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 思えば僕が日本にきてから、セーフハウスにひとを上げるのは今回がはじめてのことだった。百年過ごした英国でだって、僕とチャールズ以外の誰かを家に招いたことは指折り数えるほどしかない。不老の存在である死神ぼくたちは基本的に、特定の人間と深い親交を持つことを避けるからだ。

 僕らと人間の友情は長く続いてもほんの数年。もちろんこちらの正体は明かせないし、それ以上一緒にいようとすればまず上から転勤を命じられる。

 世界の均衡を保つために存在する僕たちが一部の人間に肩入れしすぎれば、現世と冥界を支える天秤がどうなってしまうかは、明日の天気よりも明確で正確に分かりきっているからだ。


「お、お邪魔しますっ……!」


 僕が世愛せいらの家庭教師になって九週間が経過した月曜日。

 この日、先日のスクランブル出勤の代休として久しぶりの休日を勝ち取った僕は世愛と彼女の母親である波絵なみえさんを我が家へ招待した。ステンドグラスの小窓がついた玄関から、波絵さんに手を引かれてリビングまでやってきた世愛はやけに緊張している。波絵さんの方は建物の外観から内装、インテリアまで、すべてを近代英国風に統一してあるセーフハウスのしつらえに興味津々といった様子だった。

 いつもであれば昼間はせっせと家中の掃除に勤しんでいるビスクドールたちも、今日は行儀よく窓辺に並んで人形のふりに徹している。問題は彼らの列にさりげなく紛れ込んでいるチャールズだ。彼はベルジェールハットを被った令嬢風ドールの隣でぬいぐるみのふりをしながら、ふん、ふん、と微かに鼻をひくつかせた。


「ううっ、犬臭い。家中悪魔よけホワイトセージを焚いてる最中で助かったよ。だけどまさか本当に教え子を招くとはね。どうも君は日本のティーンエイジャーに弱いらしい。百歳近くも歳が離れた女の子にばかり興味を示すって、犬の臭いよりひどい犯罪臭がするけれど、まあ日本には〝たで食う虫も好き好き〟ということわざがあるそうだから、僕も個人の趣味についてとやかくは言わないよ」


 などと窓辺でひとり喋り続けているチャールズを五感から閉め出して、僕は世愛と波絵さんにひとまずマホガニー製のダイニングチェアを勧める。

 チャールズの大きすぎるひとりごとは僕以外には聞こえていないから、完璧に無視することさえできれば問題はないはずだ。

 今日はお茶れをドールたちには任せられないので、僕が手ずからアールグレイをカップに注いだ。ただの容器としてだけでなく、鑑賞物としての価値も高いアンティークカップに揃いのソーサーとティースプーンを添えて差し出せば、波絵さんは感嘆のため息をついてカップの装飾をためつすがめつ眺め出した。


「まあ、素敵……普段の身だしなみやお手回りの品からなんとなく察してはいましたけれど、先生は本当に審美眼が鋭くていらっしゃるんですね。まるでイギリスに迷い込んだみたいです」

「いえ、恐縮です。未だに国もとでの暮らしが染みついていて、使い慣れたものを手放せないというだけですよ。世愛、紅茶は飲めるかな?」

「は、はいっ、飲めます……! で、でも先生のおうち、なんだか不思議なにおいがしますね」

「今日は特別にハーブを焚いてるんだ。お客様を招くのに家が猫臭かったら失礼かと思ってね」

「あっ、先生のおうちって猫ちゃんがいるんですよね! 今もここにいますか?」

「ああ、いるよ。チャールズ、おいで」


 僕がドールたちの並ぶ出窓を顧みて声をかければ、途端にチャールズの毛が逆立った。まさか自分がご指名を受けるとは思っていなかったのだろう、彼は露骨に嫌そうな顔をするとぷいっとそっぽを向いてみせる。

 けれど今日の僕が一方的に言われっぱなしだと思ったら大間違いだ。

 僕は席を立つと自らチャールズに歩み寄り、気づいて逃げようとする彼を抱き上げた。いやだ、放せと喚く彼をそのまま世愛のところまで連れていく。


「はい。がチャールズだよ」

「わあ……! だ、だっこしてもいいですか!?」

「もちろん。とてもひとなつっこい猫だから、なんなら一日抱いていてくれても構わないよ」

「構うよ、それは!」


 とチャールズがなにやら抗議しているけれど、残念なことに人間のお客様の前では彼と会話できない。僕は世愛の腕の中に黒い毛玉を押し込んだ。すると世愛は嬉しそうな声を上げて、本物のぬいぐるみを抱きしめるみたいにチャールズを抱く。

 彼女の腕の中から「ぐぇ」と苦しそうなうめき声が聞こえた気がしたけれど、僕はなにも聞こえないふりをした。


「ここが僕のアトリエです」


 そうしてしばらく他愛もない世間話に興じたあと、僕はふたりをリビングの奥にあるアトリエへと案内する。セージの香りが充満するリビングから一変、絵の具のにおいが漂う真っ白な空間へ招き入れると、世愛も空気が変わったことを察したのか、小さくおどろきの声を上げた。もちろん仏頂面のチャールズを抱いたまま。


「すごい……先生のアトリエ、結構大きいんですね」

「分かるのかい?」

「はい。音の反響の仕方で、なんとなくですけど。普通のおうちの中にこんな大きなアトリエがあるなんて、先生、ほんとに絵を描くのが好きなんですね」

「好き……というのとは少し違うかもしれないけれどね。自分が美しいと思ったものを、目に見えるかたちで保存しておきたくて始めたことなんだ。かと言って自分で見返すことは滅多にないのだけれど、記憶から消えてしまう前に描き残すことさえできればそれで満足でね」


 言いながら、僕は魂のかけらを並べている書棚へ手を伸ばした。

 いつもは目隠しなんてつけていないのだけど、今日は世愛たちが来るからと書棚の全面を覆う白いカーテンで小瓶の群を隠している。でないと目が見えない世愛はともかく、栄一えいいちさんの影響で多少なりとも絵の知識がある波絵さんは、ここにあるのがただの顔料でないことに気づいてしまうと思ったからだ。

 そのため僕は、あらかじめ乳鉢にゅうばちで粉末になるまで磨り潰しておいた魂の小瓶を取り出してアトリエの隅の作業台に並べた。

 こうして粉状にさえしてしまえば、さすがに通常の顔料とも見分けがつかない。


「世愛は自分で絵の具をつくったことはあるかい?」

「えっ……絵の具を、ですか?」

「僕は普段から絵の具を自作していてね。よかったら一緒につくってみようか」

「え、絵の具って自分でつくれるんですか……!?」

「手間はかかるけれど、つくれるよ。簡単なものなら君でもできる」


 僕がそう言って促すと、世愛は波絵さんの服の袖を引っ張った。

 すると波絵さんは微笑んで「やってみたら?」と声をかける。

 背中を押された世愛は頬を紅潮させながら、そっとしゃがみ込んで抱いていたチャールズを床に下ろした。ようやく彼女の腕から抜け出たチャールズはアトリエの隅まで無言で移動し座り込む。そうして自分の毛皮に鼻を突っ込むや「犬のにおいがする……」と呟いて肩を落とした。世愛にもチャールズの声が聞こえたなら、ああいうのを本当の因果応報というんだよと教えてあげることができたのに。


「これは膠液にかわえき。動物の骨や皮からつくられる接着剤みたいなものだよ。絵の具の粘り気はこの膠液を混ぜることでつくり出すんだ。絵の具の種類によっては膠液の代わりに樹脂じゅし蜜蝋みつろうを混ぜることもあるけれどね」


 ほどなく僕は過ごし慣れたアトリエで、世愛を相手に美術の課外授業を始めた。

 粉末になった魂のかけらを瓶から取り出し、絵皿の上で膠液と混ぜる。

 混ぜると言っても特別な道具は使わない。僕は世愛の手を取ると、彼女の指先をそっと絵の具に触れさせて、指の腹で膠液に溶いていく感触を教えた。

 白い生地に色とりどりの絵の具が飛んだ作業用エプロンを着た世愛は、真剣な顔つきで絵皿の表面を撫でている。彼女がゆっくりと指を動かすたび、真っ白だった絵皿が鮮やかなひまわり色に塗り潰されていった。

 顔料がある程度膠液に馴染んだら、最後に少量の水を加える。そこからさらに指を使って混ぜていき、ざらつきを感じなくなったら完成だった。


「わあ……わたし、おじいちゃんに筆を持たせてもらって絵の具を塗ってみたことはあるんですけど、絵の具をつくったのははじめてです。思ったより簡単でびっくりしました。でも、なんていうか……絵の具って変わったにおいがするんですね」

「ああ、にかわのにおいだね。特に今の時期はつくった絵の具を放っておくと、よく膠が腐って大変なことになるんだ。さっきも言ったように、膠の原料は動物の骨や皮だからね」

「えぇっ……絵の具も夏は腐るんですね……!?」

「うん、これもモノによるけれどね。だけどせっかく世愛がつくってくれた絵の具を腐らせてしまうのももったいないから、今からなにか描いてみるかい? 自分でつくった絵の具の塗り心地を試してみるのも、なかなか楽しいと思うよ」

「うーん……それもいいんですけど、わたし、先生が絵を描いてるところを見てみたいです! わたしがつくった絵の具でなにか描いてみてくれませんか?」


 ぶかぶかの作業用エプロンを着たままの姿で、世愛は無邪気に笑ってみせた。

 途端にチャールズがくしゃみと見せかけた失笑を零したのは、僕のもくろみが呆気なくついえたことを知ったからだ。なにを隠そう、ぼくはもう四ヶ月もの間まったく絵を描いていない。二ヶ月前、栄一さんにしばらく絵描きを休むと宣言してからはカンバスの前に立つことすらしていなかった。

 だから今日も僕の絵を描く姿を見たいとは言われていたけれど、世愛に絵の具づくりや色塗りを体験させることでなんとかお茶を濁そうと思っていたのだ。

 でも不条理と呼ばれるやつは僕らの上司と同じで休日や安息日なんて顧慮こりょしてくれない。僕は逃れられない現実がすぐそこでベッキーみたいにうなっているのを感じながらしばし返答に困り、そして諦めた。


「……分かったよ。じゃあ、なにか描いてほしいものはある?」


 と、僕はリクエストをもらったところで描けるかどうか分からないまま、世愛からできたての絵の具を受け取る。今のところ使えるのは世愛が膠に溶いてくれたひまわり畑の黄色だけだ。この黄色を使って描けるものを、と条件をつけたら、世愛はしばらく悩んだ末に「あっ!」となにかひらめいた様子で手を叩いた。

 僕はアトリエの隅に放置してあった真新しいカンバスを、四ヶ月ぶりにイーゼルと再会させる作業をしながら振り返る。


「先生、再来週の日曜日に港の方で花火大会があるの知ってますか?」

「そう言えば街のあちこちにそんなポスターが貼られていたような気がするね」

「わたし、あの花火大会、毎年家族で見に行くんです。もちろん私は見えないんですけど、でも音を聞いてるだけでも楽しくて……あんな音を立てながら空から降ってくる花火って、すごくきれいなんだろうなーって思ってて。だから先生に描いてみてほしいです! 花火っていろんな色のがあるから、黄色も使いますよね?」

「花火、か……」


 確かに色とりどりの火花が夜空に大輪を描く花火なら、世愛がつくってくれた黄色もふんだんに使える。

 僕はこの街の花火大会というものをまだ見たことがないから、想像で描くことになってしまうけれど──今までのような自己満足のためではなく世愛だれかのためなら。


「……分かった。描いてみるよ」


 僕はリビングから運んできたダイニングチェアに世愛と波絵さんを座らせた。

 次いでカーテンの後ろを覗き込んで必要な色を探し出し、作業台に並べていく。

 ベテラン漁師が駆け出しの頃、船の上から見惚れた夜明けの青。上質な茶葉の育成に生涯を捧げた主人が目に焼きつけた茶畑の緑。平凡な一生を送った女性が若き日に、愛するひとから受け取った一〇八本の薔薇の赤。家出の末、二度と北国ふるさとへ帰らなかった老人が、最期に心から見たいと願った雪原の白──

 僕はそれらを次々と乳鉢へ放り込んで磨り潰し、膠液で溶き、水を加えて絵の具に変えた。まっさらなカンバスを刷毛はけで青く、青く染める頃には、四ヶ月間の空白なんてどこかへ行ってしまっていた。


 この百年、魂に擦り込むように描き続けてきた何十枚、何百枚という思い出たちが、僕の意思とは関係なしに次々と絵筆を動かしていく。死神である僕の中には魂など存在しないのに、まるでそれがあると錯覚しそうになるほどの昂揚。

 ああ、今、僕を衝き動かす感情を人間ひとはなんと呼ぶのだろう?

 不思議だ。ほんの数分前まで僕の絵には絵の具たましいを載せる価値などないと思っていたのに。すぐ後ろで世愛が──目の見えない彼女が僕の絵を描く姿を。完成したところで一生目にすることが叶わない絵が出来上がっていくさまを、胸を弾ませて楽しんでいる。そう思うと、パレットの上ででたらめに踊る絵の具たちが不意にいのちを帯びる気がした。何故だろう。どんなに懸命に描いたって、この絵の完成した姿を彼女に見せることはできないのに。


「お母さん、先生、今なに描いてる?」

「今はね、空と海が描き上がって、これから花火を描き込んでいくところ。あれは日が沈んだ直後の空ね。水平線にオレンジ色の夕日の色が映ってる」

「そぉなんだぁ……さっきからずっとね、筆の音が行ったりきたりしてるから、たぶん大きいなにかを描いてるんだなあと思って。海と空を最初に描いてたんだね」

「そうね。青にもたくさん種類があるから、混ぜたり重ねたりして空と海を分けるのよ」


 と、僕の後ろに座ったふたりの観客が小声でささやっている。

 世愛に分かるのは生まれたときから彼女の視界を支配する暗黒一色であるはずなのに、波絵さんはひとつひとつ丁寧に絵の進捗を解説していく。

 何故ならということはことと同義ではないからだ。

 いつだったか、波絵さんは笑いながらこう言っていた。


「世愛には見えていないだけで私は確かにここにいるし、外では花が咲いているし、鳥が飛んでいます。なのにからと言って、この子の世界から奪うことを私たちはしたくありません。だって晴眼者せいがんしゃである私たちですら見えているはずのものを見落としたり、理解しようとせずに生きているのに、〝おまえには見えないし理解できない〟だなんて言えませんから」


 と。だから僕も尋ねてみる。


「さて、ではこれから空に花火を打ち上げていくけれど、世愛はどんな花火が好きかな? ひと口に花火と言っても色々種類があるだろう? たとえば滝みたいに火の粉が垂れてくるものとか、噴水みたいに地上から炎が噴き出すものとか」

「うーん、そうですね……わたしはあの〝ヒュルルルル〟って音を聞くと花火だって感じがするんですけど……でも一番好きな花火って言ったら、いつも花火大会の最後に上がるやつかな」

「最後に上がる?」

「はい! ボンッて音が鳴ってからしばらく間が開いて、〝あれ?〟って思った頃に一斉に花火が上がるやつです。なんていう花火だっけ?」

「ああ、彩色千輪さいしょくせんりんね。確かに世愛は昔からあの花火が好きよね」


 彩色千輪。日本の花火事情にさほど明るくない僕は、波絵さんの言葉を頼りにスマートフォンを取り出して調べてみた。おなじみの検索画面には文字による検索結果の他にも、実際の打ち上げの様子を収めた映像資料がヒットする。

 僕は試しにその映像を確認しようとタップして、動画再生アプリを立ち上げた。

 どこかの花火大会の会場で撮影されたものなのか、真っ暗な画面から観客たちの談笑する声が聞こえてくる。そして次の瞬間、


「ドドーン!」


 ととんでもない轟音が降ってきて、世愛がびくりと肩を竦めた。いや、世愛だけじゃない。波絵さんも僕もおどろいて窓の外を振り返り、そして直前の轟音ごうおんが動画の中の花火ではなく、にわかに上空ではたたいた雷鳴だと理解する。


「お母さん、雨!」


 一拍遅れて世愛も状況を理解したのだろう。

 雲の上で誰かがうっかりバケツにつまづき、中身をぶちまけてしまったんじゃないかと思うくらい唐突な雨の音に彼女は悲鳴じみた声を上げた。


「あーっ!」


 そしてそれを聞いた波絵さんも席を立つ。窓を粉々に砕いてやろうという悪意すら感じる猛雨を見やり、茫然と立ち竦んだ彼女はたちまち頭を抱えた。


「どうしよう──洗濯物、干しっぱなし!」


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