幕間

黒猫とワルツ


「やあ、エリー。久しぶり。ここへ戻ってくるのはいつぶりだろうね? しばらく掃除をサボっていたからずいぶんほこりっぽいよ。あとで彼を呼んできて掃除させないと。いつまたロンドンにとんぼ返りさせられるか分かったものじゃないからね。だけど僕たち、日本に赴任して今日で一年になるんだ。あの国はなんというか、そう、おもしろいよ、うん。同じ島国だし、なんとなく英国に似ているんじゃないだろうか、なんて行く前には思っていたけれど。全然違ったね。全然違うよ。特に僕らとの宗教観の違いにはおどろいた。だって日本では僕らの上司の呼び方が八百万通りもあるっていうんだよ? あんなのさすがの僕でも覚えきれる気がしないね。まあ、日本でも百年働けって言われたら話は別だけどさ。百年もあれば百万通りくらいは覚えられるかな? だけど百年──そう、百年だよ。僕たちがハロッズで一緒に買い物をしたあの日からもう百年も経つんだ。信じられる? 僕は君の笑った顔も、れてくれた紅茶の味も、無器用なアイルランド訛りだって昨日のことのように覚えているのに。シェイクスピアは『マクベス』の中で〝どんな嵐の日にも時間は経つものだ〟とうたったけれどね。どんなにときが流れても去らぬ嵐もあるのだと、僕は最近そう思い始めているよ。いや、あるいは僕が自分で引き止めてしまっているのかな。嵐よ、去らないでくれってね。君は今頃どこかで真新しい人生を謳歌しているだろうに。こんなところでいつまでも嵐に吹かれている僕をバカだと笑うかい? いや、君なら眉を吊り上げて怒り出すかもしれないね。いつまでそんなところにいらっしゃるんですか、風邪をひきますよって。だけどしょうがないじゃないか。だって彼がいつまで経っても目覚めないんだ。僕でさえ二十年かそこらで目が覚めたのにだよ? まあ、そのあたりは個人差があるそうだし、彼という人間はそれだけ世界に対して心を閉ざしていたのだろうと一応の理解は示しているのだけれどね。いや、あるいは僕が悪いのだろうか? 思えばムギンはときどき腹が立つくらい要領がよかったから。あの老鴉ろうあは本当に食えないやつだったよ。あいつも今頃どこかで生まれ変わっているのかな。僕もそろそろそちら側へ行けるといいのだけれど。だけど彼の魂は無事によみがえるだろうか。よみがえるとしたら何色に色づいていると思う? 君は彼のことなんて考えたくないかもしれないね。僕も百年前はそうだった。だけど今はどちらかというと興味の方が勝っているんだ。薄情だ、なんて怒らないでおくれよ? 僕だっておどろいているんだから。ああ、認めるのはしゃくだけど、シェイクスピアは半分正しかったということさ。さっきはああ言ったけど、彼、日本に行ってから少しずつ変わり始めているんだ。もしかしたら僕らの再会は存外近いところにあるのかもしれないね。また会える日を楽しみにしているよ、エリー。そのときはどうか僕と一曲踊っておくれ。情けないことに、レディを舞踏に誘うのはこれがはじめてなんだけどさ。君とならとびきりのワルツを踊れそうな気がするんだ。だからいつか迎えにいくよ。それまではもうしばらくこの嵐と一緒に踊ろうじゃないか。だってせっかく魂があるのだから。ああ、何度朝を迎えても悲しみが色褪せないって素晴らしいね、エリー。願わくば最期の瞬間、僕の視界を彩る魂が、君の瞳と同じ色でありますように」


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