第2話 優先順位


 結衣と伊澄がぶつかった日から一週間が過ぎた。

 舗装された地面に落下したスマホは打ち所が悪かったらしく、画面が割れただけでなく操作も受け付けなかった。そのため、伊澄は喫茶店へ行く予定を変更して、すぐに携帯ショップに足を運んだ。そして、「時期的にも、修理よりは機種変更がいいですよ」と店員に勧められるままに端末を新しい物へと変えた。メッセージアプリはバックアップを取っていなかったため消えてしまったが、あのメッセージを視界に入れずに済むと思うと、沈んでいた気持ちも少し楽になった。


「――で? 伊澄さん、あの美人彼女さんと別れたんだって?」

「店員さん、お仕事してくれますか」


 現在、先週訪れる予定だった喫茶店に来ていた伊澄は、テーブルの横に立つ男性店員――杉江すぎえけいに、注文だけでなくプライベートについても訊かれていた。

 望んだ回答を得られなかった圭は、拗ねた様子で黒いエプロンから伝票を挟んだ細長いボードを取り出す。そして、既に聞いていた注文を書き込むと、素早く厨房に向かい、あっという間にテーブル横に戻ってきた。伊澄へと誇らしげな視線を向ける圭に、「俺、呼んでないんだけど……」と突っ込みを入れたところで彼が引き下がるはずもない。

 店内には他にも数人の客がいるものの、全員が注文後、もしくは注文していた物がきている状態だったため、急いで仕事に戻る必要はないようだ。ただ、私語のために残る店員は早々いないが。


「……誰から聞いたの?」


 伊澄と圭は中学時代の先輩と後輩という、かれこれ十年以上にもなる長い付き合いだ。活発で人懐っこい圭とは同じ委員会に所属していたことで知り合い、話す内に何故か懐かれたのだった。伊澄の同級生が理由を訊ねると、「緩い雰囲気で居心地が良いから」と何ともむず痒い言葉が返ってきた。また、この喫茶店は圭の祖父母が経営している店であり、調理系の専門学校を卒業した彼は喫茶店を継ぐことを夢見て働いている。

 そんな後輩の耳の早さにげんなりしつつ、伊澄は情報源を探るためにも質問を返した。答えは想像の斜め上をいっていたが。


「実は、伊澄さんの彼女……あ、元カノの友達の妹の友達の彼氏が俺の友達で」

「ちょっと待って。情報の伝達スピードがおかしい気がするんだけど」


 もはや彼女との接点はないに等しく、本当にそのルートで話が流れているのかと疑惑の目を向けた。

 だが、圭はルートを知っているせいかあっさりと言ってのける。


「ほら、伊澄さんって異性から人気じゃん。しかも来る者拒まず、去る者追わずな罪作り」

「…………」


 褒められた気がしないのは最後の一言のせいだろう。

 さらに、彼は追い討ちをかけるように言葉を続けた。


「伊澄さんって、よく刺されないよな」

「それは君には言われたくない」


 発言に悪意は感じられないが、それが却って相手を刺激して知らぬ間に恨みを買っていそうだ。伊澄は彼の性格を知っているため、後ろから刺そうとは思わないが。


「圭ー。ちょっといいかい?」

「……はーい」


 タイミング良く厨房から顔を出した店主が圭を呼び、圭は渋々ながらそちらに向かった。そのまま仕事に戻るかと思われたが、数分と経たない内に伊澄が注文したアイスコーヒーを持って戻ってきた。その後ろでは、店主の妻が厨房から出てきて料理を運んでいたが、それを圭にさせてくれと伊澄は内心で思った。

 テーブルに置かれたグラスの中で氷がぶつかり、涼やかな音が鳴る。

 一口飲もうとした伊澄に、圭は追究を止めなかった。


「何で別れたの? 結構、本気っぽかったのに?」

「……情報源に聞いて欲しいな。あと、今までが遊びだったわけでもないからね」

「いや、情報源に聞いたら『背鰭』がつくじゃん」

「『尾鰭』ね」


 微妙な間違いを正しつつ、果たして公共の場所で話すべきかと言葉に迷う。最初に彼の質問に答えたのが悪かった。後で答えるとはぐらかしておけば、彼はこの場では追究してこなかったはずだ。

 他の客の様子を窺いつつ、伊澄は圭に少し屈むよう手を小さく上下に振って示した。そして、素直にしゃがんだ圭に伊澄も背を少し曲げて顔を近づけ、手短に別れた理由を話す。


「俺が仕事ばっかりで相手にしなかったのが原因」

「あー、それでまた浮気されたと」

「声が大きい上に、『また』って言うな。俺にも非はあるんだし」


 姿勢を元に戻した圭は、気遣う様子のない普通の声量で言うなり、合点がいったように頷いた。浮気されたことは言っていないが、どうやら情報源から浮気の話まで伝わっているようだ。

 伊澄としては、別れたとは言え、彼女の悪い噂に繋がるようなことは大きく言いたくない。例え、ここにいるのが彼女のことを知らない人ばかりだとしても。破局が回り回って圭まで伝わったように、何処から彼女の耳に入るか分からない上、彼女に向けられる目が厳しくなるのも避けたい。

 また、伊澄も浮気をされるのが初めてではないため、自分にも問題はあるのだという自覚はある。


「非はあるって言っても、仕事優先にしたくらいだろ。確かに、優先しすぎるのも考え物だけど……何て言うか、伊澄さんの歴代彼女って『待て』ができない人が多くない?」

「うーん。それは犬みたいで例えが悪い気もするけど、俺が待たせすぎてるのもあるよ」

「けど、仕事してる姿に惚れて告白してくる人ばっかじゃん。元になった彼女も。それならちょっとくらいは待てないもんなの? どうなの? 俺、彼女は構い倒してうざがられるタイプだから分からん」

「……何事も限度ってものがあるからね」


 難しい顔をする圭に苦笑いを浮かべつつ、アイスコーヒーを口にする。

 仕事を優先する性格を直そうにも、もはや年齢的にも厳しい域に達しているのだ。また、仕事や私生活で困っていることもないので直す気も起こらない。

 圭はそんな伊澄を見て軽く息を吐いた。さすがにここでは言えなかったが、情報源からは、どうして知っているのだと言いたくなるような生々しい話を聞いている。事を始めようとした現場を目の当たりにして、よく相手に怒りを覚えないなと、呆れを通り越していっそ感心すらしてしまう。


「伊澄さんは、仕事の時はてきぱきしてるから、外見と合わせて『出来る人』になってハードル上がるんだろうなぁ。イケメンマジ爆発しろ」

「最後の暴言はともかく、普段は出来ない人って言いたいのか? ……いや、確かに両立は出来てなかったけど」

「『出来ない人』と言うか、普段は緩いじゃん。どうせ、『せっかくの休みだし、のんびりしよう』って彼女と会うこともしなかったんでしょ? あれ? これ伊澄さんにも非がある話になるな」

「分かってるからいいよ」


 元々、伊澄はのんびりとした性格だ。仕事は接客業でもあるため、手早くやらなければ他の人に迷惑がかかる。さらに、好きな仕事でもあるので、自然と早く動けているだけだ。だが、休日ともなれば服装はゆったりとした物が多く、ぼんやりとして過ごすことも多い。

 圭に指摘され、外出に誘われることもあったがペースはあまり合わなかったなぁ、と伊澄はぼんやりと思い返した。そして、色々なことが積み重なって、彼女を浮気へと走らせたのは間違いないという結論に至る。


「次は、性格も知った上で好きになってくれる人がいたら良いんだけど」

「んー……暫くはそういうのはいいよ」

「スマホ変えるくらい、今回はキツかった?」


 圭はテーブルの片隅に置かれたスマホが以前とは違うと気づき、そんなにショックだったのかと思った。

 しかし、機種変更の切っ掛けは別にあるため、そこは訂正しようと口を開く。


「いや、これは……まぁ、俺の不注意で落として割っちゃっただけで――あ」


 切っ掛けを思い出し、少女の顔が浮かんだところである物が脳裏に浮かんだ。固まった伊澄に首を傾げる圭をそっちのけで、財布から一枚のメモを取り出す。


「何それ?」

「……電話番号」

「誰の?」

「えっと……女の子の?」

「早速? さっきと言ってること違くない?」

「いや、これには色々とわけが……」


 圭がいる前で出すんじゃなかった、と後悔しても既に遅い。

 怪訝な顔をする圭にどう事情を説明するべきか。まるで浮気を問い詰められているようだ。

 ただ、下手に貰ったと言えば彼女の誠実な部分を踏みにじる気がして、伊澄は必死に言葉を探す。


「ええと、ちょっと、町でこの番号の子とぶつかって」

「少女漫画の話?」

「違う」


 出会い方としては典型的な少女漫画にありそうなシチュエーションだが、と内心でぼやきつつ、伊澄は説明を続ける。


「曲がり角の所でぶつかって、弾みで俺が持ってたスマホが落ちて割れちゃって……」

「どうせ元カノのメッセージ読んでたんだろ? そんなの読んでるから」

「圭、もしかして見てた?」

「いや、そんな二次元みたいなシーンあったら写真撮ってるね。伊澄さんと何年の付き合いだと思ってんだよ」


 的確に状況を言い当てた圭に恐怖を抱いたものの、彼は元々、変なところで勘がいい。今回もそのせいだと自分に言い聞かせたが、彼の予想は徐々にズレていった。


「あ。まさか、『弁償しろ』って連絡先聞いたの? ひどーい。先輩がそんな人だったなんてー」

「違うから。むしろ逆。話は最後まで聞きなさい」


 感情が籠もっていない声で非難されるが完全に言いがかりだ。

 誤解をされては困ると周りを窺うが、幸い誰も伊澄達を気にした様子はない。店員が長時間テーブルについているのも異様な光景なのだが。


「逆? もしかして逆ナン? これだから顔面偏差値高い人は……。伊澄さん、もうちょい顔面抑えてくれない?」

「ごめん、どういう意味?」


 何故か伊澄が責められている。それも生まれ持った顔を。

 暴走気味の後輩を宥めるのも億劫になってきた伊澄は、そのまま当時の話をすることにした。


「俺のスマホが壊れたのを見て、その子が弁償するから連絡してって渡してきただけ。色のある話じゃなくて、責任感の強い子だったって話」

「ふーん。じゃあ、掛けてあげたほうがいいんじゃない? 『機種変したから弁償しなくていいよ』って」

「わざわざ?」


 伊澄の中では終わった話だ。電話番号さえ忘れていたくらいに。

 個人情報なので相応の方法で処分はするが、掛ける気は起こらない。


「しないほうが気にするかもしんないだろ。建前上は弁償のために電話番号を渡してくるような子なんだし」

「その言い方、含みがあるなぁ……」

「伊澄さんが掛けないなら俺が掛けて言ってやるよ。ほら貸して」

「あ、こら! あたっ!?」


 仕事中じゃないのか、と内心で突っ込みつつ、スマホとメモを手早く取った圭に手を伸ばす。立とうとした弾みでテーブルに体をぶつけ、グラスが揺れる。

 慌ててグラスを押さえたため中身は零れなかったが、圭は伊澄に背を向けてスマホを操作していた。


「うわ、ちょっと伊澄さん。ロックくらい掛けときなよ。落としたとき大変だぞ」

「肝に銘じておくよ。落としてなくても勝手に触られるって」

「そうそう。俺みたいなのとかに――あ。いらっしゃいませー」

「えっ、ちょっ……!」


 電話が掛けられる直前、店に客が入ってきた。

 これでスマホは返してもらえるかと安堵したのも束の間。

 圭は電話番号と名前が書かれたメモだけをテーブルに置くと、伊澄のスマホはエプロンのポケットに入れて接客に向かった。


「それも置いて行くでしょ……!」

「何名様ですかー?」

「二人でーす」


 応対に入った圭に詰め寄って取り戻すことも躊躇われたため、伊澄は席に座り直して圭が戻ってくるのを待つことにした。

 新しく入ってきたのは、前下がりのショートヘアーの女の子だ。パンツスタイルでもあるせいか活発な印象を受ける。彼女が口頭と指で人数を示したところで、もう一人が入ってきた。

 その一人を見て、伊澄の思考はスマホを取り返すことから、ある少女との出会いを思い出すことへと変わる。

 記憶の中で姿が合致した瞬間、声は口から出ていた。


「……あれ?」

「…………あっ」


 伊澄の声が聞こえたわけではなく、彼女もたまたま伊澄が視界に入って気がついた。

 固まる少女とその視線の先を見て、圭と活発そうな少女は首を傾げている。

 やがて、最初に口を開いたのは、何かを閃いたのか拳で左手のひらを軽く打った圭だ。


「相席ですね。畏まりましたー」


 その気遣いは別のときに出来ないのかと、伊澄はがっくりと項垂れた。




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