のバイトをしていた頃、宣伝チラシを満載したカブでいつもやっていた事といった感じで、後部に縛り付けられた小熊を錘にするようにバランスを取りながら走っていた。


 小熊は高校二年の時にカブを買ってから二年弱、自分がそれなりにカブを扱えるようになったと思っていたが、小熊が高校に通いながら、同じカブ仲間と共にバイクで出来る色々な楽しい事を追求していた頃、春目は仕事でカブに乗り、人員不足のしわよせで課せられた過重なノルマを消化するため、雨の日も雪の日もカブを走らせていた。

 自宅を出てから五分足らずで病院の救急入り口に着いた頃、小熊は気づいた、自分と春目では、色々な意味で経験の蓄積が違う。もしもこの病院を生きて出る事が出来たなら、教えを乞わなくてはならない事が数多くあるんだろう。

 そのためなら、修復したカブの一台くらいくれてやる事など惜しくもない。諸費用をこちらで払っても、春目がただ走っているだけの姿から得られるプロの技術が有する価値に比べればお釣りが来る。


 ワンタッチで外せるラッシュベルトを解かれ、病院のストレッチャーに乗せられた小熊は、また意識が遠くなる。暗転していく視界に、春目が今まで自らの手足のごとく乗っていたカブから降り、生垣に倒れたカブの横に蹲って震えるのが見えた。

 春目がカブに乗り続けた時間は、決して幸せな物ではない。レーサーや二輪冒険家と違い、限界まですり減らし潰れたら取り換える使い捨て労働者の一人として、毎日カブに乗ることを強いられていた。そのため親友を失ったという春目の心に負った傷は、誰かが安易に触れていいものではない。

 春目に命を助けられた自分に出来るのは、その痛みを和らげる事くらい。

 そのためにどうすればいいか、今の小熊にはわからなかった。

 

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