Sacred Dagger/1

 人気のない雑木林――

 生い茂る木々の隙間から差し込む陽光。それはレースのカーテンのようにひどくはかなげ。

 それでいて、たわむれる輪舞曲ロンドのようで、ひっそりとたたずむ廃墟と化した古い聖堂に降り注いでいた。

 建物全体をキツく拘束するツタはくすんだ茶緑。抵抗力はとうに限界を迎え、壁は無残にも崩れ落ちている。

 蝶番ちょうつがいが外れて色褪せている両開きの扉は、うつろげに半開きだった。その隙間から中がうかがえた。

 内壁の板はあちこちがれ落ちて、明かりとりの燭台しょくだいは原型をひとつも留めていない。

 穏やかな春風漂う昼なのに、蔓延はびこる木々の葉っぱの威圧感は絶対服従のように暗かった。

 申し訳なさそうに差し込む光の中で、埃が人を惑わせる妖精のように、キラキラと舞い踊るのは狂想曲カプリッチョ


 真正面奥――祭壇へと続く身廊しんろう

 床一面を覆う大理石は、輝きなどとうに失せていて、濁った水たまりのような不透明さだった。

 両脇に幾重にも連なる山脈なような参列席。

 杞憂きゆうの法則が当てはまらない、抜け落ちた天井にのしかかられ、ボロボロであちこちで行き止まりとなっていた。


 荘厳と神聖の象徴――ステンドグラス。

 色とりどりの宝石のような美しさは、月日という研磨剤でくすみ切り、砂埃がこびりついていて、威厳と癒しの玉座から引きずり下ろされたようだった。

 現在進行形の不浄と過去の純潔が混在する聖堂。怪奇的でありながら幻想的。

 人が来るような場所ではなかったが、祭壇の右側、一番前の参列席に線の細い男が座っていた。両肘をテーブルの上につき、両手は額の前で組まれている。

 手のひらには、肌身離さず首から下げているロザリオが握られ、神への祈りを半刻ほど静かに捧げていた。

 しかし、目を閉じているはずの、男には不思議なことにこう見えていた。


(――浮遊霊が……集まってきてしましましたね)


 まぶたはゆっくりと開けられ、冷静な瞳が景色の色を吸い込んだ。

 ロザリオは上質なブラウスと肌の間に、慣れた感じで落とされる。両方の手のひらを天井へ向けたまま顔と同じ高さへ上げ、優雅に降参のポーズを取った。

「困りましたね」

 左腰に挿してある――Sacred Dagger――聖なる短剣のつかを、人差し指と中指で流れるような仕草で挟んだ。


 そうして、ずば抜けた霊感――を使う。


 すぐに触れるチャンネルを変え、さやからすっと抜き出した。それは物質ではなく、霊界での透き通ったダガー。常人には決して見ることができないもの。

 影のある水色の瞳は、マグマをも瞬間凍結させるほどの冷たさで、氷のやいばという代名詞がよく似合う。


 男の名は、崇剛 ラハイアット、三十二歳。神父で聖霊師。


 濃く淡い、真逆の絶妙で吸い込まれそうな青――瑠璃色。それを基調とする貴族服に身を包む、崇剛の百八十七センチの体躯は決して運動には向かない。

 時折、崩れた建物からの隙間風が、崇剛の優雅なオーラに彩色され、まるで舞踏会でダンスを申し込むようにひざまずき、片手で裾に触れてゆく。

 しなやかでツヤのある紺の髪は、背中の半分までの長さで、崇剛の心のうちを表すように、わざともたつかせ感を出して、後ろでひとつに束ねているリボンはターコイズブルー。

 まとめきれなかったおくれ毛があでやかに頬にかかる。それを耳にかける手は細く神経質。顔立ちは中性的で、どこかの国の王子かと勘違いするほど綺麗だった。

 まだぼんやりとしている浮遊霊たち。

 ダガーを持ったままの手は、物質界と霊界のものがぶつかることなく、白い細身のズボンに入れられ、中にあったものを取り出した。

 丸く小さいそれは、わざとくすみを持たせた鈴色の幾何きかがく模様。マリンブルーの三本の針がそれぞれの長さと速度を見せるアラビア数字盤――懐中時計。

 冷静な水色の瞳はほんの少しだけ落とされ、


(十三時四十三分二十六秒)


 崇剛が時刻を確認するのは、小さい頃からの癖のようなものだった。時計はすぐにしまわれる。

 優雅に微笑み、おどけた感――芯があるのに遊線ゆうせん螺旋らせんを描くような、独特の声がこの世ではなくあの世で、ゆらゆらと浮かぶ幽霊たちに向けられた。


「――そんなに、私に構ってほしいのですか? 仕方がありませんね。そちらをすることが、私は嫌いではありませんからね」


 参列席からスマートに立ち上がり、茶色いロングブーツのかかとをカツカツと鳴らしながら身廊へ出た。

 左右の足を前後にずらし、クロスさせる寸前の細身をさらに強調するようなポーズを取る。

 ダガーを挟む指先の力を慣れた感じで一旦抜き、重力に逆えず下に落ちてゆく柄を、逆手持ちにして身構えた。

 そうして、優雅な聖霊師の中で奏でられる。


 バッハ ミサ曲 ロ短調――

 ――Kyrie eleison/しゅよ、あわれみたまえ。


 いきなりのフォルティッシモで体中に響き渡る、幾重もの聖なる声は、低く暗い故意の不協和音。神聖と荘厳を創造し、悪との戦いを前にして、身を清めるような調べ。

 神が選びし者に与えという特殊能力メシア。そのうちの千里眼を保有する崇剛。そので恐れずに見つめる。現世の自分とは違う法則で、浮遊する幽霊たちを。

 ジリジリと詰め寄られる間合い。

 神父の中に流れ続けるミサ曲は、この祈りを捧げる。


 ――Qui tollis peccata mundi/世の罪を除きたもう。


 おそれと全身を貫くような神聖なるものに身を任せ、安寧という名の闇へ、まるで青い海が広がる断崖絶壁に立ち、両腕を水平に広げ、空を真正面から見つめる形で、背中からダイブするような感覚――神がかりなエクスタシー。

 生と死の狭間に絶妙なバランスで立たされ、悪霊と一人対峙する聖霊師。水色の瞳はついっと細められた。

「神の元へ帰らず、地上へと少しでもとどまった者は地獄行きです。それでは、行っていただきましょうか?」

 優雅な声が不浄な空気に舞うと、それが合図というように、悪霊との間に張り詰めていた空気が一気に崩れた。

「それがほしい……」

 霊力は地位や名誉と同じであるばかりか、自身のエネルギーにもなる価値あるもの――メシアの千里眼。我先に手に入れようと、浮遊霊が白く透き通った手を一斉に伸ばしてきた。

「昼間ですから瑠璃さんはいませんので、お願いします」

 魂を成仏させるためには、崇剛はいつも二人三脚。いや三人四脚なのだが、誰かが出てこないまま戦況は動き出してしまった。

 白い手のひとつが崇剛の右腕に伸びそうになった。ダガーで銀色の一直線を描き、鮮やかに斬り裂く。

「ウギャ〜ッ!!」

 叫び声が体の内側――脳の奥にこびりつく。気を狂わせるような悲鳴だが、悪霊との戦闘など日常茶飯事の崇剛は強い精神で跳ね飛ばす。

 冷静な水色の瞳は微動だにせず、悪霊を数センチの距離で見ても恐れやしない。

 しかし、青白い幽霊の手は煙のようにゆらゆらと揺れ、あっという間に原型へと戻った。

「あなたは正神界なのですね。ですから、こちらが効かないのですね。あなたの動きを封じることは、私にはできません」

 邪神界と戦うために、神から与えられた力。味方である正神界には効かない。

「っ!」

 次に襲いかかってきた手には、聖なるたダガーはしっかりと刺さった。

「グオーッッ!!」

「邪神界のまま転生したということですね。すなわち、悪に魂を売りさばき、罪を償わずに生まれ変わった」

 正神界が闇へ葬り去られそうなご時世では、人殺しをしようと何だろうと、罪は問われることなく、平然と人生を歩めてしまう。

 崇剛は持ち手を変えず、左手でダガーの柄を取る仕草をする。するとそれは、ふたつに分身し、左手には何も刺さっていない刃物が現れた。

 悪霊を刺した右手はそのままに、壁を手の横で叩く要領でダガーごとはずし、燭台の下にある木片へ向かって突き放した。

 聖霊師の紺の長い髪が、振動であでやかに揺れ動く。線の細い瑠璃色の貴族服から、悪霊が空中を猛スピードで横滑りしながら離れていき、


 ズバンッ!


 壁にはりつけにされ、宙づりになった。邪神界のあかしである黒い影が魂から抜け出し、風船のように浮き上がった。

 悪霊に囲まれた神父は、ロングブーツのかかとを濁っている大理石の上で、砂埃のズズッという雑音をともなって反転する。

 上着に忍ばせている魔除のローズマリーの香りがほのかに立ち上る。今度は祭壇を正面にして立ち、聖霊師は幽霊に優雅に微笑んで見せた。

「あなたはこちらがお望みですよね?」

 霊力の集まっている場所ははっきりと濃くなる。勝利をほしがる崇剛は血も涙もなく相手の急所――弱点をついてくる。

 迫ってきた霊ののど元をえぐるようにダガーで突き刺し、ダーツの矢を投げる要領で、真正面へ向かって冷酷無残に射放った。

 死霊という特急列車の通過をホームから見送るように、冷静な水色の瞳から霊はみるみる遠くなっていき、ひび割れたステンドグラスは、


 ガシャンッッッ!!!!


 ダガーから発せられるメシアの強い力で、派手に砕け散った。再び左腰元の鞘にしまったままの物質界のダガーへと手をかけ、霊界のものを取り出す。

 左手に刃物を握ったまま自分の右肩へ向かって、自傷行為につながりそうな勢いで振り下ろし、

「そちらから来ると思っていましたよ」

「ウワッ!!」

 苦痛の声が上がるが、幽霊の白い手に刺さるだけで、一瞬ゆらっと揺れてすぐに元へ戻ってしまった。

 自分の体に浮遊霊の手がかけられてしまったが、優雅な聖霊師はなぜかくすりと笑う。

「困りましたね。正神界だったのですね、あなたは」

 神父の体はぐらっと後ろへ傾き、そのまま四方八方から別の手たちが伸びてきて、肉体から魂が無理やり引きずり出された。

 重力のかかる感覚が軽くなり、すぐ目の前に瑠璃色の貴族服を着た自分の後ろ姿が立っていた。

 まるで糸が切れた操り人形のように床に崩れ落ち、自分を自分が見ている状況下でも、聖霊師の崇剛は優雅に微笑む。


「幽体離脱ですか。さて、どのようにしましょうか?」


 このままでは死という出口のない迷路へと、悪霊たちによって投げ込まれてしまう。

 メシアという霊力の高いものに惹かれ、浮遊霊は次々と集まってきてしまい、敵の数は最初の倍以上になっていた。

 しかし、焦りという感情を簡単に抑え込める、崇剛の冷静な頭脳は絶えず正常に稼動中。

(そうですね……? こちらのようにしましょうか?)

 同じ次元となった悪霊の手を、細く神経質なそれで直接剥がしながら、青白い触手の群れを次々とダガーで迎え撃つ。

「左右両方でしょうか!」

 素早くダガーを分身させ、同時に短剣二本が銃口から放たれた弾丸のように、宙で鉛色の尾を引きながら離れてゆく。

「どちらも邪神界だったみたいです」

 ふたつの悪霊が爆風を巻き起こしつつ、濁った大理石の上を横滑りしていき、祭壇と、


 ズバンッ!

 ガシャンッ!


 ステンドグラスにそれぞれ磔となった。

 それにしても、戦闘開始時に願った誰かは未だに出てこない。戦況は劣勢に傾きつつある。

「仕方がありませんね。あの方にも困ったものです」

 神父の手に素早く握られた新しいダガー。次々に襲いかかる浮遊霊を縦横無尽にさけながら、聖霊師はあきれたように、天へ向かって問いかけた。


「どのような可能性を導き出されたのですか?」


 可能性――

 崇剛の思考回路を形作る言葉。


 不浄な霊界で優雅な声が舞うが、それでも誰もこない。崇剛は霊を斬り裂きながら少しずつあとずさって、とうとう壁際へ追い詰められてしまった。

 古い聖堂とはいえ、聖なる結界がうっすらと張られている。神に与えられたメシアを持っている崇剛は、もれずにそれに体をさえぎられてしまい、絶体絶命のピンチを迎えた。

 手がふたつ同時に伸びてきて、聖霊師は両手首に手錠をかけられたようにつかまれてしまった。そのまま壁に強く押しつけられ、中性的な唇から思わず苦痛の吐息がもれる。

「くっ!」

 優雅な神父は多くの悪霊に拘束されてしまった。手首をロープか何かで縛られたように、頭上高くへ無理やり持ち上げられる。

 袖口で優美をたたえているロイヤルブルーサファイアのカフスボタンは、持ち主から最高潮に離された。

「っ……!」

 聖霊師が持っていられなくなったダガーが強制的に戦闘不能へを追いやられる。ストンと床に落ち、縦に突き刺さった。

「苦しめばいい……」

「悲しめばいい……」

「死ねばいい……」

 丸腰で無防備となってしまった神父へ、悪霊の青白い口から浴びせられる怨念おんねんの数々。

 死という恍惚こうこつとさせるものの中で、崇剛の紺の髪は戦闘で乱れに乱れ、神経質な頬でみだらに絡み合っていた。

 悪霊たちの怪力で、両腕はさらに高くへと引き上げられ、茶色いロングブーツは床から離れ、屈辱的な拷問を容易に想像させる吊り責めの形となった。

 幽霊たちの優越感が不透明水彩絵具ガッシュで塗りつぶすように冒涜ぼうとくする。

「それが寄越せ……」

「それがほしい……」

 このままでは、本当の意味で犯さる――けがされてしまう。そのはずなのに、崇剛の崇剛の優雅な笑みは健在だった。

(困りましたね。生者必滅しょうじゃひつめつでしょうか)

 自由が奪われた神父の冷静な水色の瞳はついっと細められた、至福の時というように。


(ですが、こちらで、勝つ可能性が非常に上がりましたね)


 この場を乗り切るために、崇剛はわざと今の状況へと自分自身を陥れていた。つまりは冷静な策略家の聖なるいざないの罠だった。

「それがほしい……」

 崇剛の魂底へと向かって、次々に青白い手は濁流のように伸びてきて、霊力とメシアを根こそぎ奪われるそうになった。

 どこの世界からもいなくなる――消滅。輪廻転生りんねてんせいも叶わない、本当の死を突きつけられる。

 それでも、崇剛の優雅な笑みは絶えることなく、恐怖という文字は己の辞書にあるが、冷静な頭脳で簡単に封印してしまえる、千里眼の持ち主は姿を現さない人へ問いかける。

「こちらのままでは、私が天へ召されますが、よろしいのですか?」

 彼の中で勝算が上がってゆく。

 魂の姿形――霊体。神――しゅに祈りと感謝を欠かさない神父の霊体には、首からかけられた銀のロザリオがあった。かろうじて、その聖なる力によって、神父の魂――命は守れていた。

 敵の数が多すぎて、体を左右へねじさけてを繰り返しているうちに、霊体の髪を束ねていたターコイズブルーのリボンは、スルスルと床へ落ちた。

 紺の長い髪はとけ、崇剛は急に女性的になってしまった。悪霊たちから死という強姦を受けているような有様だった。

 しかしまだ、聖霊師は優雅に微笑み続け、冷静な瞳にはどうしようもないほどの数の悪霊を映しながら、

「また何か他のことをされているのですか?」


 その時だった――

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