ニライカナイの童達【本編完結済】

青川志帆

第一部

八重山編

第一話 兄妹

 兄は、変わり果てた姿で帰って来た。


兄様あにさま……?」


 少女は、砂浜に横たえられた兄の傍に膝を付いた。


 嘘だ。息をしていないなんて。こんなにも顔が青いなんて。


「ククル」


 老婆が、少女――ククルに近付く。


「ティンは、漁で死んだのだ」


 兄はいつも通り、父と共に漁に行った。ククルは行く前にも、行っている間にも兄の安全を祈っていた。それが妹の務めであったし、兄の力になれることが嬉しかったから。


「お前の力が足りなかったのだ。だから、ティンは死んだのだ」


「――私の、せい」


 ククルは動かない兄を、じっと見下ろす。


 兄様、目を覚まして。いつものように、「ただいま」って言って。


 涙が溢れて、止まらなかった。




 この辺りの島々には、兄弟が漁に出る時は、その姉妹が兄弟の安全を祈るという風習があった。兄弟に自分の髪を持たせたり、人形を作ったりと祈り方は様々である。


 特にククルの家は神の血を引くと言われるせいか、妹の祈りが絶対だった。“兄”と“妹”の二人は、なくてはならない存在だった。


 だからこそ、周りはティンの死をククルのせいだと思う。ククル自身も、自分を責めずにはいられなかった。


「兄様……」


 差し込む朝日で目覚めた途端、涙が頬を伝う。既に葬儀も終えて一月経つというのに、いつまで経っても涙が枯れることはない。


 自慢の兄だった。いつもククルに優しくしてくれた。


「どうして――」


 髪を二つに結いながら、ククルは悔しそうに呟く。


 いつものように、祈ったはずだった。


『兄様、今日も安全な航海をお祈りしています』

『ありがとう、ククル』


 朗らかに笑って、ティンはククルの頭に手を置いた。いつも通り。何もかも、いつも通りだったのに。


「ククル」


 祖母が、いつの間にか部屋の中に入って来ていた。


「ばば様」


 ククルは涙を拭い、布団の上に正座した。


「また泣いていたのかい」

「はい……」


 唇を噛み締めるククルの前に、祖母は座る。その鋭い眼光を正面から見ることが出来ず、ククルは自分の指を見つめた。


「話がある」


 覚悟を促すような口調だった。


「お前も知っているだろう。この家は、“兄”と“妹”なしに成立しないと」


 祖母の説明は、幼い頃から何度となく聞かされたことであった。それは起源も忘れ去られた古い伝統。家に男女どちらかが生まれない時は、分家からどちらかを連れて来て“兄”と“妹”にする。


 何故なら、妹の持つ神の力は兄だけに有効だからだ。


「残念ながら、お前の“兄”になれる男は分家にも居ないようだ」


「そうですか」


 元より、期待していなかった。誰が、ティンの代わりになれるというのだ? 優しくて凛々しくて、誰もが羨む兄であったティン。誰が、そんなティンに代われるというのだ?


「しかし、代わりを見付けた」


 祖母は後ろを見やり、手招きした。


 そこに立っていたのは、みすぼらしい少年だった。髪はぼさぼさ。着ている着物は酷く薄汚れて、所々破れている。


 ただ、その目が印象的だった。鋭く、何にも屈することのなさそうな黒い目。その目は、何かを思い出させた。


「彼は私達の血族ではないが。名は、ユルというそうだ」

「――ユル


 ククルは、ただその名前を繰り返す。


 ユル。そうだ、彼の目はまるで真夜中の空のようだった……。




 ククルはのろのろと仕度を終え、居間に向かった。


 そこには、ユルが居た。湯浴みを済ませ、真新しい着物を身に着けたユルは随分とこざっぱりして見えた。後ろで一つに束ねられた髪は、思いの外艶やかだ。


 だけど、彼はティンではない。似ても似つかない。


「お前の名は?」


 正面に座ったククルに向けて、ユルは声を掛けた。その、少年らしい高すぎず低すぎない声で、ククルはようやく我に返った。


「ククル」


「ふーん」


 ユルは、ただそう呟いた。


「どうしてあなたが、私の兄様になるの……?」


「さあな。あのばあさんに聞けよ。そこらへんほっつき歩いてたら、いきなり、兄になれ――だもんな。びっくりしたぜ」


 ユルは笑ったが、ククルは笑わなかった。


「あなたは、どこから来たの?」


 村では、一度も彼を見たことがなかった。


「んー、ちょっと遠くから。身寄りもないし腹減ってたから、ばあさんの要求に飛び付いちまった」


「そう」


 追求することは他にいくらでもあったはずなのに、ククルは問いを続ける気力もなかった。


「兄っつっても、同い年ぐらいだよな。オレは十三だけど……お前も?」


 ククルは、こくりと頷いた。


 ティンとは五つ離れていた。同い年の少年を兄と思うことなど、出来るのだろうか。




 ククルは朝食の後、白い砂浜に一人座って海を眺めていた。


 目に染みるほど、青く美しい海。あの水がティンの命を奪ったのだと思うと哀しくてたまらないのに、海は変わらず澄み切って、輝いている。


 兄は、船から落ちて死んだのだという。あんなに泳ぎも達者だったのに。父は助けようとしたが、突然荒れ狂い出した海は兄を呑み込み――ようやく父が見付けた時には、兄は命を落としていたのだという。


 やはり、自分の祈りが足りなかったからなのか。祈りが足りず、守り神となれなかったのか。


 また、涙が溢れて来る。そうすると、過去の思い出が鮮やかに蘇って来た。


 あれは、一人で泣いていた時。気付いたティンが、ククルの顔を覗き込んで尋ねたのだった。


『ククル、どうしてそんなに泣いているんだい?』


『……母様に怒られたの』


 ククルは昔から要領が悪く、家事を手伝っても何か失敗することが多かった。ククルが引っ込み思案で会話が下手なせいもあってか、父母も祖母もククルにはあまり優しくなかった。


 一番ククルに優しくしてくれたのが、誰であろう兄のティンだったのだ。


『私は、何も出来ないの。兄様に、ご馳走作ってあげることも……手拭いさえ縫ってあげられないの』


 不器用なククルは昔から、料理や縫い物が大の苦手だった。


『ククルは、他の誰にも出来ないことが出来るじゃないか』


『え?』


『ククルはいつも、海に出る私のために祈ってくれるだろう。お前が守り神になってくれるからこそ、私はこうして元気なんだよ? ククルは凄いじゃないか』


 そうしてティンは、優しくククルの頭を撫でてくれたのだった。


「兄様……」


 ごめんなさいごめんなさい。


 心に満ちるは、謝罪の言葉と罪悪感と――終わることのない哀しみだった。




 家に帰ると、母が渋い顔で出迎えた。


「どこに行ってたの?」


「浜に」


「ふらふらと出歩かないでちょうだい。いつまでも、泣き暮らして良いわけじゃないのよ」


 母の叱責に、ククルはうつむく。


「ティンが死んで哀しいのはあなただけじゃない。いえ、むしろ私の方がずっと哀しいわ」


 母の目には、怒りが浮かんでいた。


 母も、自慢の息子を失ったのだ。ククルは、その怒りを理不尽だとは思えなかった。


「せめて、ばば様の仕事を手伝いなさい」


「……はい」


 ククルは母の横を通り過ぎようとしたが、母は急に彼女を呼び止めた。


「あなたは、あの男の子が何者か知ってるの?」


 ククルはしばらく考えてから、首を振る。母がユルのことを言っているのだと、気付いたのだ。


 遠くから来たということしか、聞いていなかった。


「全く、ばば様も何を考えているのかしら。どこの子かもわからない子を家に入れて、ティンの代わりにするなんて」


(兄様の代わり……)


 ククルは唇を噛み締め、足早に祖母の部屋に向かったのだった。




 祖母はユルと何やら話し込んでいた。


「おや、ククル。ちょうど良いところに来たね。お座り」


 示されるがままに、ククルは祖母の隣に腰を下ろした。


「ユルは、お前の兄となることを改めて承知してくれた。だが、まだ細かいことは教えていない。それはお前が教えておやり」


 祖母の発言を聞き、ククルは顔を強張らせた。


 そんなククルを、ユルは無感動に見やる。その鋭い視線が怖くて、ククルはただ頷いた。


 祖母は満足したように腰を上げ、部屋から出て行ってしまった。


 後は二人に任せる、ということなのだろうか。


「で?」


 かなりの間が空いてから、痺れを切らしたようにユルは口を開いた。


「この家における、“兄”って何なんだ?」


「それは……」


 必死に説明をしようとしたが、頭で整理している内にユルが舌打ちした。


「とろくせえ奴。何でも良いから、言えよ」


 気遣いも何も感じられない、粗野な口調。そこでククルの胸に沸き起こったのは、激しい怒りだった。


(こんな男の子が、兄様に代わるなんて……!)


「――嫌」


「は?」


「私、あなたを兄だなんて認めない」


 ククルの涙を溜めた目に気圧されたのか、ユルは息を呑んだ。


「絶対、認めない……」


 立ち上がり掛けたククルの腕を、ユルが掴む。


「勘違いすんな。あのばあさんが許可して、オレはこの家に入ることになった。別に、てめえの許可なんて要らねえんだ」


 ユルの黒い目が、ひたとククルを見据えた。


「オレはお前を利用するだけだ。この家は、兄と妹が居なければ成り立たないんだろ。なら、お前もオレを利用すりゃ良いだろ。そんなら認めても認めなくても、どうでも良いんじゃねえのか」


 冷え冷えとした声で問い掛けられ、ククルは涙を堪える。


 心は拒否していた。だけど、彼を兄として受け入れなくてはならないのだ。


 ククルは、心を決めて口を開いた。


「私は……“兄”に力を与えることが出来るの」


 何かを吹っ切るように、ククルは説明を始めた。


「力?」


「そう。私の家は神様の血を引いているから、神の力を持つの。だけど、それを具現化出来るのは“妹”だけ。そしてその力は、“兄”だけに有効なの」


「へー。姉と弟でも大丈夫なのか?」


「うん……何故か、そういう前例は聞かないけど」


 因果なのかどうか知らないが、今までは兄と妹の例しかなかったらしい。


「血縁じゃない兄妹は今回が初めてだと思うから、上手く行くかわからない」


「ふーん。妹が祈ると、兄は神の力を手に入れられるってか。どういう力なんだ?」


「とても強くなって、癒しの力も持つ」


 ククルは、いつかの例を思い出した。


 あれは、海賊が島を襲った時だった。村人に請われ、ティンとククルは海賊と対峙した。ククルが授けた神の力でティンは鬼神のように強くなり、一人で全て海賊を生け捕りにしてしまったのだった。


「だから、この島には欠かせない存在なの。私達そのものが、守り神のようなものだから」


 守り神。兄すら守れなかったけれど――。


「ここは村長の家なのか?」


「長ではないの。強いて言えば、神女ノロの家かな。でも、みんなは神の家って言う」


 神事を執り行う役目を負ったノロの仕事は、今は祖母がこなしている。


「神の家、ねえ……」


 ユルは、ぽつりと呟いた。




 ユルは、我が物顔で家に居座った。


 ティンの部屋からユルが出て来るところを見る度、ククルは複雑な気持ちになった。


(兄様じゃないのに……)


 出て来る度に、ティンではないかと期待してしまうのだ。


「おい、ククル」


 ティンとは違う粗野な口調で、ユルはククルに話し掛ける。


「な、何?」


「村を案内してくれ。ずっと家に居たら、体がなまって仕方ない」


「……わかった」


 一応とはいえ、兄妹になるのだ。表面上だけでも、仲良くせねばならない。


 二人は並んで、外に出た。もう昼過ぎなので暑い。太陽の光が、じりじりと肌を焼いた。


 通りがかった村人は、詮索するような目付きでククルとユルを見て来た。ユルの存在は祖母が皆に話したと言っていたから、『これが例の』とでも思っているのかもしれない。


 妙齢の女性が二人、こちらを見ながらひそひそ話している。彼女達に気付いたククルは、思わず駆け寄った。


「あ、あの!」


 女二人は顔を見合わせ、ククルに向き直る。


「トゥチさんは、どうしてますか? 知ってますか?」


「……トゥチは、島を出たわ」


 衝撃的な答えに、ククルは思わずふらついた。


「おい、誰だよトゥチって」


 いつの間にか、ユルが傍に立っていた。


「兄様の、許嫁……」


 彼女に、兄を死なせたことをずっと謝りたかった。なのに、ずっと会ってくれなくて……挙句の果てに村を出たなんて。


「どこに行ったか、教えてくれませんか……?」


「あなたには言わないよう、言われたから。じゃあね」


 二人は素早く踵を返し、行ってしまった。


 ククルは下を向いて、必死に涙をこらえることしか出来なかった。


 きっと、トゥチも自分を恨んでいるのだ。ククルはたおやかで優しいトゥチが大好きだったけれど、トゥチもククルをかわいがってくれたけれど。トゥチは、ティンを死なせたククルを憎んでいるに違いない。


「突っ立ってたって仕方ねえだろ。早く、案内してくれ」


 ユルに急かされ、ククルはかちんと来た。


「――何で、そんなこと言うの? 私は今、そんな状況じゃないってこと見てわからないの?」

「ああ? お前の都合なんて知るかよ。へえ、同情して欲しかったのか」


 ユルは、吐き捨てるように言った。


「お前、オレを兄と認めないってなら、オレに兄貴の影を求めんじゃねえよ。どんな兄貴だったか知らないけど、オレはそいつとは違うんだからな」


「言われなくてもわかってる! あんたなんか、兄様の影なんか全然持ってないくせに!」


「あーもう、うっとうしい女! オレ、一人で回るぜ。せいぜい、一人でめそめそ泣いてろ」


 ユルはあっという間に、浜の方に駆けて行ってしまった。


(兄様……)


 とうとう耐え切れなくなって、ククルは涙を一つ落とした。





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