第11話 全損

 小熊は目の前に座る小奇麗なスーツを着た男の顔面に、モンキーレンチを叩きつけたくなった。

 保険会社の人間だという男性の話を忍耐強く聞いていると、内容は今回の事故における非を認め、損害に対する補償を行うというもの。

 信号待ちで止まっていて、いきなり後ろからぶつけられたからには当然の結果ながら、小熊を不快にさせているのは、その後に出た言葉だった。

 二万円。

 高校二年の春に中古で買い、丸二年間乗ったスーパーカブに保険屋がつけた値段。

 それが小熊の日常の足として、あるいは休日の遊び道具として、最近ではバイトの仕事道具として活躍していたカブを、修復不可能なスクラップにした代償だという。


 大学入学を控え、木造の借家とそのガレージを自分の好みに合わせ造り変えた小熊は、入学式までの暇な時間に更なるセルフリノベーションを行うべく、早朝から業者向け資材コーナーを開店しているホームセンターにカブで向かう途中、事故に遭遇した。

 ついこの間まで、交通事故で足を骨折して入院していた時、同じくバイクで怪我をして入院していた同室の桜井が、退院後すぐに事故を起こして再入院したのを散々笑いものにした記憶があったが、まさか小熊自身が、バイク乗りの中で囁かれる「バイクで最も事故を起こしやすいのは、事故を起こした直後」という法則に絡め取られるとは思わなかった。

 事故の内容は、早朝の交差点における信号待ちで、ゴルフに行く途中の車にぶつけられたという状況で、小熊に非は無いが、技術的な落ち度ではなく運や危機感に問題があったのかもしれない。

 基本的に山梨ほど車の流れが速くない東京都下も、妙に飛ばす車が現れる時間帯という物がある。

 

 ホンダのミニバンに後ろからぶつけられても、幸い小熊は怪我ひとつしなかったが、相手の車のバンパーが当たったカブの車体後部を見て、これはもうダメだと思った。

 リアフェンダーがタイヤに食い込むように潰れている。旧いプレス鉄板車体のカブは、フェンダーと車体が一体成型されていて、後部に強い衝撃を受けると、車体全体がダメージを受けて使い物にならなくなる。

 おかげで乗員である小熊は無事だったが、カブはもう修復不能。もし修理業者に持ち込み、この車体を修正するなり、フレームを新品に交換するなりすれば、部品費用と作業工賃だけで、中古のカブが一台買えるくらいの金がかかる。

 技術的には修理可能だが、直せば収支が釣り合わない。希少なヒストリックバイクならともかく、実用品がそうなったらもう廃車にするしかない。

 地元の事業家だという初老の相手方ドライバーはすぐに加入している保険会社に連絡し、警察が形だけの事故検証を行った後の交渉は保険会社の事故担当者と行う事になったが、話の内容は小熊を不快にする物ばかりだった。

 空を見ると、昼間の月が見えた。あの時小熊の恵まれた暮らしを表すように満ちていた月が、もう欠け始めている。  


 小熊は南大沢駅前のカフェに居た。

 事故の直後、相手方の保険会社が指定した工場で損害の査定を行えば、交渉において不利となる材料を自ら作る事になるので、以前このカブを買った中古バイク屋のシノさんと知り合いだという、八王子のバイクショップに持ち込んでみたが、思った通りカブは修復不能な全損車両として認定された。

 ショップ経由で保険会社に連絡したところ、担当者が小熊の自宅近くまで伺うというので、家の近所に喫茶店など無い小熊は大学近くにあるチェーン系喫茶店を指定したが、小熊はここまで自転車で来て、この話が終わったら自転車で坂を登って帰らなくてはいけない。 

 そこで提案されたのが、二万円というふざけた額。


 小熊が二年間カブに乗り続けてそれなりに出来たコネを使っても、二万円で今のカブを修復する事など出来るわけがない。新品のフレームを取寄せればそれだけで足が出る。

 減価償却とかわけのわからぬことを抜かす保険屋に、小熊は返答した。

「事故前の現状を回復してください。それまで示談には応じられません」

 それまで紳士的な態度を見せていた保険屋の言動が変わる。「貴方」が「キミ」になる。事故の被害者への態度ではなく、大人が子供を諭す言い方。

 そんなダダをこねられても困る。車やバイクというのは元々そういうリスクがあるもの。ヘンなことを言うと脅迫で警察に言わなくちゃいけない。大学にあなたのところの生徒がわたし達を強請るような真似をしていると言ったらキミは困らないかな? 人生を棒に振ることになるよ。


 保険屋がありとあらゆる脅しをかけてくるのは知っている。意図的に湯呑みを音たてて置いたり書類を放り出したりする仕草に騙されるほど、小熊は平穏な高校生活を送っていない。

 とはいえこのまま精神を削る話し合いをダラダラと続けるくらいなら、妥協策の一つも出そうかなと、ある意味保険屋の思う壺なことを考え始めた小熊の気持ちを変えたのは、保険屋が発した次の言葉。

「たかがカブ一台のことで」

 小熊は自分の前に突きつけられるように置かれた示談書を摘み、書類を相手の前に放り投げた。

「話にならない」

 

 退去の挨拶も無く席を立った小熊の背に、お嬢ちゃん後悔するよという言葉を投げつけた保険屋は、翌日再び連絡を取ってきた。加害者側であることを忘れ、無知な学生に事故における手続き方法を指南してやろうという態度だった前回とは打って変わって卑屈な態度。

 今度は泣き落としで来たらしい。事故の加害者はこのまま示談が成立しないと、経営している会社が倒産し家族が路頭に迷う事、自分も胃を壊していて、この仕事が終わったら療養しようと思っていたが、小熊がハンコを押してくれないとそれも叶わないこと。何人もの人間を不幸にするより、人を救うする決断をして欲しいという事。

 小熊には保険屋のお涙話よりも、一緒に携えてきた懐柔策らしき物に興味を惹かれた。


 事故で損傷したカブの修復は困難なため、代替車を以って補償を行うという提案。保険屋が見せたのは幾つかの中古カブ情報。

 小熊は相手のタブレットに表示された数台の車両を見た。半分は小熊が見ても表示された走行距離数が大嘘だとわかるもの。残りも新聞屋あたりから引き上げてきた、重荷で車体が寿命を迎えたカブを、見た目だけ綺麗にしたような、ロクでもない個体にしか見えない。その中に一つ、小熊の目を奪うものがあった。

 スーパーカブ90 中古極上品 屋内保管 機関良好。

 小熊は感情が表情に出ないよう意識しつつ答えた。

「まずは現車の確認、話はそれからです」


 小熊が肯定的な言葉を発したのは、素性の知れない中古カブの中で、このカブには何か異質の物を感じたという要因もあったが、最大の理由は、連日の交渉で疲れ切っていた事。

 保険屋もそれが本音か装いか、安堵の表情を浮かべる。中古のカブ一台で揉めるのは得策じゃないと思っていたらしい。

 もう時間は日暮れ近かったが、相手が中古バイク屋に変な入れ知恵をしないよう、小熊は交渉の場からそのまま中古カブを見に行く事にした。場所は小熊の暮らす町田市の隣、神奈川の大手チェーン系中古バイク店。

 購入を検討する旨を伝えたところ、すぐに中古バイク屋のワンボックス車が迎えに来た。

 保険屋と共に車に乗った小熊は、夕暮れ空に浮かぶ月を見た。月は昨日よりもっと欠けていて、ラグビーボールのような形になっている。


 ショップに到着し、小熊はさっそく車体を見せて貰った。

 急逝した前オーナーが製造中止直前に買って以来、ガレージに保管して時々近場を乗るだけだった車両を、遺品整理業者経由で買い取ったというカブ90は、タブレットの画像から受ける印象よりも良好な状態だった。

 幾らでも綺麗に出来る走行距離計や外装を無視して、小熊はステムの動きやタイヤ空転時の異音など、多走行車や事故車がダメージを負うところを慎重にチェックする。バイクの査定など出来ないが、カブの事なら少し知っている。

 概ね合格。それどころか新車の初期馴らしが終わったところといった感じの優良個体。ショップがバイク屋にしてはビジネスライクな感じな部分が少し気になったが、カブは買ってしまえばショップの世話になる部分があまり無い。何より小熊の気持ちが、この旧式カブの最高傑作と言われる、90ccのカブへと動いてしまっている。


 小熊に検討の余地を与えぬよう、わざと急かすような態度を取る保険屋に小熊は言った。

「示談書を」

 ハンコを手にしながら行った最後の交渉で、登録と自賠責保険の費用負担を相手に呑ませた小熊は、示談書に捺印した。

 カブ90のキーを見つけてきたバイク屋がカブのエンジンをかける。

 保険屋が演技か本音か、深い溜め息をついたが、小熊には聞こえなかった。

 

 日付はいつのまにか、大学の入学式前日となっていた。

 多くの人にとって人生の節目になるであろうイベントが、今は霞んで見える。

 空に浮かぶレモンの月がカブを照らす。何一つ欠けることの無い満月より、こっちのほうが好きかもしれない。

 HA02スーパーカブ90、小熊は新しいカブと共に大学生活を始める。

 

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