1話「海より生まれいずる」

 ああ・・・

 なんて綺麗な青空なんだろう



 見上げる視界の全てが真っ青で白いふわふわの雲が所々に浮いている。抜けるような明るい青がしずくの目に爽やかに染みた。


(あぁ、とっても綺麗・・・)


 このままずっと眺めていたい、そう思うほど鮮やかな青い空。

 でも、ふと引っかかった。


(・・・・・・青空?)


 今、なぜ青空を見上げているのだろうかと微かに疑問が浮かぶ。


(私、夕日を見ていたような気がする・・・)


 【心が目覚める】という表現が近いと思える感覚だった。






 柊雫ひいらぎしずくは海の中に立っていた。


 胸まで水に浸かって揺れる波に体を預けて、前後にゆっくり揺れながら立っている。学生服のスカートが水の中で浮きながらふわふわと揺れるのを感じていた。


 空から目を転じてみると目の前に白い砂浜があることに気付く。透明な水が寄せては返し心地よい海辺の水音をたてている。


 誘われるように足を一歩進めると水の抵抗を感じた。


 海からあがろうとする雫を引き留めようとするように、重みを持った水が体にまとわりついてくる。一歩一歩と進める靴底から砂がサラサラ流れる感覚が伝わってくる。


 水を掻き砂に埋まりそうになる足を引き抜いて浜辺へ進む。


 打ち寄せる波がくるぶしを撫でる所まであがってきた雫は後方を振り返ってみた。どこまでも続く広い青が真っ直ぐに線を引いて水平線を描いている。


「海・・・? どうして海にいるの?」


 今、海にいることが変だということは分かる。でも、自分が先ほどまで居た所が何処だったか・・・にわかには思い出せない。ここじゃないことだけは確かだった。


「ここは・・・どこ?」


 首を巡らせて見えるのは真っ白な砂浜と透明で色鮮やかな海、そして青空と白い雲。砂浜の向こうには草原が広がっている。

 雫が立っているこの場所は、海岸と草原が左右に延々と続き先が見えない場所だった。


(どこまで続いてるんだろう・・・・・・)


 霞む先を見つめて雫は立ち尽くしていた。ここはいったい何処なのかという疑問が頭の中をふわふわと漂う。


 戸惑う雫の側を心地よい風が吹き抜けていく。


 雫のスカートが軽やかに風に揺れいる。

 つい先ほど海からあがったばかりで濡れてるはずの服が、さらりと乾いているのが不思議だった。靴も濡れていない。


 触れてみると髪もすっかり乾いていた。初めから濡れていなかったみたいに。


「・・・不思議」


 改めて手で触れて制服を確かめる。ブレザーもスカートもまったく濡れていない、濡れた気配すらない。全く。


 手のひらをまじまじと見つめ、しゃがんで砂にも触れてみる。ちゃんと砂に触れている感触がしている。寄せる波に触れても同じように水の感触がある。


「しょっぱ」


 舐めると塩味がした。海らしい海。

 どうやら夢を見ているわけではなさそうだ・・・と雫は思う。


(でも・・・何だか不思議)


 雫はしゃがんだまま海を見つめた。

 何も思い出せない。頭が真っ白で思考が停止しているような、ふわっとした感覚でぼーっと海を眺めていた。


「・・・・・・え?」


 見つめる先、海の中から人の顔が現れて雫はどきりとする。


 ぬるり・・・と表現したらいいのだろうか。舞台の下からせり上がって人が現れる様に海面に人の顔が出現した。その人はゆっくりと岸へ歩いて来る。


 悲しく暗い表情の女の人が海から上がり雫の脇を通って草原へと歩いていく。


(死んだ人みたい・・・)


 何故か目がそらせず、その姿を追ってしゃがんだまま雫は彼女を見つめ続けていた。

 彼女はゆるゆると歩き続け草原をしばらく歩いて・・・、唐突に座り込んだ。その姿は糸を切られた操り人形のように見えた。


 雫はそっと立ち上がって彼女の後ろ姿を見ていた。

 見ているしかない。彼女の為に何かをしたいわけではなかったし、何が出来るかすら分からないのだから。


 ふと彼女から目をそらすと彼女以外にも海岸や草原に人がいる事に気づく。ちらほらとまばらに人影が見える。


 海岸に人がいておかしいことはないのだが、何か違和感があった。


「みんな・・・ひとりぽっち・・・・・・」


 皆ぽつりぽつりと所在なげにしている。


 友達と集まっていたり恋人と仲睦まじくしている光景は何処にもない。それぞれに佇んでいたり座り込んでいたり、皆ひとりで黙りじっとしている。


 南国のリゾート地に見える景色が、人々の発する気配との間に違和感を際だたせていた。


 雫は心がざわついて両手を胸に当ててみる。


(何か・・・大事なことを忘れている)


 大事な事だ、思い出さなければいけない重要なこと。


(そうだ、ここは何処なんだろう? 私、何でここにいるんだろう・・・)


 海を見て突っ立ったままの雫の前に、また1人海面から顔を浮かばせるのが見えた。


 白髪の老女だ。

 ウェーブのかかったショートヘアの彼女は、背筋のしゃんとした品を感じる人だった。明るい表情をして澄んだ目で辺りを見回し、老女はゆっくりこちらへやってくる。


「あらぁ・・・素敵ね、天国のイメージにぴったり」


 両手を合わせた老女は、少女のような表情で嬉しそうに雫に話しかけてきた。


(天国?)


 何を言っているのかと雫は彼女を見つめる。


「でも、貴方のような若い方がいるなんて少し変ね。高校生かしら?」


 そう言って彼女は雫に笑顔を向けた。

 雫は頷きながら曖昧に笑顔を返し、彼女の言葉にどう答えたらいいか困っていた。


「貴方は誰? 私を迎えに来てくれたの? 私のお母さんじゃないわね、若い時の顔立ちとも違うもの」


 次々と質問をしてくる老女が雫の顔をまじまじと見てくる。


「あら、もしかして私と同じ死者の方かしら。そうだったら、ごめんなさいね」


 しまった! と言うように口元に手を当てて彼女は自分の頭をぽんと叩く。ひとつひとつが昭和なリアクションだがその仕草は年をとった彼女を可愛らしく見せた。


「三途の川がある筈だけど、あなた何処か知ってる?」

「さ・・・さぁ・・・・・・」

「そうよね、ごめんなさいね。あ、もしかして三途の川って何か知らないかしら?」


 雫が首を振るのを見て彼女は少し安心した顔をした。

 近づいて来た老女が雫の手を取って笑顔を向ける。しわしわでかさついた手から温もりが伝わった。


「こちらに来たら、さっさとお迎えに来てもらわないと右も左も分からないのに困るわよねぇ」


 優しい笑顔に雫も笑顔を返したが困惑もしていた。


(この人何言ってるんだろう。本気で死んだと思っているのかな? それとも、認知症ってやつ?)


 どう対処して良いか分からず「そうですね」とだけ言って雫は黙った。


「困ったわねぇ、どうしたらいいのかしら。死者をほっぽっとくなんて酷いわよねぇ」


 辺りを見渡す老女の横で雫は苦笑いして心の中で突っ込んだ。


(死者って・・・勝手に人を殺さないで下さい)


「キリスト教徒じゃないから天使のお迎えは期待してなかったけど・・・・・・誰も来ないわね。立ったままじゃ疲れそうだから、あそこにでも座っちゃいましょうか」


 雫は彼女の言葉に困っていたが、老女は雫も自分と同じ理由で困っている・・・と解釈したらしい。優しい声でそう言って草原を指さす。


「さ、行きましょ」


 軽く雫の背を押して老女はスタスタと草原へ歩いて行った。断る理由も特になくて雫も彼女に習ってついて行く。


 人に触れられたらそれを感じる。洋服も砂も海も触ることが出来てちゃんと感じるのに、これで死んでいると思うなんてこの老人は変な人だと雫は思った。


 でも・・・。


 ここが少し変だと言うことは雫も感じている。彼女の服もそうだが海から上がったばかりで服が濡れていない事や人が海から現れることも不思議だった。


 そうは言っても、天国はいくらなんでも飛躍しすぎだと雫は思う。きっとここが凄く乾燥しているだけに違いない。


 薬で眠らされて外国に連れてこられた・・・その方が雫には納得できた。死んだなんて言われても信じられない。足もあるし、ふわふわ飛んでもいなければ羽も生えてないし半透明の体でもない。


「あら! まぁ、素敵。なんて綺麗な彼岸花ひがんばななの!?」


 先に草原へ足を踏み入れた老女が声を上げた。飛び跳ねることはなかったが、少女のように弾んだ声で嬉しそうにはしゃいでいる。


「草原があっという間に彼岸花のお花畑よ。綺麗だわぁ」


 雫には今まで通りの草原にしか見えなかった。


(何を言っているんだろう。やっぱり、ちょっとアレなのかな?)


 彼女に引き続き雫も草原に一歩足を踏み込む。


 足を置いた途端だった。


「うそ・・・!」


 雫の足下からピンク色の小花が花開き、ぽっぽっぽっと次々に花が咲いていく。一気に伝播して見る見るうちに花畑になっていった。見える所全てだ!


 驚く雫の側で老女も景色に見惚れていた。


「綺麗よねー!」


 目をキラキラさせている老女が心なしか若々しく見えて、雫は目をしばたたいた。




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