4-4

「レ・シャトンで~す、よろしくお願いしまーす」


 炎天下の歩行者天国。人いきれと陽炎立ち上る路上で、この日美夜はバイト先の喫茶店のビラ配りに出ていた。

 この気温の中、夏仕様とはいえオールドタイプのメイド服は風通しが悪く、ひどく蒸し暑い。

 スカートをつまんでパタパタとさせてみるが、生ぬるい風が汗ばんだ腿を撫でるだけでちっとも涼しさを感じなかった。


「この制服可愛いんだけど、夏は暑すぎるのが難点にゃ~」


 頭上に頂いた猫耳も、真夏の暑さが堪えたのかどことなく元気がない。

 黒鴉の制服も黒で暑いといえば暑いのだが、こちらはアスファルトの放射熱がロングスカートの中に籠るため、丈の短い黒鴉の制服とは比べるまでもない。

 ――早く交代してお店で涼みたいな。

 手首にはめた腕時計で時刻を確認し、肩を落としてそんなことを心の中でぼやく。


「まだ交代までは時間あるし……あ~あ、ここにレイちゃんでも居てくれればなぁ」


 チラリと隣を横目で見やる。が、そこにレイちゃんの姿はない。

溜息をつき夏の暑さから逃避するように、美夜はしばし妄想に没することにした……。



『ねぇレイちゃん、今晩外食べに行こうよ!』

『そうだなー。美夜は何か食べたいものあるか?』

『レイちゃんとならなんだっていいよ!』

『――なんてな。そう言うと思って、夜景の綺麗なレストラン予約してあるんだ』

『ホントッ!?  嬉しい!』

『ちなみにホテルだからな。……今夜は寝かせないぜ』



「――あっ、レイちゃん……そんなにグイグイ来たら……ッ」

「あのー」


 あともう少しで事に及ぶ。そんな至福の妄想が、無粋な男の声音によって瞬時に霧散した。

 美夜はやさぐれた顔つきで振り返る。そこにはとぼけた顔をした冴えない眼鏡男子が。

 仕事のことも忘れ、盛大に溜息をついてしまった。


「はぁーー……」

「あ、あの、チラシください」


 気の弱そうな男の声が苛立ちに拍車をかける。

 ――が、仕事であることをようやく思いだした美夜は、刹那的に接客スマイルを浮かべ、


「あ、はーいどうぞー。レ・シャトンで~す、よろしくお願いしまーす」


 チラシを一枚差し出して、なんとか体面を繕う。

 嬉しそうにチラシを受け取った男が立ち去ったのを見届けると、美夜は妄想の続きに興じようと再び試みるが――。かき消えた映像は夏の暑さに阻まれ、脳内で再生されることはなかった。


「あ~つまんない。このままお家帰っちゃおうかな」


 この暑い中、皆が涼を求めて目的地を目指しているというのに、わざわざ立ち止まってメイド喫茶のチラシを受け取ろうなんて酔狂がいることの方が珍しい。別にノルマを設けられているわけではないため、手元のこれがなくなろうが残ろうが関係はないのだ。

 涼の一手段として喫茶を薦める。それももちろん目的の提供としては有りだろう。が、それは店側として立った場合だ。今の現状でも客の入りは悪くない。どころか繁盛している。猫カフェが併設ともなれば女性客も増えてくるだろう。

 故に、これ以上ビラを配って集客する必要性を、美夜自身あまり感じてはいなかった。


「あーダメダメ。暑さのせいで後ろ向きなことばっかり考えちゃうよ。……あっそうだ、人間観察でもして時間つぶそうかな」


 そうと決まれば早い。日陰に移動し建物に背を預け、美夜は行き交う往来を呆然と眺めた。

 喧噪に身を置いていた先ほどとは異なり、途端に世界の色が失われ流れが早くなる。どこか遠く耳奥で残響する騒々しさに、自分だけがここに取り残されているような錯覚すら覚えた。

 灰色の人の波が次々に浚われていく。そんな中、異様に目立つ黒を捉えた。

(――あれは、帯刀さん……?)

 見間違うはずがない。以前は頻繁に店に来ていたし、レイちゃんとも尾行をした。それに黒鴉の制服にも負けず劣らずの黒いスーツを、この炎天下で涼しい顔をして着こなすのは彼くらいしか美夜は知らない。


「どうしよう」


 依然として尾行の理由を聞かされていないが、見聞きしたことを報告すれば褒めてもらえるかも。理由を知らないためそれくらいしか出来ないが、それだけでも役には立てるんじゃ。

 美夜の中にレイちゃんへの欲求が小さく芽吹き――知らず、背中は壁から離れていた。



 人の波間をスムーズに進む帯刀の少し後方を、人混みをかき分けるようにして付いて歩く。

 以前、『俺よりも尾行下手じゃねえか』とレイちゃんに言われたが、あれは練習相手がレイちゃんだからであって、他人ならあんな失敗はしないのだ。

 しかしバイトの制服で尾けるとなるとあまりにも目立つ。美夜は帯刀が路地裏に入ったのを見ると、ちょうど近場にあったコンビニへ駆け込みトイレで素早く着替えを済ます。こんな時のために小型のトランクを持ってきておいてよかった。

 帯刀の歩く速度を考慮しつつ急ぎ出て、路地裏へ。数十メートル先を行く彼の背を見つけ、ホッと胸を撫で下ろす。

 距離を取りながらも見失わないようにしばらく歩くと、帯刀はなぜか漫画喫茶へ入っていった。


「マンガ好きなのかな?」


 なんてことを自問してみるも、すぐにそうじゃないと頭を振る。レイちゃんに問いただした時、危ないことなのを否定しなかった。あれは嘘じゃない。ということは、帯刀の目的はこれではない可能性が高い。尾行は継続するべきだと、美夜は自ら答えを導く。

 帯刀に倣い、漫画喫茶へと入る。彼が入った個室の近くが空いていたため、形だけそこを使用した。帯刀の気配に常に気を配りながら、美夜は何をするでもなく時を過ごす。

 そうして、動きがあったのは八時間ほど経った午後九時。受付で代金を払い終え外へ出ると、日が長くなった夏とはいえ、すっかり夜の帳が下りていた。

 街はネオンでキラキラと輝き、煌々と夜を彩っている。

 美夜は気を引き締め、尾行を再開した。夜は似たような服装の人間が増えるため、見失わないようにしなければならない。が、幸いなことに表通りを歩くことがほとんどないため、それは杞憂に終わりそうだ。

 相変わらず裏路地を蛇行する帯刀に付いていく美夜だったが。次第に不安を感じ始めていた。


「これだけ人目を避けるってことは、本格的にヤバいことなんじゃ……」


 自分の選択に少しだけ後悔しつつも、しかし――


「けど、レイちゃんに褒めてもらうためだもんね!」


 小声で決意を口にし、小さく拳を握る。もしかしたら見直してくれるかもしれない、そうしたら告白してくれるかも? 美夜の妄想は止まらない。

 夜目の利く猫の目が前方を行く帯刀を捉える。自然、綻んだ表情は精悍に引き締められ、黒鴉の貌へと切り替わる。

 いくつかの角を折れ、時には表通りを歩き、また裏路地を行くこと数十分。


「――ここは、公園?」


 以前にレイちゃんとベンチに座ったあの公園にやってきて、美夜は呆然と疑問をもらした。こんな時間になんの用があって……と。

 昼はあれだけ賑やかな公園も、夜は虫たちが小さく鳴くだけの静かな舞台と化している。吹きつけるそよ風は、少し汗ばんだ肌に適度な涼を与えた。

 水の止まった中央の噴水を帯刀が迂回したので、美夜も距離を取りつつ移動する。

 月光に縁取られた白亜の噴水彫刻が、冴え冴えとして冷たく酷く無機質に感じられた。

 レイちゃんと二人で掛けたベンチの後ろ、大きな木の裏側へと帯刀が消えていく。足音を殺し、気配も殺して美夜は木の陰に隠れた。息を潜めつつ、そろっと窺う。

 植込みの向こうから、話し声が聞こえる。音量が小さいため、会話の内容までは聞き取れない。

 ――が、帯刀が話しかけている人物を猫の目で認識したその時、


「なぎなぎ?」


 思わず声がもれてしまった。慌てて口を手で押さえるが隠れるのを忘れてしまい――


「マズっ!」


 帯刀と渚砂らしき女が揃って自分を見ていることに気づき、慌てて美夜は木の裏に隠れる。

 それにしても、なぎなぎの目が赤かったような? 今しがた見た人物を頭の中で再生していると、


「ふぅ……またお前か、鴉」


 低めた声音が耳朶に響いた。


「……また?」


 にしてもカラスとは……。もう夕暮れはとうに過ぎている。カラスも巣に帰り寝ている時間だろう。美夜はまさか自分のことだとは思わずに身を潜めていると、普段は聞き慣れない『カチャッ』という音が向こうから聞こえてきた。

 そう、それはまるで洋画のワンシーン。建物の陰に隠れる犯人を追い詰めた警察官が、拳銃のスライドを引いた時のような。

 まさか――、渋面を浮かべ向こう側を覗いてみる。明らかに銃口がこちらを向いていた。しかも銃身が長い。あれは見たことがある、サイレンサーとかいう棒だ。


「――――へ?」

「漫喫からずっと尾けていたな」


 言われ、本当はもっと前からなんだけど……。と、内心で呟く。

 そういえばレイちゃんもバレたって言っていたけど、どこからバレたんだろう。なんてことを考える余裕がまだ美夜にはあった。


「出てこい、」


 帯刀に言われ、いよいよ洋画染みてきたなと美夜は観念し、木から離れる。

 気づけばなぎなぎの姿はなく、向けられた銃口はすでに狙い定めたように、寸分もぶれることなく胸の辺りを向いている。


「――違ったか。――ん? おまえは……」


 帯刀はどこか怪訝な顔をすると、次の瞬間、突然鼻で笑うように微かに息を洩らす。

 そんな反応よりも、美夜の懸念は男が持っている物にあった。


「あの、それって本物ですか?」

「その体で試してみるか?」

「……いえ、結構です」


 たぶん聞く必要はなかったと、美夜は瞬時に思い至る。普段の実直で真面目な姿を見ている分には、冗談で偽物の銃を向けるような人ではないと思ったからだ。

 そうなると途端に恐怖を感じ始めた。膝がわずかに笑い、寒くもないのに鳥肌が立つ。悪寒に震える体を抱くように、右手で左腕を掴むと、


「お前に聞きたいことがある。質問に答えろ」

「それに答えたら帰してくれるんですか」

「――さっき口にした『なぎなぎ』。お前は渚砂お嬢様を知っているのか?」


 あれ、これは帰す気がない? それともここで始末するって意味かな?

 美夜の中で危機感が募るが、どの道答えないと殺されそうだから答える。


「知ってるっていうかなんていうか。うちで保護してますけど……」


 チラと顔色を窺う。思考の読めない猛禽類のような鋭い目が向けられていた。口元も真一文字に引き結ばれ、冷たく黒い銃と相まって恐怖を煽る。

 次の言葉を待つか悩んだが、反応もないし、これ以上の問答は精神的にキツい。質問にも答えたしいいだろう、そう考えた美夜はそろりと一歩下がる。


「じゃ、じゃあわたしはそろそろ帰りますので……」


 ゆっくりと背を向けて歩き出す。

 熊じゃないから背を向けて逃げてもいいよね。さすがに背を向けた相手を撃つなんて真似しないだろうし。

 一歩二歩と刻み、声もかからないことに安堵した美夜。

 歩みを通常に戻そうとした、そんな矢先のことだった。


「――えっ?」


 月明かりの夜空に、バスッと鈍い空気漏れのような音が響いたのは……。

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