第50話 キーボード

 春目が去った後の玄関前で、小熊はカブをコンテナガレージに戻した。

 付き合いの浅い小熊の目から見ても、春目の暮らしがとても危うい物だという事は明らかだったが、自分がカブをあげようとした理由についてはよくわからなかった。

 ただ、自分の手で修復したカブが、ここで自分が現在乗っているカブ90に次ぐ二番目の存在ではなく、誰かの人生を変えるかけがえの無い存在になる様が見たかった。

 そう思って小熊は高校時代に散々走り尽し、趣味としてのメンテナンスでも充分楽しませて貰ったカブを譲渡しようとしたが、春目には拒まれた。


 小熊は自分なりに理由を推測したが、思い当たる事は幾つかある。カブに轢かれたのかもしれない。あるいは大事な人間を失ったのかもしれない。何かヒントがあるとすれば、春目は行動の端々に以前カブに乗った経験があることを窺わせる仕草を見せていた。カブに乗った事がある人間が、カブを嫌っているのはどういう理由と経緯から来る物なのか。小熊はコンテナガレージの中で自分のカブを撫でながら思案したが、幾ら考えても理の通った推論より妄想に近いような理由しか思い浮かばない。


 結局、小熊は一度しまったカブ50をもう一度コンテナガレージの外に出した。エンジンを始動させて、玄関から家に入ってヘルメットとグローブ、ライディングジャケットを取って来た。 

 結局のところ、自分には関係の無い人間の事情に首を突っ込む必要は無い。そんな事よりもせっかく組み上げたカブの試走でもしたほうがいい。

 ついでに春目の事情について、知っている人間を捕まえて聞いてみるのも悪くない。他人のために労を負う事など性に合わないが、ただ当ても無く徘徊するよりも、何かしら目的のある走りをする事は、いいテストライディングになるに違いない。

 それはもしかして、カブだけでなく自分自身の他者に対する情緒や、疑問を解明する能力を測るテストになるのかもしれない。


 エンジンをかけたカブに跨るまでは頭の中を交錯し、思考を濁らせていた複雑な感情が、走り出した途端に澄み渡ってくるのがわかる。バイクは考え事をする機会の多い乗り物で、考え事に囚われていると事故に直結する物でもある。自分はカブに乗っていると、物事の真髄が見えやすくなるのかもしれない。そう思った小熊は、自宅から南大沢駅へと繋がる緩い下り坂をカブで下り、大学の正門経由で節約研究会の部室へと向かった。


 外に漏れる灯りを見るまでもなく、部長の竹千代はプレハブ二階の部室に居た。

 合鍵を使って開錠し、教わった通り壁の傷に隠されたセキュリティスイッチを押してから引き戸を開けた小熊を見て、軽く頭を頷かせる。

 いつも通り黒留袖をワンピースドレスにリフォームした、和服と洋服の折衷のような服を着た竹千代は、畳敷きの部室で、分厚い一枚板の卓子に不似合いなノートPCのキーボードを叩いていた。

 竹千代の向かいに座った小熊は、前置き無しで言う。

「あなたに聞きたいことがあって来ました」


 PCのディスプレイに目を落としたままの竹千代は、指を動かす手を止める事なく返答する。

「なんなりと伺おう」

 この女の口から出てくるのは真実なのか。まるっきりの嘘をつくほど善悪の壊れた人間には見えないが、他者を自分の利益になる方向に動かすため事実に味付けをするくらいの真似はするだろう。もしそうだとしても、小熊の知りたい情報を得るためのドアは目の前に座る女の中にしか無い。

「春目のことについて」


 竹千代は何も言わない。小熊は自分がすでに竹千代にコントロールされているような感覚を味わったが、今となっては嫌悪より信頼のような物を感じる。欠陥があるとわかっていて乗る車やバイクのような物かもしれない。

「あのままでは春目は早暁どこかでぶっ壊れる。あんたはそれに対して何を考えているのかを知りたい」

 竹千代はPCを操作し続けている。その瞳は目の前のディスプレイより深い部分を見ているように思えた。

「私は彼女の保護者ではない。春目君が生きるため手を貸すことは惜しまないが、彼女の生き方を決める事は出来ない」


 小熊は今すぐPCを叩き落としたい気持ちに駆られつつ。竹千代に言った。

「春目はその生き方を誰かに教えて貰う機会が無かった。だから山を登って降りてゴミ集めをしている。その暮らしが限界に近付いていることはあんたにもわかるはずだ」

 竹千代はノートPCのキーを打つ指を止めた。もしかして平静を装うのに、PC作業は最も向かないという事に気づいているのかもしれない。感情に生まれたさざ波は、キーを叩く音のリズムが雄弁に説明してしまう。

「小熊くんは春目君の生き方を否定するのかい?」

「他人がどう生きてどう死ぬかなんて私には関係ない。ただ、私は自分のカブが最良の条件で走る場を望んでいる。だからカブを嫌う気持ちがあるならば、それを解きほぐしたい」

 ようやく竹千代が顔を上げた。

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