***


「ふむ。ようやく君にも白馬の王子様が現れたということかもね」


 僕が食後酒の赤ワインを片手に呟けば、グラスとデカンタを運び終えたエリーが「え?」と、見るからに浮ついた様子で首を傾げた。


「そのオストログ君という青年のことだよ。君の見立てでは年齢もそう離れてはいないのだろう? 恋人が次期執事だなんて将来安泰じゃないか」

「い、いやですわ、旦那様。彼とは今日会ったばかりなんですよ。それに次期執事だなんて、使用人を雇わない家が増えているご時世に……」

「だけど下僕はともかくとしても、今や貴族たちは執事のいない生活なんて考えられないだろうからね。仮にバスカヴィル家が傾いて解雇される憂き目に遭ったとしても、第一下僕を勤め上げた彼の実績は必ず評価されるはずさ。まともな紹介状さえ得られれば、他の家で執事として雇われる可能性は充分にあるだろう」

「そ、そういうものでしょうか」

「そういうものだとも。しかしまあ、街角でたまたま肩がぶつかったというだけで、お詫びに荷物持ちを申し出てくれるとはなかなかの紳士だ。この好機を逃す手はないと思うけれどね」

「そっ、それとこれとはまた別のお話ですわ」


 上擦りかけた声でそう言って、エリーは逃げるように地下の厨房へ姿を消した。

 ……あの慌てぶり、単に恥ずかしがっているというよりはなにか隠しているような気がするのだけれど、まあ、彼女が嘘をつきとおせるとも思えない。

 とすれば答えはじきに分かるだろう。僕は最近手に入れたプルーストの新作を読みながら食後酒を堪能し、物語のきりがいいところで懐中時計を取り出した。

 時刻は二十時を回ろうとしている。エリーはそろそろ帰る時間だ。

 僕はいつもテーブルの隅を特等席にしている呼び鈴を鳴らした。

 普段よりほんの少し時間をかけて、エリーが厨房から顔を出す。


「そろそろ二階うえに戻るよ」

「かしこまりました」


 エリーがグラスを片づけるのを後目に、僕は狭い食堂をあとにした。

 書斎に行って適当なところに本を置き、二階の衣裳室へ足を向ける。

 夕食の後片づけを終えたエリーが地下から上がってくる頃合いを見計らい、一階へ下りてコートを羽織った。同じく帰り支度を整えて現れた彼女は、玄関の前に佇む僕を見るやぎょっと目を見開いている。


「旦那様、お出かけですか?」

「ああ。ちょっとキングス・クロス駅の方に用があってね」

「ですがもう遅い時間ですよ。雪も降り出しましたし、お出かけなら明日になさった方が」

「ひとを待たせているからそうもいかないのさ。もののついでだ、駅まで送ろう。今夜は汽車で帰るといい」

「よろしいんですか?」

「どうせ馬車を掴まえるつもりだしね。こんな寒い夜くらい楽をしたって罰は当たらないさ」


 エリーは束の間逡巡しゅんじゅんしていたけれど、やがて礼を言うと手にしていたコートを羽織った。普段は地下の勝手口から出入りする彼女のために玄関を開け外へと促す。ちらちらと小雪舞うロンドンの街並みを、霧をまとったガス灯がぼんやりと照らしていた。僕とエリーは公園の方まで歩いていって、客待ちしている辻馬車を見つけるとキングス・クロス駅まで同乗する。馬車の小窓から見える景色は閑散としていた。雪が降っていて寒いからというのも理由としてもちろんあるのだろうが、それにしたところであまりにもひとけがなさすぎる。どんなに耳を澄ましても聞こえるのは僕らを乗せた馬車の車輪とひづめの音、そして馬の息遣いだけ。


「……静かですね」


 同じことを考えていたのか、反対の窓から街を眺めたエリーがぽつりと言った。


「今はロンドン中のひとびとがおそれおののいているからね。十九世紀の怪物に」


 僕が何の気もなしに答えると、エリーが隣で微か身震いしたような気がした。


「事件は今回も迷宮入りしてしまうのでしょうか」

「さてね。警察も今度の捜査には威信をかけているだろうから果たしてどちらが勝つのやら。すでに七人も殺されている時点で警察の負けのような気もするけれど」

「おそろしいですわ。産業革命が起こって、時代は大きくうつろったはずなのに、一体いつになったら世の中からひと殺しというものがなくなるのでしょう」

「それはこれからドイツやオーストリアと殺し合いをしようとしている祖国への皮肉かな?」

「そう取っていただいて構いませんわ。だって戦争が始まってしまったら、旦那様も軍からお声がかかるかもしれないでしょう?」

「そうだね。そしてたぶんオストログ君にも召集令状が届くだろうね」

「どうしてそこで彼が出てくるんです?」

「答えは僕より君の胸に訊いた方が早いんじゃないかな?」

「……旦那様はひとが悪いです」

「ありがとう。よく言われるよ」


 エリーは子どもみたいに唇を尖らせ、ぷいっと僕から顔を背けた。

 会話の絶えた僕らに代わり、馬車だけが饒舌じょうぜつに夜道を行く。

 ガス灯からガス灯へ渡り歩き、馬車はついに駅へと到着した。僕は馭者ぎょしゃに少しだけ待っているよう声をかけると馬車を下り、エリーへ手を差し伸べる。


「足もとに気をつけて」


 エリーはほんの一瞬戸惑ったあと、おずおずと僕の手を取った。彼女の靴が慎重にタラップを降りてくるのを見届けて、僕は抱えていた杖を持ち直す。


「駅のホームまで送ろう」

「いえ、そこまでは。お気遣いは嬉しいですけれどひとを待たせているのでは?」

「そう言えばそんなことを言ったかもしれないね」

「え?」

「いや、ちょっとくらい構わないさ。あんなやついくらでも待たせておけばいい」


 エリーは怪訝けげんそうにしながらもそれ以上は追及してこなかった。

 駅へ入り改札をくぐった僕は彼女が列車に乗り込んだのを確認すると、挨拶代わりにひょいと中折れ帽を持ち上げる。


「じゃ、僕はここで失礼するよ。帰り道に気をつけて」

「ええ。旦那様、わざわざありがとうございました」


 座席の窓を押し上げてエリーは律儀に礼を言った。僕はついいつもの当てこすりを返しそうになったものの、今夜くらいはやめておこうと寸前で口をつぐむ。

 だってこれは今日、新たな門出を迎えるかもしれない彼女へのささやかな祝福なのだ。僕はジェイムズ・オストログという男の顔も人柄も知らないけれど、エリーの心を動かしたということは、きっと彼女を託すに値する好青年に違いない。

 ならばエリーから自信を奪うようなことはもうやめて彼女を送り出さなければ。

 エリーは言動にやや険があるところを除けばまっとうな人間だ。ならばまっとうな異性と恋に落ち、まっとうな余生を送ってほしい。間違っても郷紳の息子をかたって人間界に潜伏する死神なんかに人生を狂わされていい女性ではないのだから。


「ではまた明日。よい夢を」


 僕は持ち上げた帽子を被り直すと、それだけ告げてきびすを返した。

 乗務員の鳴らす笛の音が響き渡り、じきに汽車が走り出すことを予感させる。


「あの、旦那様!」


 ところが改札を目指して歩き出した僕の背を、笛のにも負けない女性の声が追いかけてきた。

 どうしたのかと振り向けば、車窓から身を乗り出したエリーの姿が目に入る。


「旦那様、私……私は──」


 その一瞬、エリーはひどい熱病に浮かされているみたいに見えた。潤んだ瞳から注がれるすがるような眼差しは僕になにかを求め、訴え、夢を見ている。

 だから僕はあえて彼女の切望に応えなかった。ただ帽子のつばを下ろし、じっと言葉の続きを待つ。汽笛がエリーを夢から呼び覚ました。産業革命がもたらした巨大な鉄の百足ムカデが、白い嘆息を吐き出して今にも動き出そうとしている。


「あの──旦那様もお気をつけて。あまり遅くならないうちにお帰りになってくださいね」

「ああ。善処するよ」

「それから、お友だちはなるべく大切になさった方がよろしいかと。旦那様はただでさえひと言多いんですから、礼節を欠いたお振る舞いばかりされていると愛想を尽かされてしまいますよ」

「……そっちも善処するとするよ」


 可能な範囲でね、と付け足せば、エリーはちょっと困ったような、呆れたような、泣き出しそうな顔で笑った。彼女を乗せた百足はやがて僕の前を通りすぎ、ロンドンの夜に吸い込まれていく。列車が走り去ったのを見届けて、僕はやれやれと肩を竦めた。今度こそ踵を返して馬車へ戻り、寒空の下待たせてしまったことを馭者に詫びながら自邸じたくへ帰る旨を伝えて席に着く。

 鞭で打たれた馬車馬がいなないて、もときた道を戻り始めた。ひとり分ぽっかり空いた隣の席をそのままに、僕は頬杖をつきながら帰邸きたくする。

 いえの玄関をくぐる頃には柱時計が二十二時を告げようとしていた。僕は適当にコートを脱いで書斎へおもむくと気晴らしに書斎机の前に立つ。部屋の隅にはチャールズがいた。一脚だけ置かれた椅子の上に座り込んで、物言いたげに僕を見ている。


「……なにか言いたいことがあるならどうぞ?」


 彼の視線に耐えかねた僕はあえて沈黙を破ってみた。するとチャールズは半眼になり、ぺろっと鼻先を舐めたのち椅子を下りてどこかへ行ってしまう。……まったく愛想のない猫だ。僕はため息をつきながら机の四隅を操作して天板をはずした。

 この世で僕と上司しか存在を知らない宝箱。そこに収められた無数のガラス瓶の中から特に気に入りのものを取り出した。頭上で皓々こうこうと光り輝く電気照明に瓶をかざし、未だ衰えぬ瑞々みずみずしい色彩に思わず恍惚こうこつと目を細める。


「……ねえ、エリー。僕が君を雇ったのは、君の瞳にひと目惚れしたからだと言ったなら、君はどんな顔をするのだろうね?」


 彼女は可笑おかしいと言って笑うだろうか。できればそうであってくれると嬉しい。

 だって自分でも可笑しいのだ。僕ら死神はひと晩眠るごとに、大事に抱えていたはずのありとあらゆる感情をどこかへ落としてきてしまう。

 だからいつもからっぽの朝を迎えて、そして毎朝君の瞳に恋をするんだ。


 ねえ、エリー。


 こんなのって、下手な喜劇よりよっぽど喜劇だと思わないかい?


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