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 桃坂とうさか菫也きんや。三十七歳。フリーター。


 それが今の俺の肩書きだ。フリーターと言えばまだ聞こえはいいが、実態はただのコンビニ店員。夜勤だからある程度の収入はあるものの、四十路よそじを目前に控えておきながらこの肩書きはどうなんだと自分で思わないこともない。

 一体どうしてこうなったのか。苦い自問が時折ふっと浮かんでは、答えを求めたところで詮方せんかたないと消えていく。だが少なくとも二十年前の俺が思い描いていた未来予想図と現実の俺はあまりにも差が開きすぎていた。

 若かりし日の俺は漠然と、将来的にはそこそこ名の知れたギタリストかベーシストになって、そこそこのバンドに招かれ、そこそこの収入を得て音楽で食っていくのだろうと未来をそんな風に予測していたのだ。


 けれど現実とは非情なもので、俺はの夢も叶えられぬまま音楽の世界からリタイアした。もとはと言えば高校のとき特に入りたい部活もなく、ぶらぶらしていたところを友人に誘われて軽音楽部に入ったのが音楽を始めたきっかけだったから、最初からプロになろうと技術を磨いてきた連中に敵わなかったのは無理もない。ただ他にやりたいこともなかったし、当時のバンドメンバーが卒業しても活動を続けると言い張ったから俺も流れに身を任せた。気心知れたメンバーと一緒に過ごす時間は居心地がよく、このまま音楽で食っていけるようになればそれが一番楽だという打算めいた考えも頭の隅に確かにあった。

 そうしてずるずると音楽活動を続け、ようやく見切りをつけたのが二十六歳のとき。趣味人に毛が生えた程度の腕しかなかった俺たちは、うだつの上がらない日常に次第に倦んで、最後は花火みたいに散り散りになった。


 いずれはバンドで食っていけるようになるだろうという甘い見通しでいた俺の人生が転落を始めたのはその頃からだ。

 音楽活動を続けるため、大学卒業後も定職に就くことを拒んだ俺は、異国の地に手ぶらで放り出されたみたいに裸一貫から始めなければならなかった。

 とりあえずは定職に就こうと正社員の中途採用を狙って就職活動したものの結果は振るわず。雀の涙程度しかなかった貯金が底をつく頃には進退きわまり、親のすねかじってのアルバイト生活を余儀なくされた。

 ところが昼勤と夜勤の仕事を掛け持ちする暮らしは想像以上につらく、痩せ細った心身が求めたのは〝音楽で食っていく〟という過去に見た淡い夢。

 俺は休日になるとギターケースを片手に街へ繰り出し、聴き手なんてほとんどいない十八番を歌う生活を始めた。場所や時間帯を変えて歌い続ければ、いつか誰かが俺の音楽を見つけてくれるはずだと思った。


 とは言え俺はそもそもベーシストで、バンド時代もボーカルは他にいたから歌は言うほど得意じゃない。案の定ささやかな路上ライブの成果は一向に振るわず、俺は二度目の挫折を味わった。そんな俺に次なるヒントをくれたのが、路上ライブを通じて知り合ったギター仲間だ。仲間はデスクトップミュージック──いわゆるDTMと呼ばれる新世代の音楽に明るく、俺にパソコンでの音楽のつくり方やボーカロイドなどの最新技術、そして動画やフリー素材として自分の音楽を世に広めるノウハウを教えてくれた。同じ音楽でもまったく異なる新世界に、戸惑わなかったと言えば嘘になる。しかし慣れると存外楽しく、俺は気づけば寝食も忘れるほどにハマッていた。自分の作曲した曲がネットで称賛されるのは気分がよかったし、ライブとはまた違った達成感や充足感を噛み締めることができた。


 で、次に就いた職がいわゆるスマホゲーム用の音楽制作だ。

 たまたまネット上で公開していた楽曲が開発チームの目にとまり、俺はフリー配布していた音楽素材の商用利用を打診された。

 そうしてあれこれとやりとりをしていくうちにチーム専属の音楽クリエイターにならないかと勧誘を受け、俺はふたつ返事で了承した。

 当初思い描いていた姿とはいささか異なるものの、やっと音楽で食っていける。

 そう思ったのだ。もちろん現実はいつまでも俺を甘やかしてはくれなかったが。

 バイト時代に蓄えた貯金を放出し、実家を離れた俺はゲームの音楽制作に打ち込んだ。テレビゲームやスマホゲームは俺の中で暇潰しの常套手段じょうとうしゅだんだったから、勢い込んで乗り込んだ新天地はまったく想像もつかない未知の世界というわけでもなかった。ただしゲームの開発チームとひとくちに言っても、実態は個人開発者が有志を募って法人化しただけのものだ。開発したアプリがヒットすれば収入はうなぎのぼりだが、失敗すれば待っているのは赤字地獄。はっきり言ってそこは、俺がかつて見切りをつけた音楽の世界と大差ない場所だった。


 要するに俺はまた博奕打ちの生活に戻ったわけだ。

 だがそのとき俺はすでに博奕を打って暮らすには大きすぎる負債を抱えていた。

 余計な苦労を嫌い、ただひたすら流れに身を任せて生きてきたことへのツケだ。

 開発チームの専属クリエイターとなってから二年半。チームが敢えなく倒産すると俺は行き場を失った。

 というより三十四歳にしてまたふりだしに戻った、と言った方が正確か。

 人生三度目の挫折は俺を予想以上に打ちのめした。俺はもう休みのたびにギターを抱えて街へ繰り出せるほど若くはなかったし、ボランティアみたいなDTMを再開してイチから自分を売り込むほどの気概もなかった。

 ただ音楽にはほとほと愛想が尽きて俺はギターもキーボードも完全に封印した。

 そしてまたアルバイトを掛け持ちするだけのつまらない日々が始まり、俺はやりたいこともなければ目標もない、空疎で退屈な時間を漂う羽目になった。


 もちろん家庭を持とうかと考えたことも一再ではない。異性との出会いがまったくなかったわけでもない。だが今の俺の収入で所帯を持つのはかなり厳しかったし、家庭というものに束縛されるのも何となく息苦しくて、今日まで独り身できてしまった。新しい出会いを探そうと思ったら、俺がまず足を向けるべきは婚活パーティーではなく地元の職業安定所だろう。しかし仮に職安へ通い詰めたとしても、俺の年齢と経歴ではまともな職にありつけるとは思えない。

 俺はすでに社会から弾き出された負け組で、敗者はどれだけ足掻いてもがることすら許されないのが世のルールだ。俺は世界の理不尽さと、いつまでも明けない不景気という名の夜に唾を吐きつつ自堕落な毎日を繰り返した。

 そんなときだ。ある日俺の目の前に天啓が降りてきたのは。


「〝話題沸騰のウェブ小説、ついに映画化〟……?」


 いや、思えばそれは天啓と呼ぶにはあまりにちゃちで馬鹿馬鹿しく、笑ってしまうようなことなのだが。その日バイト先で暇を持て余していた俺は、店頭の書棚から適当な雑誌を抜き取り退屈しのぎに眺めていた。

 するとそこには素人がネット上で無料公開していたとある小説が、出版社の推薦で紙の本となるやいきなりベストセラーを叩き出し、晴れて実写映画化されるというシンデレラストーリーがつづられていたのだ。気づけば俺は食い入るように紙面を凝視し、客のいない店内に響き渡る声で「これだ!」と叫んでいた。

 正直に白状すれば、俺は小説なんて書いたこともなければまともに読んだこともない。だがバンドを組んでいた頃にはオリジナル曲の作詞を手がけたことがあるし、ドラマや映画ならつまらない日々の慰めとして腐るほど鑑賞してきた。

 何より文章を書くだけならばパソコンとキーボード──いや、なんならスマホさえあれば始められる。代わり映えしない日常に嫌気がさしていた俺は躊躇ちゅうちょしなかった。バイトを終えるやすぐさま書店へ飛んでいき、小説を書くためのハウツー本を数冊と、くだんのシンデレラを買って自宅へ走った。


 以来俺はシンデレラがシンデレラたる所以となったウェブサイトで小説の連載を続けている。始めたばかりの頃は小説とも呼べない、小学生の作文みたいな稚拙さで飾り立てられていた俺の文章も今ではずいぶんマシになった。

 DTM時代に培ったのノウハウが活きたことも大きかったと思う。

 SNSや匿名掲示板を利用した地道な宣伝は少しずつ実を結び、俺の作品は少なくない読者から評価されるようになっていた。あとは作品を公開しているウェブサイトを通じて、出版社からお声がかかるのをじっと待つのみ……なのだが、今のところはまだ何の音沙汰もない。読者数や評価の数字は胸を張って中堅以上と言える水準に達しているのに、本格的な執筆活動に乗り出してから二年が経過した今も、ガラスの靴を携えた王子が訪ねてくる気配はない。

 同じウェブサイトを通じて知り合った顔も知らぬ仲間たちは次々とプロの称号を獲得しつつあるのに、何故俺だけ芽が出ない?

 俺の作品も巣立っていったあいつらの作品には劣らないはず。いや、むしろ凌駕しているはずだ。なのに何故認められない? 俺が、俺だけが……。


 今日もまたお馴染みの焦りと苛立ちに苛まれながら、俺はダウンジャケットのポケットに常備してある煙草を取り出す。常識のかけらもない学生どもが昼夜を問わず騒いでいる安アパートへ帰る前に、俺は一文字でも多く文章を綴らなければならなかった。だが近頃はすっかりネタが涸渇して、連載の続きを書くのが困難になりつつある。俺はいかなる作品も全体の流れを決めず、冒頭部分が決まった時点で勢いに任せて書き始めるから、連載が長引けば長引くほど次の展開を考えるのが難しくなっていくのだった。かと言って物語をたたもうにも終わらせ方が分からない。

 そんな理由で完結を待たずに放置している作品がすでに四作はある。

 読者の食いつきが悪い連載は即座に削除しているから、なんなら未完のまま眠っている作品は十作を優に超えるだろう。ずっと同じ作品ばかり書いていると次第に飽きて、モチベーションを保つのも大変になってくるし。


「はあ……やっぱ向いてねえのかな、俺」


 なんて、これまたお決まりの愚痴を垂れながら苦い煙を吐き出す。早朝の公園はひと通りも少なく、浮き世離れして静かだった。多少ひとりごとを洩らしたところで聞いているのは野良猫かハトカラスくらい。ならば何を憚ることがあるだろう。


「自分ではそこそこイケてると思うんだがなあ……編集者も見る目ねえな」


 などとベンチの背凭せもたれにしどけなく上体を預けながら、投げやりに自分を慰めてみた。途端に自嘲が込み上げてきたものの、半分はまぎれもない本心だ。


「俺ってなんで貧乏籤びんぼうくじばっか引くんだろうなあ……」


 職にも恵まれず、理解者にも恵まれず、運にも恵まれず。俺は一体あと何回こんな虚しさをやり過ごせば済むのだろうと思うと、紫煙混じりのため息が出た。

 いや、別に小説じゃなくたって構わないんだ。

 なにかひとつ、ひとつだけでいい、世界のあちこちで輝いているミュージシャンやアスリートみたいに、俺にも誇れるものがほしい。それだけなんだ。

 だってこのまま家庭も名誉も生まれた意味さえ手に入れられずに老いさらばえていくなんて、そんなのはあまりにみじめだった。俺だって一度くらいは誰かに認められて、振り仰がれて、必要とされてもいいはずだ。そのためなら俺は……。

 進捗が思わしくないスマホの執筆画面を閉じて、俺はブラウザアプリを立ち上げた。ブックマークから行きつけの匿名掲示板へ飛び、ウェブ小説関連の書き込みをチェックする。しかし俺の作品に関する書き込みはゼロ。

 くわ煙草たばこのまま舌打ちした俺はいつもどおり熱心な読者になりすまし、自作を讃美する言葉を並べ立てようと親指を滑らせた──が、直後、


「あのぅ」


 と、突然すぐ隣からひとの声がして、俺はおどろきのあまりスマホを落としそうになった。てのひらの上で踊るそれを慌てて握り直し、ほっと息をついてから声のした方向をかえりみる。


「い、いきなりすいません……! び、びっくりさせちゃいましたよね?」


 視線を向けた先にはまったく知らない女がいた。

 年齢は二十五、六と思しいがひどく小柄で、俺のダウンジャケットと同じキャラメル色のセミロングをふんわりと波打たせた見知らぬ女が。


「え、えっと、ひと違いだったら申し訳ないんですけど……」


 この公園に通うようになってから知らない相手に声をかけられたのは二度目だ。

 一度目はやけに色白で整った顔立ちのイギリス人だった。

 あれからまだほとんど時間も経っていないというのに今度は女か。

 今回の相手はどうやら日本人のようだけど。


「ぶ、ぶしつけにすいません。でも、あの、もしかして──十年くらい前、駅前でよくギター弾いてた方じゃありませんか……?」


 やがてグロスでつやめいた女の唇から零れたのは、予想だにしていなかった言葉だった。


 これで自分は御役御免おやくごめんだとでも言うように、そのときスマホがまぶたを閉じる。


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