第二講習

 俺たちは奥まで長く続く廊下を少しばかり進んで、2つ目の部屋に入った。最初に見た通り、2つ目の部屋には衣装やらメイクやらが壁に沿って置かれていた、新しい発見は、簡易的な行為室が手前の端にいくつも設置されていることだった。


 部屋が変わったからといって、担当する職員が変わるわけではないようだった。移動の完了を確認した職員の号令で、数分間の休憩に入った。各々トイレに行ったり飲み物を購入したり、中には熱心に職員からの予習を受けようとしている人もいた。 


「マスコットになろう!」


 休憩後職員が張り出した第二回の講習のタイトルに、俺たちは矢張り照れ笑いを隠せなかった。


「まず格好から入るのは世の碇石です。学校にも職場にも制服があります。そして制服は自他ともに認められるライセンスです。自分に自分が組織に属する人間であり、またその道のプロであることを自覚させ、組織の規律を守らせクライアントの為に精一杯の奉仕をさせる力があります。また組織外の人間からもそのような認識を持たれ、その認識に相応しい行動を求められます。要するに、ちゃんとした格好をすると、『アガる』わけですね」


 そして職員の号令の元、俺たちは各々に合うと思われる服を自由に選んだ。「自由」といってもスーツは一様に地味で、どこかくたびれたもので、違いといえばサイズくらいだった。俺たちは口々に覚えたての「ヒガムカセ」を唱えながら服を選んだ。  


 時折、「小柄な方は若干大き目、大柄な方は若干小さ眼を選ぶのがポイントですよ」という職員からのアドバイスがあった。どうやらその方が可愛げがあるらしい。


「選び終わった方は試着室へご移動ください」


 片手に服を持った参加者が現れると職員がそう促した。「別に男だけですからねぇ」と笑う参加者に職員は案外厳しい口調で、


「その意識ではいけません。意図的にだらしないところを見せるのは有りなのですが、基本的には周囲の視線に気を使ってください。女性は私たちが思う以上に我々のことを、しかもマイナスポイントを見ています。無自覚に嫌悪感を与えていることもありますので、慎重になさってください」


 と言った。参加者はすごすごと試着室に列を作った。


 着終わって改めて鏡を見ると、成程と思った。俺は(中年の中では)中肉中背の方なので、特別大きいものでも小さいものでも無かったが、このスーツはくたびれている割に安っぽくなく、また清潔感がある。俺だけでなく多くの参加者がそう感じたのを察してか、職員が理由を解説した。


「そのスーツは元々比較的高いものを、折り目を付けたり解れさせたり等、あえて少しダメージ加工しているものです。そうすることによって経験値によって備わった社会的能力はあるものの体力的に下り坂を進んでいるという、若い女性が最も魅力を感じる中年男性像を創るのに相応しいものになっております」


 その徹底した仕事ぶりを聞くと、身が引き締まる気持ちがした。職員は次にメイクについて説明を始めた。


「メイクは社会的能力と母性をくすぐる可愛げのバランスの最終調整だと考えてください。まだしっかりし過ぎている方は皺を多めに、だらしなく見えてしまう方は眉をはっきりと描いてください。あと最初に薄く下地を塗るのをお忘れなく。それによって清潔感は大分変わって来ますので」


「皺を増やすんですか?」という声も、「あえて、です」という短い文句に消され、俺たちは慣れない手付きでメイクを始めた。どこからか、「老眼鏡を取ると鏡の自分が見えない」という自虐が聞こえて部屋に笑いがこだました。


 私は元々、比較的薄い顔なので、皺を増やすことにしていた。やはりどこか抵抗があったが、下地を塗ると若返った、というよりは子供っぽい顔になってしまったので、その抵抗はなくなり、額やほうれい線のまだ浅い皺を鮮明にした。


「髪は染めなくても良いんですか?」という質問が出た。職員曰く、そこも最終調整に含めるべきだが、流石に染髪の為の環境は用意できないということだった。しかし俺を含め不満は怒らなかった。俺はスーツやメイクで十分な、いや十分過ぎる環境だと思った。加えてこのような豪華な講習が無料のわけを知りたかった。よっぽど慈善的なスポンサーがついているのか、それとも他の理由があるのか。


 疑念はあったが、それよりも自分の姿が変わってゆくことの高ぶりの方が勝り、意識は小さな鏡に集中した。思えば、自分の格好に気を使うことなど、どれくらいぶりだろう。いつからか外ではスーツ、家ではパジャマ、後は髪を整えていれば良いと考えるようになり、それらが習慣化した時には自分の格好に特別な意識が向くこともなくなっていた。これでは自分が人様にとって不快なことをしていても自分では気が付かないかも知れない。もしかしたら意識しない部分で多大なる迷惑を人に与えていたかも知れない。俺は「おじさん」になるということはこうゆうことかと猛省した。そして自分がこれから気を配らなくてはいけない範囲の大きさに奮い立つ気持ちがした。


 俺たちのメイクは中々終わらなかった。それは後になって気が付いたことだが、皆各々にそろそろ止めた方がいいかも知れないという自制心が働くものの、近くの参加者がまだメイクをしている為自分もいいかとメイクを続け、そうして再開した誰かをまた別の誰かが自分がメイクを続ける免罪符にして・・・というような互いの許し合いがその時間を引き伸ばした。


 職員が止めなかったこともその要因であった。どうやらこうなることを見越して元々多めに時間を確保しているらしかった。それが分かったのは、これも後に冷静になってから気が付いたことだが、スーツを着てメイクをする。という作業だけに一講習時間分、つまり1時間も費やしていることは主催団体側の意図したことだと容易に想像できるからである。


 流石に二つ目の講習が終わる10分前にはそのアナウンスがあった。その頃には皆ミリ単位の調整に入っていたので、俺を含めそれを特別な調子で嘆くものはいなかった。しかし内心では皆その一ミリのこだわりはどうしても諦め切れないようで、休憩に入ってからも鏡に張り付いていた。俺と同じく、皆久しぶりに芽生えた美意識の、その追究しても仕切れない、完成のない世界に熱中していた。

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