第39話 同情


 気まぐれとも衝動ともいえる気持ちで全損カブの修復を始めた小熊は、コンテナ内の気温が上がっている事に気づく。

 まだ汗ばむほどではないが、今日は晴天らしい。まだコンテナの照明も不完全なままなので、外で作業しようと思った。

 カブのスタンドを上げてコンテナ内を移動させた。やはり歪んだホイールのせいで力を入れないと転がせない。変形した鉄製のリアフェンダーがタイヤに触れていやな音がする。

 コンテナ前の敷地までカブを持ってきた小熊は、作業を円滑に進めるためにまずこのホイールを何とかしようと思った。このカブを走らせるための修復の第一歩で、押して歩く事にさえ苦労するようでは話にならない。


 小熊は一度家に戻って作業用のツナギ服を着た。これでもうある程度の作業をしなくては収まりがつかなくなる。第一歩となるホイールの修復については、一応の当てがあった。

 今着いているホイールはもうスポークの張り調整くらいで歪みが取れるレベルではない。形だけ元通りにしても強度が著しく落ちている。そう思った小熊は、コンテナ内からうっすら錆の浮いたカブのホイールを取り出した。

 小熊がカブに乗るようになって間もない頃。パンク修理を自分でやろうと思った時に、出入りしていた中古バイク屋のシノさんがタイヤ交換の練習用としてくれた物。


 クロムメッキされた鉄のホイールはタダで貰った物だけに傷や汚れがついていて、タイヤやチューブはとっくに寿命を迎えていたが、歪みは無く、内部の錆びや腐食の原因になるような深い傷も免れていた。

 練習用という使途が終わり、場所を取るだけだったホイールは何度か断捨離の候補に挙がったが、そのたび後で何か役に立つ事もあるだろうと、捨てる事無く持ち続けていた。

 小熊は部屋を片付けられない人間ではないが、カブの部品に関しては判断がやや甘くなる。だから充分なスペースのあるコンテナガレージのある家を選んだ。まさかカブ一台丸ごと捨てられず溜め込む事になるとは予想出来なかったが。


 ホイールの交換はあっさり終わった。ホイールのメッキをピカールで磨き、チューブとリムバンドを買い置きの新品に交換した。タイヤとハブダンパーと呼ばれる衝撃吸収ゴムは、歪んだホイールに付いていた物の状態が良かったので外して取り付けた。ホイールベアリングは見た感じ問題無く使えそうなので、洗浄し新しいグリスを塗布する。

 歪んでタイヤに干渉していたリアフェンダーは取りあえず裏から蹴っ飛ばして直した。レンズの割れたテールランプが台座から外れ、見た目の損傷はもっとひどくなったが、どうせフレームは後で全ての部品を外して修正作業を行うか、状態のいい中古品に取り換える。


 ホイールを取り付け、小熊のカブは少なくとも押して歩く事が問題なく行える状態になった。作業が一段落した小熊は、外の水道で手を洗いながらこれからどうするか考えた。

 もう少しカブ周りの作業を続けるか、それともコンテナガレージの整備環境をもっと良くする方向で作りこむか、敷地の雑草でも抜くか。

 あれこれと思いを馳せたが、結局のところ今やりたい事は決まっている。自宅ダイニングにあるバーカウンターの作り直し。

 朝食を駄目にした事で抱いた敗北感は、カブの整備で晴れる物ではない。根本的な原因を解決しない事には、これから幾度も繰り返す一日三度の食事を、満たされた気持ちで楽しめない。

 もう一度あのバーカウンターと、それが置かれるダイニングとキッチンを精査し、何をやるべきか決めなくてはならない。


 小熊が工具を片付けていると、自宅敷地前の道路に一台の自転車が停まった。 

 シンプルな緑色の木綿ワンピース、革の安全靴、セミロングの髪。

 小熊が図らずも係わる事になった胡散臭いサークル、節約研究会の部員、春目は小熊の姿を認めて安心したような笑顔を浮かべた。


 通称セッケンと呼ばれる節約研究会に対する小熊の感情は複雑だった。

 ペイジはいい奴だと思う。旧いジムニーに恋し、それが生きる事全てのような女は、たとえジムニーに乗れぬ時間の彼女が屍同然だったとしても、その生き方に魅力を感じる。竹千代は、初めて会った時は漆黒の衣を纏った美麗な姿に興味を持ったが、彼女が小熊の忌避するケチと呼ばれる人種だと知って以来、関わり合いたくないと思っている。


 もう一人のセッケン部員である春目は、無害な人間である事はわかっているが、小熊がケチな人間を嫌う最も大きな理由である、貧相を絵に描いたような女だった。

 飾り気も華も無く、よく見ると薄汚れたワンピースに、痩せた体と血色良好とはいえない肌。自分で切っているようにしか見えない髪は艶も無く、栄養の足りてなさそうな毛先は不揃いに跳ねている。

 彼女は小熊が人生の分岐を幾つか間違えたならそうなっていたであろう姿。親無しで奨学金の世話になっている小熊は、貧困なれど貧相にだけはならないように日々を積み重ね、今の暮らしを勝ち取ってきた。

 法学専攻の女子大生より、靴磨きかマッチ売りでもして生計を立てていたほうが似合うような少女を、なりゆきで助けた縁でセッケンとの繋がりが生まれた、今となっては買ったばかりのカブの能力を試したいと思い、冷蔵庫と春目をセッケンの部室まで運んであげた自分の判断は間違っていたのかもしれないと思わされる。

 

 どうやら家主の許可を得ぬまま敷地に入らないという礼節は失っていないらしき春目が、痩せぎすの体には負担になるであろう大きな声を上げて小熊を呼ぼうとしたので、そのまま家の前で倒れられると面倒だと思った小熊のほうから歩いていく。敷地の端まで来た小熊に、春目は声量をケチくさく節約した声量で話しかけてきた。

「こんにちは小熊さん。あの、家まで来ちゃってごめんなさい。竹千代さんから一昨日の活動で稼いだお金の、小熊さんの分を渡すように言われて来たんですが」

 小熊は引っ越しで幾つかの家具を新調した時、猟銃を買い忘れた事を後悔した。厄介の種を撃って追い払えるものなら、今まさにそうしたい。

「ペイジにいらないと伝えた」


 春目は困り果てたような顔をした。そういう表情が出来る人間を小熊は信じて居なかった。少し前にカブでタクシー衝突し足を骨折した時に病室までやってきた、タクシー会社の事故担当者を思いだす。

 春目は背負っていたドンゴロスの袋から封筒を取り出し、万札が何枚か入った中身を見せる。

「でも、わたしこんなにお金を預かってきて。渡さないとわたし、竹千代さんのところに帰れない」

 小熊は合法的ながら拾い物で労する事なく金を儲けるセッケンの活動に賛同できなかった。筋の通らぬ分け前を受け取る気が無い事は、あの竹千代という自分を取り巻く全ての人間を掌中に収め、思うまま動かしているかのような女に直接伝えなくてはならないと思った。少なくとも目の前に居る他人の同情を期待しているような女には、小熊の意向を受ける権限も責任も無いだろう。

「わかった。今から大学まで行って竹千代さんに会う、少し待ってて」


 それまでずっと何かに怯えるような顔をしていた春目が、安堵の表情を浮かべる。世に何人も居るという、こういう女に情けを施すのが好きな人間にとって、この笑顔が報酬なんだろう。 

 カブを整備していた小熊の姿を見た春目は、上機嫌そうに言う。

「そ、そうだよね! 着替えとかしなくちゃ」

 小熊は言っている意味がわからないという表情を浮かべながら、春目に近づいた。小熊としてはそれなりの金を払って買ったツナギを着て街に買い物に行ったり、大学で講義を受ける事は何ら躊躇する事では無い。大学では農業や工学のサークル活動をしているのか、作業ツナギ姿で歩いている学生も何人か居た。いずれも大学に七~八年居るといった感じの貫禄の持ち主だったが。


 小熊は春目の跨っている自転車のハンドルを手に取り、春目をサドルから降りさせた。やはり体がチタンかカーボンで出来ているかのように軽い。

 いきなり自転車を奪われた春目は、戸惑ったような表情を見せる。彼女はそういう役回りなんだろう。映画や小説の冒頭で、舞台になった町の荒廃を表現するため、暴漢に荷物を奪われ途方に暮れる端役の少女。

「あの……何を?」

「さっき走って来た時、その自転車がひどい音をたてていて我慢ならなかった。ちょっとはまともに走るように少し整備する」


 この春目という少女がどんなに悲壮な様を見せようと、それをどうにかしてやろうなどとは思わない。

 ただ、人に使われ人の無知や無精が原因で悲鳴をあげている自転車ならば、話は別。

 この手を差し伸べ、ほんの少しの助力を行う事で、機械が幸せな声を聞かせてくれる事くらいは知っている。

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