「おーさかせんせー?」


 この年になって迷子の心細さがわかった気がする。じつに情けない声で、その名を呼んだ。

 しかし、どこからも反応はない。ていうか、始めからいなかったのかもしれない。

 僕はケースを抱きかかえ、窓に沿って牛歩のごとく、音楽室のある別棟へ戻った。

 それにしてもこんな暗いところをよく走ってこれたなと、自分自身で感心した。

 どうにか準備室へ着いて中を覗けば、逢坂先生はあくびを噛み殺しながら携帯をいじっていた。僕に気づくやさっと畳み、ポケットへしまう。

 ……情けない声で呼んだりして、めちゃハズい!


「ここにいたんですか。てっきり一緒だと思ったのに」

「いや。場所わかんねえからな、俺」


 まあ、そうですけどー。

 僕は尖らせた口の中でもごもご言いながらフルートを棚へ返した。


「見つかったか。よかった」

「あ、はい。ほんとすみません。お騒がせしました」


 改めてきちんと頭を下げ、よしと頷いてから、僕は準備室を出ようとした。

 しかし後ろから二の腕を取られ、その足を止められる。

 僕は珍しく、なにを言われるか直感的にわかって、振り返りもしないで腕を引いた。

 きょうはそう簡単には離してもらえない。


「なあ。すいませんついでにもう一つあるだろ」

「……」

「お前、俺を避けてたよな」


 やっぱり逢坂先生は感づいていたんだ。


「俺、お前になんかしたっけ」


 後頭部に降り注がれる言葉が心臓にまで到達する。

 先生は、酔っ払った僕を介抱してくれたり、美味しいラーメンを奢ってくれたり、ここ最近はよくしてくれてばっかりだ。……だから。自分に原因があると思わなくていいのに──。


「心当たりをずっと探してんだけど見つからねえんだわ。降参するから教えてもらえるとありがたい」


 僕は口を曲げて首を横に振った。


「……逢坂先生はなにもしてません」

「じゃあ、なんだよ」


 まだ掴まれている腕が絞られる。目を伏せるだけの僕を諌めるように逢坂先生が力を入れた。

 ちょっと引かれもする。


「たぶん僕の勘違いなんです……」

「だから、なにを」


 なかなか打ち明けられない僕にいらいらしているのはわかった。ここまできたら話すしかないことも。

 僕が望んだ手も差し伸べられている。

 それなのに、先生をいざ目の前にすると言い出せなかった。

 だって、男の僕と「できてる」なんてウワサ、不愉快この上ないことだ。どうせウワサになるなら、もっと立派できれいな人のほうがいい。

 そうやって考え込んでいたら、僕の腕にあった手が急に離れた。


「俺には相談の一つもできねえか」


 僕は見上げた。


「たしかに俺は、お前の大事な場所を、自分にはどうでもいいって投げやりにした。それでも、俺と出会えたからここへ来てよかったって、お前は言ってくれた。だからもう一度、教師ってもんと真剣に向き合ってみるかと思えた」

「……」

「それの礼ぐらい、させてくれたっていいだろ」


 とてつもなく胸にがつんとくる言葉だった。

 後輩にすぎない僕の話で、心を動かしてくれたのも嬉しかった。そして、それをちゃんと伝えてくれたのにも。

 こういう人と一緒にいられたら。同じ仕事をずっとしていけたら、人間としても成長できる気がした。


「渡辺」

「僕はただ逢坂先生に迷惑をかけたくないんです」

「迷惑? いやいや。話聞かなきゃ、それが迷惑かどうかなんてわかんねえじゃん」


 眉根を寄せ、僕は唇を噛みしめる。


「そんな顔すんなって。……てか、そんなに言いたくねえのか」

「すみません……」

「ま、だったらいいわ」


 さっきの言葉さえなかったかにするように、逢坂先生は背を向けた。

 このまま別れてしまっていいものか。僕が混乱しているうちに、先生は身を翻してきた。

 びっくりして足を引いたとき、僕はバランスを崩して倒れそうになった。そこを、楽器の棚に受け止められる。

 後ろ手になんとか棚を掴んだ僕が体勢を整えていると、逢坂先生が両手を振り上げて天板を掴んできた。

 楽器のケースが一斉にがたがたいう。


「なんて何度も言えるほど俺の心は広くねえ。いいか。いますぐ吐かねえとキスすんぞ」


 逢坂先生の唇へ反射的に目がいった。若干切れ上がっていて、ほどよく厚みのあるそれが動く。

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