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 悪魔と呼ばれる存在はいわば人間の負の感情の集合体だ。それも死者の魂から悪い部分だけが寄り集まって、やがて自我を得たものをそう呼ぶ。死神にきちんと導かれなかった魂は長いあいだ放置されると、生前の未練や生きている人間たちへの羨望、あるいは敵意によって悪霊へと身を落としていくことがある。そんな魂がいくつも惹かれ合って、ある日忽然と生まれ落ちるのが悪魔という存在だ。

 そうして一個の人格を得た悪霊たちの集合体は、現世への執着からくる飢えと渇きに苦しみ始める。彼らを苛む飢餓感は普通の食べ物では癒やされない。

 悪魔の苦しみをほんの一時いっときやわらげてくれるのは瑞々みずみずしい人間の魂だけ。

 だから彼らはひとの魂をえぐして食べる。

 されど魂というものは往々にして現世と固い絆で結ばれているものだ。これを肉体から引きずり出して食べるというのは、実は存外難しい。現世との絆とはすなわち、ひとの魂に与えられた加護であるからだ。だから悪魔はひとをたぶらかす。加護という名の鳥籠かごから魂の小鳥を誘い出し、ぱくりと食べてしまうために。


 けれど乱暴な者になってくると、もっと手っ取り早い方法で魂を掠め取ろうとする。すなわち人間を殺害して、魂が肉体から離れたところを丸呑みにするのだ。

 もちろん死が差し迫った人間のところへは死神ぼくらが順次派遣されるから、ひとを殺して食べるという行為には大いなるリスクが伴う。

 次の看取り対象者の居場所が手紙や電報で知らされていた時代ならいざ知らず、電話ひとつで死神が現場に急行してくる現代において、そんなリスクを冒してまで魂を欲するのはよほど追い詰められた悪魔だけだろう。

 。悪魔たちは何らかの理由で死神に導かれず、現世に留まった死者の魂をよく狙う。すでに肉体を失い、剥き出しの状態でさまよう魂ならば死神に見咎みとがめられることなく食べることができるからだ。


 悪魔に食われた魂はの一部として取り込まれ、個を喪失し、永遠に繰り返される飢えと渇きのループに囚われひとを襲う。その連鎖を止めることなく傍観していると最終的にはどうなるか、答えは言うまでもないだろう。

 ゆえに僕たち死神は今まさに死のうとしている人間の魂だけでなく現世をさまよう死者の魂をも探し出して導く必要がある。僕らはこれを「送り業務」なんて呼んでいるけれど、この送り業務に上司からの指示はない。あるのは月のノルマだけ。

 おかげで死神たちは数字に追われ、看取り業務の合間を縫ってさまよえる魂を探し出す。真面目に成果を出さなければ、より業務が多忙で過酷な地域へ左遷されることを誰もが承知しているからだ。「アケロン川の対岸のことは死神たちの自主性に任せる」なんて言いながら結局は手綱を握って離さないあたり、僕らの上司は本当に有能だなとため息をつきたくなった。


「いたよ。彼だ」


 朝食のあとチャールズが僕を導いたのは、市内にあるとある大きな公園だ。

 この街に住んでいる者なら知らない者はいない城址公園じょうしこうえんで、広大な敷地には緑が多い。ふと見渡せばあちらにもこちらにもたくさんのつぼみをつけた桜の木があって、もう少し季節が進めばきっと大勢の花見客で賑わうであろうことが容易に想像できた。蕾が開くのを促すように降る雨はやさしく、まさに〝催花雨さいかう〟という日本語がぴったりだ。日本人は自然の営みに情緒ある名前をつけるのがとてもうまい。

 僕がそんなことを考えながら振り向いた先に問題の男性はいた。

 年齢は三十代後半くらい。年齢のわりにややラフな格好をして、園内の遊歩道に設置されたベンチに腰を下ろしている。無精ひげをちょっと整えたような見てくれの顎ひげ以外には、特にこれといって特徴のない男性だった。ただひとつ奇妙な点を上げるとすれば、彼がいささか季節感に欠ける格好をしていることだ。


 上にはキャラメル色のダウンジャケット。

 下にはデニムの裾を収めるかたちでスノーブーツをはき、ご丁寧にマフラーまで巻いている。いくら雨天で肌寒い気温とは言え、あの装いはいささかやりすぎだ。

 端から見ればまるで彼だけが真冬に取り残されたかのよう。仮に彼が極度の寒がりなのだとしても、今の時期にあんな格好でうろつけば嫌でも人目を引くだろう。

 さらにもうひとつ彼には不思議な点がある。雨の中わざわざ濡れたベンチに腰を下ろして、傘もささずにずっとスマホをいじり続けていることだ。

 いくら小雨とはいえ未明から雨が降り続いているというのに、傘を携えてすらいないというのはどうにもおかしい。彼が英国人なら僕もさして気にしないもののここは日本で彼は日本人だ。日本人は英国人と違って雨に濡れることを極端に嫌う。

 ましてやあれほど熱心にスマホを覗き込んでいるなら、液晶が雨粒だらけになるのを避けたいと考えるのが普通だろう。


「……確かに彼は居残り人のようだね」


 僕はそのふたつの違和感の答えをそう結論づけてチャールズに伝えた──居残り人。それこそがなんらかの理由で現世に留まってしまったさまよえる魂の通称だ。

 彼らの姿は常人の目には映らないが、魂を視ることが仕事の一環である僕たちには当然視認できる。ついでに言うとセーフハウスの近所に住まう猫たちの中にも居残り人の姿が見えるものがいるようで、チャールズは彼らから男性の情報を得てきたと言った。ひとの身を借りている僕としてはにわかには信じがたい話だけれど。


「どう? これで少しは僕の話を信じる気になったかい?」


 そんな僕の心中を見透かしたようにツンと鼻を上げてチャールズが言う。得意満面の彼を一瞥いちべつした僕は適当に相槌を打ちながら、改めて男性に視線を戻した。

 見たところ彼はまだ生前の姿を保っているようだし、悪霊特有の混沌とした気配もまとっていない。

 ということは死んでからまださほど時間が経っていないか、あるいは自分が死んだことに気づいていないか。考えられる可能性があるとすればこのふたつだ。

 正解がどちらであるにせよ、居残り人というのは往々にして毎日の日課や死の直前の行動を無意識に繰り返す傾向がある。姿かたちは死亡した当時のまま、周りの時間が流れていることに気づかずに、ただ生前の行動を忠実になぞることに没頭するのだ。とすれば彼はおそらくああしてあのベンチに腰かけ、スマホを眺めるのが大切な日課だったのだろう。

 いや、もしくはあそこでスマホを眺めている最中に何らかの理由で死亡した?

 僕は考え得る可能性を絞るため、彼を真似て自分のスマホを取り出した。

 ブラウザアプリを開き、公園の名前に〝事故〟や〝事件〟といった単語を付け加えて検索をかけてみる。が、上がってきた検索結果の中にめぼしい情報は見当たらない。とすれば彼が亡くなったのはここではない別の場所の可能性が高いということだ。ならば僕がまず取るべき行動は彼の死亡日時とその現場の特定、及び家族構成等の身辺調査……これはまた骨が折れそうな案件だ、と、僕は葉が落ちたままの銀杏の木に背を預けながら嘆息をついた。


「……チャールズ。彼はどうして今も現世に留まっているんだと思う?」

「さあね。どこかの死神が仕事をサボったか、はたまた強い未練があって魂の臍の緒がちゃんと切れなかったか……ただ彼はああして日がな一日スマホを眺めているだけで、どこかへ移動したり他の行動を取ったりすることはないみたいだよ。トラキチが毎日様子を見にきてるらしいけど、彼があそこから離れるところは見たことがないって言ってたし」

「トラキチ?」

「……うちの近所のボス猫だよ」


 さっきまでの得意顔はどこへやら、途端にそっぽを向いてチャールズは答えた。

 なるほど、彼が今回僕を強引に連れてきたのはボス猫直々の命令だったからか。

 もしかすると新参者の彼は猫たちの間で肩身の狭い思いをしているのかもしれない。だとしたら気の毒だ──と僕が言うと彼は皮肉として受け取るだろうから、あえて触れないでおくけれど。


「だけどもし後者だとしたら」

「うん。まずは未練を断ってあげないことには冥府送りは難しいだろうね。あるいは彼がすでに死亡していることを強制的に自覚させて一旦悪霊に堕とすかい? そうすればあとは鎌でバッサリ斬るだけだ。冥府送りよりはそっちの方が遥かに楽で簡単だけど」

「チャールズ。救済の見込みがある魂を故意に悪霊へ堕とすのは重罪だよ」

「故意じゃなければいいんだろ。悪魔の件があるから急いで対処しようとしたら、対象が取り乱して悪霊化してしまったということにすればいいじゃないか」

「そんな杜撰ずさんな嘘があの上司に通用すると思うのかい?」

「いいや、まったく思わないね。だから言ってみたんだ」


 ひねくれた使い魔の言動に僕は二度目の嘆息をついた。無駄な会話に時間を費やしてしまった、と言いたいところだけれどチャールズの言うことにも一理ある。

 確かに彼のような居残り人にとって悪魔の存在は脅威だ。昨日このあたりに出没したという悪魔が彼を食糧として発見すれば、事態は最悪の結末を迎える。

 それを未然に防ぐためには可及的すみやかに彼を冥府へ送らなければならない。

 けれどもし彼が強い未練によって現世へ舞い戻ってきた魂ならば厄介だ。

 そういった魂は原因となった未練を解消し、魂と現世とをつなぐ〝へそ〟を切らなければ何度冥府へ送っても現世へ戻ってきてしまう。

 だから僕たち死神は死ぬ寸前の人間が未練を残さぬように振る舞うのだけれど、彼を看取った死神はそのあたりのケアをおざなりに済ませたか、そもそも臨終に立ち会うことをしなかったらしい。まったく迷惑な話だ。


「とにかく本人に話を聞いてみようか。〝make hay while the sun shines〟だ」

「今日はあいにくの雨だけれどね」


 チャールズの皮肉は聞かなかったことにして、僕は木陰から一歩踏み出した。

 セーフハウスを出たときよりも少しだけ雨脚が強まったような気がする。


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