***** ***


脳腫瘍のうしゅようだそうだ」


 と、真っ白な廊下で栄一えいいちさんは言った。


「あと二週間持つかどうかと、先生がね。気づくのが遅すぎただよ。昼間、頭が痛いと叫んで倒れて……最初にかかった医者が悪かったっけね。波絵なみえも〝夏風邪だろう〟と言われて信じてしまったと。行きつけの病院だったらしいんだがね……」


 日の暮れかかった窓の外では、まだ雨が降っている。


「普通、脳に腫瘍ができると、頭痛や吐き気の他にも目に症状が出るもんだと先生が言ってたそうだら。こう、いつもより光をまぶしく感じたり、ものが二重になって見えたりね。だけんども、ほれ、世愛せいらだから……」


 栄一さんは態度も口調も比較的落ち着いていたけれど、もともと小柄な彼の姿が、そのときの僕にはひと回りもふた回りも縮んでしまったように見えた。


「なんでかね。なんで世愛ばっかりあんな目に……あの子がなにをしたって言うだか? 代われるもんなら、ぼくが代わってやりたいや……」


 そう言って深く、深く、魂ごと吐き出してしまうかのような嘆息のあと、栄一さんはしわだらけの手で目もとを押さえた。それきり彼はなにも言わない。

 僕も、なにも言えなかった。


「先生」


 少し気持ちを落ち着けたいと言う栄一さんをラウンジまで送り届けて、僕は世愛の病室を訪ねる。個室病棟の一角に設けられた部屋の中には波絵さんの他、彼女の旦那さんともうひとり、はじめてお会いする栄一さんの奥さんの姿があった。


「すみません、赤眼あかめ先生。せっかくお見舞いにきていただいたのに……」


 と、互いの挨拶もそこそこに波絵さんが頭を下げる。

 うっすらと青いハンカチで口もとを押さえた彼女は見るからに憔悴しょうすいしていた。

 偶然世愛が運ばれる現場に居合わせた僕は、なりゆきで波絵さんに付き添うことになったわけだけれど、彼女のためにできたことと言えば世愛が精密検査を受けているあいだ黙って隣に座っていることだけだ。連絡を受けた栄一さんたちが駆けつけるまで、僕は気の利いた言葉ひとつかけることができなかった。


「いえ、僕のことはお構いなく。……世愛は?」

「おかげさまで今は眠っています。担当の先生の話では、今後は眠っている時間の方が長くなるから、そこまで苦しまずに済むはずだと……」


 答えてくれたのは波絵さんではなく、彼女の旦那さんの方だった。

 一般的な成人男性に比べるとやや痩せ気味なものの、いかにも穏和そうな顔立ちの彼の目もとは眼鏡の奥で真っ赤に腫れている。話しながらその顔を束の間くしゃくしゃにして、旦那さんは懸命に嗚咽おえつをこらえているようだった。

 彼の勤め先は土日が出勤日なので、僕とはあまり面識がない。

 たまたま彼が休暇を取った日に一、二回顔を会わせただけだ。

 けれども唇を震わせながら声を詰まらせた彼の横顔は、どんな言葉よりも雄弁に世愛むすめへ向かう愛情を物語っていた。

 そこには明らかに部外者であり、そもそも人間ですらない僕の入り込む余地などあるはずもなく、にわかに芽生えた居心地の悪さが無慈悲に僕を急き立てた。

 世愛の家族でもなんでもない僕が、いつまでも病室に居座って残りいくばくもない彼らの時間を奪ってはいけない。そう思う一方で、リノリウムの床に張りついた靴底がここを離れようとしないのは何故なのだろう。


「お嬢さんが大変なときに、お邪魔してしまってすみません。また日を改めます」


 だから僕は僕に言い聞かせるためにそう言った。

 僕だってこのあとには今夜の看取り業務が控えている。今頃セーフハウスではチャールズがやきもきしながら僕の帰りを待っているはずだ。だから行かないと。

 石のように固くなった心をそう説得して、僕はようようきびすを返した。お見送りします、と進み出てくれた旦那さんの好意を鄭重ていちょうに断ろうと振り返る。けれど、


「……赤眼先生……?」


 弱々しく掠れた声が僕を呼んだ。かりそめの心臓が悲鳴を上げて、束の間鼓動を止めた気がした。その瞬間まで両目が直視することを拒んでいた病院着姿の世愛が、ベッドの上から僕を見ている。いや、違う。彼女には見えてはいない。ただ目覚めて最初に聞こえたのが僕の声だったというだけだ。

 彼女が目覚めたことを知った波絵さんたちが、口々に名前を呼びながら点滴を打たれた世愛の腕にすがりついた。薬品のにおいやのせいだろうか。

 世愛もすぐにここが自分の部屋ではないと気がついたらしく、なにがあったのか尋ねている。波絵さんたちは彼女の体調を気遣いながら、昼間救急車で運ばれたことや急遽入院することになったいきさつを話して聞かせた。

 もちろん、彼女の余命があとひと月もないという事実だけは巧妙に伏せながら。


「そっか……わたし、風邪じゃなかったんだ。また入院かぁ……」

「そうね。でも長い入院にはならないはずだから。検査の結果にもよるけれど……今回もお母さんたちがちゃんと傍についててあげるからね。大丈夫だからね……」


 世愛の手を撫でながらそう話す波絵さんは、先ほどの旦那さん同様懸命に涙をこらえていた。けれど声だけは気丈を装い、盲目の世愛に異変を覚られまいとしているのが伝わってくる。僕はそんな家族の姿を見ていられなかった。

 今の彼らを見ていると、得体の知れない生きものが内側から僕の胸を食い破ろうと暴れ出す。だから改めて暇を告げることにした。病室を出ようとする僕に気づき、視線をくれた栄一さんの奥さんに黙って会釈えしゃくを返しておく。


「ねえ、赤眼先生もいる?」


 ところが病室の扉に手をかけた刹那、幼い世愛の声が追いかけてきた。

 僕はとっさに反応できず、白い把手とってを握ったまま固まってしまう。

 恐る恐る振り向くと同じく僕をかえりみた波絵さんたちと目が合った。すると波絵さんは真っ赤に腫れた目もとをほころばせて、世愛の手を両手でやさしく包み込む。


「ええ、いらっしゃるわよ。先生ね、世愛が体調を崩したって聞いてわざわざお見舞いにきてくださったの。先生、娘と少し話をしてやってくださいませんか?」


 僕はすっかり逃げそびれてしまった。

 今の波絵さんにあんな顔をされたら、いえ、仕事があるので失礼しますなんて生真面目な死神みたいなことを言えるわけがない。だから僕は観念した。波絵さんが譲ってくれた病室の椅子にゆっくりと腰かけ、ベッドの上の世愛に寄り添う。


「やあ、世愛」


 と努めていつもどおりに声をかけたら、世愛が嬉しそうに眉を開いた。「先生」と耳の中で弾む彼女の声が、僕の胸の内側にいる生きものを元気づけてしまう。


「先生、お見舞いにきてくれたんですね。忙しいのにありがとうございます」

「いや。君が授業を休むなんてはじめてのことだったから……今日は君の家にお邪魔しなくていいのかと思ったら、急にベッキーが恋しくなってね。どうやら毎週土曜日は彼女にけたたましく吠えられるのが、いつの間にか僕のライフワークになってたみたいだ」

「あははっ、ライフワーク? それ、ベッキーが聞いたら今まで以上に張り切って先生を威嚇しちゃいますよ? ほんとに全然先生にだけはなつかないんだから」

「……でも、彼女は正しかったのかも。こうなることが分かっていたから、あんなに必死に僕を遠ざけたがっていたのかな。だとしたらベッキーには申し訳ないことをしてしまった」

「え? 申し訳ないことって?」


 横になったまま不思議そうに尋ねる世愛に、僕はただ口をつぐんだ。

 それが今の僕にできる精一杯の答えと謝罪だった。

 死神である僕が彼女に近づきすぎたから、世愛の寿命が削られた──なんて事実はどこにもない。人間の寿命というものは生まれたときから明確に定められていて、誰にも、死を運ぶ死神ぼくらにさえゆるがせにすることはできない。だけど。

 この二ヶ月半、僕には世愛のためにできることがもっともっとあったんじゃないか? たとえばもっと早くに彼女の寿命を把握していれば、残りわずかな家族との時間を、今まで以上に大切に過ごさせてあげることだって……。


「ねえ、先生」


 僕の内側にいる生きものが暴れている。

 彼を鎮めるのに必死で、僕は世愛の呼びかけに答えられない。


「先生、あのね。わたし本当は今日の授業で先生に言いたいことがあったんです」

「……なんだい?」

「こないだ先生のおうちに遊びにいったとき、花火大会の話をしたでしょ? もし先生がイヤじゃなかったら……あの花火大会に一緒に行きませんかって、お誘いしたくて」


 真っ暗になった僕の脳裏に火花が散った。それらはボッとにぶい音を立てたのち、一拍の間を置いて咲き乱れる色とりどりの花になった。


「でも入院するんじゃ無理かなあ……花火大会までに退院できるかな」

「世愛、」

「わたし、先生と花火、見たかったです。きっときれいだったんだろうな──」


 そのとき僕は悟ってしまった。悟りたくなんてないのに、悟ってしまった。今まであまりに多くの死を看すぎたからだろうか。世愛はさとい子だ。彼女はきっと目が見えない代わりに僕らよりずっと多くのものを見て、多くのものを感じている。


「君」


 そこから病室をあとにするまでの記憶は曖昧だった。

 僕は世愛とどんな言葉を交わし、なんと言って暇を告げてきたのだったか。つい数分前の出来事なのに思い出せない。ただ次の仕事のために帰らなくてはとぼんやり廊下を歩いていると、ちょうどラウンジから戻ってきた栄一さんと行き会った。


「どうしたね、もう帰るだか?」

「……はい。あいにくこのあと予定がありまして」

「そうか。悪かったね、長時間引き留めてしまって。ところで、君。さっきから気になっとったんだけども、それ、キャンバスバッグだら?」


 栄一さんにそう尋ねられてはじめて、僕は自分の右肩に下がるカンバスバッグの存在を思い出した。むしろこれほどの存在感を放つものを、何故今の今まで失念していたのか分からない。ただ世愛の危篤きとくを知って波絵さんと救急車に乗り込んだ瞬間から、僕はこのカンバスバッグを体の一部として認識していたらしかった。

 そうでなければ一度も肩から下ろすことなく脇に挟んでいたなんておかしな話だし、数時間ものあいだ中に詰めたカンバスの重さを一切感じなかったことにも説明がつかない。


「なんでまた病院にそんなもの?」

「これは……その、なりゆきで。実は、久しぶりに絵を描いたんです。世愛に僕が絵を描くところを見てみたいと言われて」

「ああ、波絵が電話で言っとったら。月曜に世愛とふたりで君っちにお邪魔したらしいっけ」

「ええ。おかげで久々に筆を取って……今朝ようやく完成したので、お見舞いがてら世愛に届けようと持ってきたんですが。どうやらそれどころではなくなってしまったようなので、この絵は家に置いてこようと思います」


 そう答えながらも僕は半分上の空で、日本にきてはじめて日本語を喋るのに難儀した。かと言って頭の中に散らばるアルファベットもきちんとした言葉のていをなさず、単語になる前に散り散りになってしまう。

 要するに自分でもなにを話しているのか分からなかった。栄一さんとの会話はほとんど意識の外で、記憶に定着する前にするりとどこかへ逃げてしまう。

 けれどそんな僕の状態を見透かしたのかどうか、栄一さんは不意に目を細めると「貸してごらん」と手を出した。僕は言われるがまま右腕の一部と化していたカンバスバッグを下ろし、栄一さんに手渡した。

 彼はバッグの中でビニールに包まれていたそれを無造作に取り出す。

 ここが病院の廊下だというのも構わず、いつも『ギャラリー・マキノ』でそうするように、銘もないの作を値踏みする。

 彼の瞳にはしばしの間、闇に浮かぶ極彩色が映り込んでいた。かと思えば丁寧な手つきで再びビニールを巻き、作品をカンバスバッグに戻して栄一さんは言う。


「これ、ぼくが買わせてもらうだよ。ええかね?」


 彼の問いになんと答えたのかさえ、僕は満足に覚えていない。


 翌朝、長かった雨が止んだ。五日間、アトリエの主として佇んでいたはずのあの絵はセーフハウスのどこにもなかった。目覚めとともに開いたカーテンの向こうから、まばゆいばかりの夏の陽射しが注いでいる。



 なのにどうして僕の雨は上がらない?



「赤眼先生!」


 その日、僕が改めて見舞いに行くと、世愛の病室の片隅に贋物にせもの彩色千輪さいしょくせんりんが飾られていた。


「おじいちゃんから聞きました。この絵、先生が届けてくれたんですよね? とってもきれいな花火の絵だからって、おじいちゃんがここに飾ってくれたんです。ありがとうございます!」


 世愛は見えもしないのに、ベッドの傍らに置かれたイーゼルを示して嬉しそうに笑っている。


「わあっ。この花のかたちとにおい……もしかしてトルコ桔梗ですか? こっちの小さいのは……カスミソウかな? お母さん、花好きだから喜びます。早速飾ってもらいますね!」


 さらに翌日、僕が花を持って見舞いに行くと、世愛は頬を赤らめて花束を抱きしめた。


「先生、今日もお見舞いにきてくれたんですね。ありがとうございます」


 翌々日、世愛は頭痛に苦しみながらも、病室を訪ねた僕に笑顔を見せた。


「先生……せっかくきてくれたのにごめんなさい。あんまりお話できなくて……」


 雨が止んで四日目。世愛はベッドから起き上がることができなくなった。


「〝ツバメは幸福の王子のくちびるにキスをして、死んで彼の足もとに落ちていきました〟」


 五日目の夜、僕は世愛に乞われて『幸福な王子』を朗読した。


「もうだめなんです。薬の効き目が病気の進行に追いつかなくて……〝お母さん、頭が痛い、痛いよ〟って、ずっと……」


 六日目。

 眠る世愛の傍らで波絵さんが嗚咽を零すさまを僕はまた為す術なく眺めている。


「昨日からもう全然目を覚まさんらしいっけ。そろそろ覚悟を決めにゃあならんね……」


 七日目。世愛が楽しみにしていた花火大会が、もう明日に迫っていた。


「チャールズ」


 雨が上がって八日目の朝。僕はついにたまりかねて彼を呼んだ。


「知っているなら教えてほしい。僕は一体どうしてしまったんだ? 朝、目が覚めても、昨日覚えた感情がそのままここに残っているんだ。全然色褪いろあせてくれないんだ。僕は忘れたくてたまらないのに。昨日から、いや、もう何日も前からずっとここにあるもの全部、きれいに捨て去ってしまいたいのに。なのに、どうして」


 チャールズは答えない。


「Solomon Grundy,Born on Monday,Christened on Tuesday……」


 胸ポケットに収まるスマートフォンが、忌々しいマザーグースを歌い始めた。


『やあ、君。そっちは今日、日曜日だね。例によって一週間の担当予定表をメールで送っておいたから、確認しておいてくれたまえ』


 いやだ。見たくない。


「君」


 端末を床に叩きつけようとした僕を見上げて座ったままのチャールズが言った。


「君の番だよ」


 彼の蒼い瞳と僕の赤い瞳が、互いに互いを映し合う。


「君が彼女を看取るんだ。かつて僕がそうしたように」


 分からない。


「いや、言い方を変えようか。──選べよ、ジャック・ザ・リッパー」


 ああ、分かりたくなかった。


 けれど、僕は、






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