(3)自分らしく生きる道

 

 銀色のナイフは、ハンカチに包まれたまま患者の上へと掲げられる。


 わかっている。このまま振り下ろしたのでは、すぐにリーゼの仕業とばれてしまうだろう。気づかれないようにするためには、患者の胸に巻かれている包帯を緩めて、そこから縫われた傷口の合間を刺さなければ――。


 わかっているのに、左手がふるえて、うまく包帯の結び目を解くことができない。ほんの少し緩めて、そこから刺すだけだというのに――!


 けれど、リーゼの左手が怖々包帯の結び目にかかったときだった。


 今まで目を閉じていた患者が苦しげに口を開けると、切れ切れに声をもらしたのだ。


 はっとリーゼは持ち上げていたナイフを下ろした。見れば、患者の指は、いつのまにか縋るようにリーゼのドレスの端を握っているではないか。


「たす……け、て……」


 患者の乾いた唇からこぼれた言葉に、雷に打たれたように眼を見開く。


 きっと自分を救貧院の看護師と勘違いしているのだろう。縋りつくようにもたれた指は、しっかりと服の裾を握り締め、まるで泣くように声を漏らしている。


「死にたく……な、い……。まだ、死にたく、ない……んだ……!」


(私はなんてことを――)


 とんと、持っていたナイフがハンカチごと患者にかけられた布団の上に落ちた。力もなく落とした刃物は、綿の上掛けに刺さることもなく、ただ跳ねて止まる。


「ごめんなさい……」


 もう少しで、カトリーレと同じになるところだった。


(処刑台で、あれほど無実で死にたくないと願ったのは私なのに……)


 今度は自分が、何の罪もない人を自分の欲のためだけに殺めるところだった。


 だから、とめどなくあふれてくる涙を拭いもせずに、縋ってくる老人の手を静かに取ってやる。きっと長い間、仕事一筋に打ち込んできた手なのだろう。関節が脹れて、ひどく肌は焼けていたが、手の平に刻まれた細かな皺で、彼がどれだけこの手だけで生きてきたのかがわかる。立派な――職人としての魂を感じさせる手だ。


 だから、裾を掴んでいた手を力をこめて握った。長い間炉の近くで作業をしていたせいだろう。赤く焼けた肌は、職人としての歳月を感じさせる。


「あ、あんたは……?」


 リーゼが握り締めたことで意識が戻ったらしい。苦しそうに薄く目を開いた男を見つめると、リーゼは更に一度強く握り締める。


「フェルカー卿からご紹介を受けました。一流の金細工職人だそうですね」


 言えば、男の目は辛そうに歪んだ。


「そうだ。いや、そうだった。だが、火事で工房も道具も全部なくしちまって、とても依頼を受けれはしねえ……」


 声に潜んでいるのは、悲しみだ。捨て鉢に呟きながら、今まで自分が培ってきた全てがなくなってしまったことに、絶望しかかっている。


 だからわざと、両手で手を握りしめた。


「何を言われます。まだあなたには、この手という技があるではありませんか?」


 男の目が驚いたように見開く。


「我がキーリヒでは、領地の発展に役立つ技術者をいつでも募集しております。私が領主への紹介状を書きましょう。ですから、治ったらぜひ我がキーリヒに、リリー・ウィンスギートの紹介だと告げて訪ねてきてください」


 名前は従妹の偽名だが、父に事情を話しておけば、リーゼが見つけた技術者だということはすぐに理解してもらえるだろう。


「もちろん、衣食住の面倒はみます。あまり高額でのお給料はお支払いできませんが、領地でやり直すのに十分なだけはあるはずです」


「あんた……女神様かい?」


 まさか、そんな言葉を言われるとは思わなかった。


「違います」


「へっ。そうだよな。神殿の女神様はなんもしてくれないもん。俺はあんたに会えて幸運だ」


 まさかそんな風に言ってもらえるだなんて――。


(そうよ。私が生きるために、私らしさを捨ててどうするの)


 きっとこれは自分が選ぶべき方法ではない。そう思うと、落としたナイフをハンカチに包んだまま、鞄から取り出した封筒と入れ違いに静かにしまえた。


(きっと、ほかにも方法はあるはず――)


 いくら自分に残された命が少ないとは言っても、まだ生きられる時間はあるはずだ。それならば、少しでも自分らしく生きられる方法を探そうと決めた時点で、ひどく心が明るくなった。


 だから、何通かの紹介状を書いて救貧院を後にしたときも、心はひどく軽くて足はスキップに近かった。


「良い技術者が見つかったみたいだな」


「ええ。一流の金細工職人よ! 治ったら、必ずうちに来ると約束してくれたわ。アンドリックは?」


 後で心臓に良く効く薬を届けさせようと考えながら馬車に乗ると、続いて側に座った従弟もにかっと笑った。


「俺も良い人材を見つけたぜ。腕っ節が強くてさ、聞けばずっと傭兵として活躍していたらしい」


「傭兵? でも、今は戦争もしていないけれど……」


「戦争がなくったって、領地では盗賊や流れてくる荒くれ者を取り締まる連中が必要なんだ。いくらうちが平和でも、ほかからわざと田舎を狙ってやってくる奴もいるしな」


「そうなんだ」


 ――いつの間にか、アンドリックがこんなにも成長している。


 伸びたのは背だけではなかったらしい。自分が見上げるほど高くなった従弟は、少しの間に自分では思いつかないところまで考えられるほど大きくなっていた。


 だから、赤毛の姿を見上げて、クスッと笑う。


「そこまでは気がつかなかったわ。ありがとう」


  言うと、明らかにアンドリックの頬が赤くなった。髪と合わせて、まるで全身が蛸のようだ。そして、気恥ずかしいのか、ふいっと琥珀色の視線を逸らす。


「ま、まあ――俺もキーリヒでは、子爵様のところの騎士団に混じって、盗賊退治とかをしていたからな」


「えっ!? アンドリック騎士になったの? いつの間に――」


「おう、俺は騎士になるのが夢だったからな! だからここ一年、頼み込んで入った騎士団で徹底的に腕を磨いて、やっと三ヶ月前に正式な騎士として認められたんだ」


 だから、今回都に行く子爵様の護衛にも認められたのだと話すアンドリックの顔は、本当に誇らしそうだ。


「そう――」


 どうして、一年前に騎士団に頼み込んだのか。きっと、アンドリックもあの事件で血反吐を吐くように苦しい想いをしていたのだろう。


(だけど、きっと乗り越えようと頑張ったのだわ――)


 どんなに苦しくても。


(それなら、私もきっといつかは乗り越えていけるはず……)


 だから、今は辛いことがあっても、とにかく前を向くしかない。


 ふと、思い出しそうになったイザークの面影を慌てて胸の奥にしまう。今思い出せば、きっと暗い顔をしてしまう。今でも、イザークを思い出すだけで、泣き出したくてたまらないのだから。


 だけど、ここまで付き合ってくれた幼なじみに心配はかけたくない。だから、わざと明るい声でおどけて誤魔化した。


「でも、アンドリックは昔からピーマンの実が嫌いだったから、今でも騎士団の食事では泣いていそうね?」


「ピーマンは人間の食べ物じゃない。だからいつもこっそりと馬にやっている」


 苦いピーマンの実を与えられた馬がどんな顔をしているのか――。


 きっと飼い葉を食べながら、文句のいななきをしたのに違いないと思うと、知らない間に笑みがこぼれてきてしまう。


 くすくすというリーゼの優しい笑い声が馬車の中に満ちた。


 そのまま、馬車は都の大通りに戻り、やがていくつかの通りを越えて、貴族街に並ぶ子爵邸の庭へと入っていく。


 だけど、まだ笑いが収まらない。


「お前が、とうもろこしをまだ食べられなかったら同じくらい笑ってやるからな!」


「おあいにく様。私は、缶詰にされていなければ平気ですよ――だ」


 ぺろっと小さな舌を出しながら、先に馬車を降りたアンドリックが差し出してくれた手のひらをとる。だけど、大きな手のひらになった。昔は自分と同じくらいで、よく大きさのくらべっこをしては勝ち負けを競ったものなのに――。


 男らしくなった従弟の手のひらを感慨深く見ていると、急に正面にある玄関の扉が開いた。そして弟のエディリスが息をせききって出てくる。


「姉さん! 大変だよ!」


 嫌な予感がしたのは、エディリスの顔色が真っ青になっていたからだ。だけど、エディリスは玄関を出るとそのまま馬車の側にいるリーゼへと駆け寄ってくる。そして、手に持った白い紙を掲げた。


「カトリーレ様から、手紙が来たんだ」


「カトリーレ様から!?」


 何のために――。


 不吉な予感に苛まれながら、リーゼは震える手つきで弟の持つ手紙を受け取った。

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