第八章『妖魔の恩恵』

(1)

 伸ばされて来たシュヴァルの腕を掻い潜り、背後に回ったアインは、左手に握った短銃の引き金を躊躇いなく引いていた。

 相手が普通の人間であれば、間違いなく背中を撃ち抜いていただろう。

 しかし、相手は妖魔。

 シュヴァルは間合いを詰めた勢いそのまま、前方に倒れ込んで回避すると、即座にアインに向かって床を蹴った。


 アインは逃げた。

 銃で威嚇し、ナイフで牽制し。

 迫り来るシュヴァルの手から逃れるべく、玄関ホールを逃げ惑う。

 だが、シュヴァルはピッタリとついて来た。

 足の長さが違う。手の長さが違う。身体能力そのものが別物で。

 アインはすぐに追い詰められていた。


 本気なのだと改めて実感し、アインは恐怖を感じずにはいられなかった。

 それでもアインは、恐怖を見ないことにした。

 恐怖に呑まれてしまえば身動きなど出来なくなる。動き続けなければシュヴァルに捕まる。

 捕まったら最後、言葉通りアインは、シュヴァルによって記憶を改竄されてこの屋敷に囚われの身となるだろう。


 果たして本当にそんなことが出来るのかと思わなくもないが、相手は妖魔。何が出来るかなどアインには解らない。

 ただ、出来ると言うのであれば、ある意味では幸せなことかもしれないとアインは思う。

 今までのことを忘れて、シュヴァルとしてシルバーラビットと生きて行くことは。


 だとしても、アインはもう知っていた。

 シュヴァルももう知っている。

 紛い物は、所詮紛い物でしかないと言うことを。


「そんなことしても――」


 伸びて来た手を力いっぱい蹴り付けて、


「望んだ結果は――」


 体を捻る。


「得られない!」


 渾身の後ろ回し蹴り。


「それでも」


 と、シュヴァルは顔目がけて飛んで来たアインの左足を掴み、勝ち誇った笑みを浮かべ、


「気付かれるまでで、構わない!」

「っな!」


 勢いよくアインは足一本で吊り上げられ、そのまま背中から床に叩きつけられた。


「っが」


 背骨が折れたとアインは思った。

 背中に背負った猟銃が硬い音を立て、衝撃が骨に伝わり息が止まる。

 遅れて頭を強打して、目の前が暗くなり、星が飛んだ。

 すぐに起きなければと頭では思うが、体はピクリとも動かない。


 気持ちが焦る。シュヴァルが近づく。

 短銃を構えようとして、持っていないことに気が付く。

 いつ手放したのかが分からない。

 それでも右手にはナイフを持っている感触はある。

 だが、


「悪いな、お嬢ちゃん。痛い思いをさせちまって」


 すぐ傍にしゃがみ込み、顔を覗き込んで来るシュヴァルに対して揮うだけの力がアインにはなかった。


「動けるか?」

「動けるわけがない!」


 と、不満を口にすることすら出来なかった。

 アインが出来たのは精々が睨み付けることだけ。

 シュヴァルは心底申し訳なさそうな顔をしていた。

 そんな顔をするぐらいなら、やらなきゃいいじゃないかとアインは訴える。


「でも、これはお嬢ちゃんのためでもあるんだ」


 内心を読み取ったかのように弁解されて、アインは一瞬眼を瞠った。


「お嬢ちゃんがお嬢ちゃんでいる限り、心の平穏は訪れない。

 でも、ここにいればお嬢ちゃんも幸せになれる。きっと俺たちがしてみせる。

 だから、余計な抵抗はしないでくれ。その方がこれ以上痛い思いをしなくても済む」


 言いながら、アインの額に黒い兎の左前足を乗せるシュヴァル。

 一体何をする気なのかと目で問い掛ければ、答えの代わりに頭に浮かぶものがあった。

 記憶だった。何の記憶とも呼べない、いつの記憶とも呼べない、順不同に様々な記憶が強制的にランダムに浮かび上がって来たのだ。


「……な、に……」


 やっとの思いで口にすると、シュヴァルは人の手である右手で優しくアインの頭を撫でながら答えた。


「お嬢ちゃんが孤独になった辛い記憶を吸い上げているのさ。吸い上げて、封じ込める。

 そんなことが出来るの? って顔してるが、俺には出来る。

 なんたってこの屋敷は人の記憶を元に作られているからな。で、その管理をしている俺は、少しばかり同じことが出来る。だって俺はこの屋敷の管理者だからな。

 で、記憶を封じ込めた後は、『シュヴァル』としての記憶を植え込む。部屋の中に具現化するのと一緒だな。ただ、直接記憶の中に植え込むから、それほど違和感なく受け入れられると思うが……」


 言われている間にも、様々な記憶が浮かんでは消えて行った。自分だけの記憶が問答無用に吸い上げられていく光景に、アインは背筋が冷たくなった。

 消えていた。消えて行くのがはっきりと分かっていた。

 シュヴァルは『封じ込める』と言ってはいるが、それは記憶の消失と同義。

 憎み始めたハンターたちの思い出が消えた。楽しかった時代の記憶が消えた。ミリシュとの思い出が消えて、両親が殺されたときの記憶が消えて、自分に微笑んでくれる両親の姿が、白い兎の姿になった。


 視線が低くなり、草むらを駆ける思い出を思い出す。草の匂いと土の匂いを思い出す。風を感じ、すり寄って来る白兎の温かさを感じ、ヴォルカースの顔を思い出す。

 背中から心臓を突き上げられたような衝撃があった。


「抵抗するな」


 浅く速い呼吸を繰り返すアインに向かってシュヴァルが忠告を飛ばす。


「抵抗しない方がお嬢ちゃんのためだ」


 だが、言われて忘れられるようなものではなかった。

 自分がハンターになったのも、孤独になったのも、全てのきっかけとなった妖魔だけは。

 両親とミリシュの敵であるヴォルカースだけは、どうしても忘れるわけにはいかなかった。

 その存在までも忘れてしまったら、アインを構成するすべての物が失われることになる。

 それまでの人生を全てなかったことにされてしまう。

 それだけは、嫌だった。

 自分が自分でいるために、必要なものだけは奪われたくない。

 たとえそれが、自分にとって忌まわしいものだったとしても。


 しかし、アインの抵抗は無駄な努力でしかなかった。

 穏やかで人好きのする笑みを浮かべたヴォルカースの代わりに、ふわふわと、もこもことした白い仔兎の姿が現れる。自分を一生懸命追い掛けて来る白兎の姿が現れる。

 守らなければ――と言う強い衝動を覚える一方で、忘れてはいけないと言う警鐘を聞く。

 しかし、既にアインにはヴォルカースの顔を思い出すことが出来なくなっていた。

 その上で、落胆も絶望も抱かない自分に気が付かなくもなっていた。


「もう少しだ」


 安堵に緩むシュヴァルを見ても、何がもう少しなのかと問う気力も起きなくなっている。

 

 早く、迎えに行かなければ――


 むしろ、寝転んでいる場合ではないとアインは思い始めていた。

 あまり間を開け過ぎたせいで、シルバーラビットが追い付けなくなっている。


 外敵のにおいはしないが、念のために迎えに行かなければ――


 そう思うようになっていた。

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